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と或る王の物語   作者: 雪野千夏
第一部 国売りのセド

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閑話 と或る文官の決断

 どんな夜も歓楽街から灯りが消えることはない。酔っ払いと婀娜っぽい女の声が入り混じる通りを抜け、ユビナウスは女たちのいる店に入った。お兄さんいい男、と頬の傷に手を伸ばす女の手をすり抜けたユビナウスは、受付の男に金を握らせると足早に階段をかけ上がった。柄にもなく緊張していた。頭からすっぽりかぶっていた外套を外し、貴賓室の一室の扉を叩いた。

深夜の訪問に対し、タラシネ皇子は驚いた顔を見せたが、特段何をいうこともなかった。すでに休んでいたらしい従僕が眠そうな目をこすりながら、ユビナウスの席を整える。続き部屋の奥は明るく、何か話合いでもしていたのか、その奥の机にはいくつもの大きな紙が広げられていた。

「一国の皇子がこのようなところにいらしてはいささか不用心に過ぎませんか?」

「ああ、王の仰る対価をどうしようかと思ってね。考えていたのだよ」


 訝し気なユビナウスの視線に、タラシネ皇子は笑った。疲れた様子は見えず、その柔らかな笑みは見るものの心に入り込む。ユビナウスの張り詰めた心にもそれは同様だった。


「それでこんな夜更けにセドの担当官がいらっしゃるとは急な用件なのだろうか」

「セドの対価について、王から追加の条件が加わりましたのでお知らせに参りました」


 ユビナウスは懐から宰相から預かった書状を取り出した。タラシネ皇子に渡す。封蝋を確認し、書状を開いたタラシネ皇子の手が止まった。わずかに眉間に皺が寄った。


「金銭以外のものを対価にとあるけど、どういうことなのかな?それだとどうやって比較し決めるかが分からないのだけど」

「存じあげません。ただ、これから王となられる人の覚悟を見たいとのことでした」


 元々書状の内容は知らされていない。王の考えも宰相の考えも分からなかった。ユビナウスは適当に口にした。タラシネ皇子は喋らなかった。

 沈黙に耐えかねたユビナウスが顔を上げれば、タラシネ皇子がじっと見つめていた。


「でも、これホント?」

「御璽と、許可印を見ていただければ」

 タラシネ皇子は机の上に国売りのリドゥナと書状を並べた。

「ま、一緒だよね。だけど、国売りのリドゥナが偽造できる国の、公文書なんてなんの信用性もないよね」


 タラシネ皇子は明るくいうと、書状を丸め、蝋燭に近づけた。乾いた紙に火はすぐに移る。ユビナウスの目の前で書状はあっという間に灰になった。

 タラシネ皇子は席を立つと、ユビナウスの前に立ち、ユビナウスの頬に手を伸ばした。


「痛そうだね。酔っ払いにでも絡まれたかい?傷の手当をしていくといい」

「いえ、この後も参加者を回らないといけませんので」


 頬に触れられ、ユビナウスがそっと身を引けば、タラシネ皇子は柔らかくユビナウスの頬を掴んだ。細い指は力強くユビナウスを拘束した。


「それなら尚更だ。弱い人間はいいカモになるからね」


 ユビナウスが痛みを顔に乗せるより早く、タラシネ皇子は手を離した。隣の部屋に向かい、こちらの部屋との境に立った。


「薬箱を持ってきてくれ」

 従者に言いつけた。

「僕は君の言葉だけを信じるよ」


 タラシネ皇子は隣の部屋とこちらの部屋の境に立ち、ユビナウスに背を向けたままぽつりと言った。

 ユビナウスはとっさに音を飲み込んだ。驚愕が表情に出ないよう必死だった。

 薬箱を待つタラシネ皇子は「遅いねえ」と従者を揶揄うと、緩慢な動きでユビナウスを振り返った。ユビナウスの顔を見て微笑んだ。


「酔っ払いのことだよ。表が騒がしいからね」


 そういうとタラシネ皇子はまたユビナウスに背を向けた。ユビナウスはじっとその背を見つめた。力なく首を振った長官の姿と、部下を守ろうとした長官の姿。宰相にからめとられた自分。

 ふ、とユビナウスの目にタラシネ皇子の腰の剣帯が目に入った。

 急いで身支度を整えたのか、剣帯が緩かったらしく、タラシネ皇子は剣帯を軽く持ち上げた。ユビナウスの目は剣帯にくぎ付けになった。

 振り返ったタラシネ皇子が小首を傾げた。


「そんな熱く見つめられても、僕はお相手できないけれど」


 ユビナウスは心を決めた。その腰にあるのが王の剣帯ならば、示すことは一つだった。

「お話があります」

「そう。なるほどね。この国のお歴々はなかなかだね」


 ユビナウスの話を聞いたタラシネ皇子は笑った。話を聞く前も後も変わらなかった。


「驚かれないのですね」

「知っていたからね」

「知っていた?」

 そこから語られた王とタラシネ皇子の関係と、今回のセドの裏側はユビナウスを驚かせた。


「謀反。……では、王はセドに出される前にリドゥナの存在を知っていたというのですか?」


 ユビナウスの頭を目まぐるしく情報が行き交う。表情を読まれないように、少し頭を下げタラシネ皇子の靴先を見た。


「どうなさいますか」

「どうもしないよ。君を困らせるつもりはないからね」

 卑怯な訊き方にタラシネ皇子は宰相に脅されたままでいい、と答えた。

「君は自分の仕事をすればいい。迷うことはない。あとはこちらでうまくやろう」

「どうなさるおつもりなのですか。ラオスキー侯爵もニリュシードも使えないでしょう」


 ユビナウスは同じことを訊いた。タラシネ皇子の言葉が真実なら、このセドはセドの名を借りた国盗りだ。


「構わないよ。ハル・ヨッカーとブラッデンサ商会がいる」

「使えるのですか?セドはリドゥナを得てからは資金力の勝負です」


 そして資金力ではニリュシードが一番だ。勝ち目はない。


「このセド、別に私たちは勝つ必要はない。負けなければいい。それまでにヘンダーレ領に行ったブロード・タヒュウズが証拠を掴んでくるはずだ。そうすれば、王も兵を動かせる。それまで私たちはこのセドで時間を稼ぐ必要がある。相手もできるなら王の気まぐれで平和に譲位させたいだろうからね。ブロードの帰りが送れるか、戻らなかったときは君にも協力を求めるかもしれない」


 ユビナウスは頷いた。探りに行って戻らない。ブロード・タヒュウズには悪いが、それもまた重要な情報だ。ユビナウスにはもっと情報が必要だった。もう一つ手札を切った。


「一つ、心配なことが。私が脅されたとき、サルナルド将軍も同席されていました」

「なるほど、軍部も掌握されている可能性がある、と。やはりひとつお願いしてもいいかな。もし、何か不測の事態が起きた時、王の逃げ道だけは確保しておきたい。避難経路を調べてもらえるかな」

 ユビナウスは頷きながら、訊ねた。

「どうして、そこまで王のことを?」

「私にできた初めての友達だからね。大人になってやっと心を預けられる人なのだよ」


 いくつかの情報を交換し、ユビナウスは部屋を後にした。絶望と焦燥にかられた行きと違い、使命感に満ちていた。やるべきことが明確になった。足取りも軽かった。

 その背中を二階からタラシネ皇子は見送っていた。


「よろしいのですか。話をされてしまって。宰相と接触する人間ですよ」

「大丈夫、大事なのは味方にすることじゃない。敵にしないことだ。彼は私たちのためには動かないかもしれないが、国のためになら動いてくれる。貴重な情報源だよ」


 タラシネ皇子は夜道に消えるユビナウスに微笑んだ。

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