一話 記憶
「ぷゃ......ぷゃ......」
安らかな寝息が微かに響く静かな詰所の寝室で、紙の束に目を通しながらユエが口を開いた。
「健康状態は良好......栄養状態、外傷。その他諸々に目を通しましたが、問題はございません。ですが――」
そこまで言ったところで、ユエが私をぴたりと見据える。
「重要なのはここからですわ」
そう言いながら、手元の束をパラパラとめくりながら言葉を続ける。
「遺跡内部にて、二体のグールと交戦。更に交戦の最中に二体が一体に融合......興味深い。野良のグールでは到底ありえない芸当です。が、そんな事はどうでもよろしい」
話し続けるユエの両目は、穏やかな口調とかけ離れた、無邪気に輝く子供の様それの様な輝きを放っている。
「この少女がそのグールに触れ、魔素へと分解した......貴女の発言をまとめると、こんな感じですか。間違いありませんわね?ソワレ様」
「......まあ、そんな感じに見えたけど」
「ふむ......」
ゆっくりと息を漏らす。かと思えばかつかつと靴を鳴らし、室内を歩き回り始めた。ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら顎に手を当ててその辺をウロウロしている様は、どう控えめに見ても変質者にしか見えない。
不意に足を止めたユエは再び話し始める。
「ソワレ様は、死霊術師の魔術原理をご存知でしょうか?」
「何よ、藪から棒に......ええと、死者の魂に術式を使って闇の魔素を固着させるんだっけ」
「まあ、概ねその通りですわ。そうして生まれた存在がグール。ですがこの子がやってのけたのはその逆......グールの魂から、魔素を引き剥がすという行為」
ユエの顔面はもはや引きつっている様な、それはもう凶悪な笑みと化している。
「いわば構成された術式を逆からなぞる様な物です。高位の術師ならいざ知らず、こんな幼い子供が出来るとは考えられませんわ。詳しくお話を聞きませんと......!あはあぁ、早くお目覚めにならないかしら......!」
「うわぁ......」
若干ヒイていると、ベッドに横たわる少女がもぞもぞと動き出していることに気づく。そして......。
「ふゃ......はわぁ。おはようございまふ......はれ?ここはどこですか?」
寝ぼけまなこを擦りながら、少女が目覚めた。
「おはよう。体にどこかヘンなとこ、無い?」
問いかけると、少女は快活な声を部屋に響かせる。
「大丈夫です! 元気ですよ!」
そういう少女のお腹から子犬の鳴き声の様な音が鳴り、顔を赤くしてすぐさま手で押さえる。まあ、あれだけ寝ていればそりゃお腹も空く。
「お腹、空いちゃいました」
「あはは、元気そうで良かった。何か食べたい物ある?」
「良いんですか? じゃあ、えっと......パンを、お願いします!」
「ん、パンね」
「私が持って来よう。ソワレ殿は、その子と話していてくれ」
「ありがと」
イズモちゃんは席を立ち、部屋には私と少女、そしてユエが残った。その灰色の瞳は、強烈な視線を少女に投げかけている。
「あのお姉さん、怖いです......」
「あ、あはは。アレは気にしなくて良いよ。私はどう?怖くない?」
「お姉さんは、怖くないですよ! 優しそうです!」
「そっか、ありがと。私はソワレ。あの怖いおねえさんはユエさん。さっきパンを取りに行ってくれたのが、イズモちゃん」
「ソワレさんに、ユエさんに、イズモさん......覚えました!みなさんのお名前、覚えましたよ!」
そう言う少女の顔には、太陽の様な笑顔が浮かび上がる。
「ふふっ。じゃあ、自分の名前は、分かるかな?」
「はい!私は、シャリテです!」
「シャリテちゃん、ね。じゃあシャリテちゃん、家はどこか分かる?お母さんとお父さんの名前はどう?」
「はい!ええと、私の……」
そこまで言ったところで、シャリテの顔が急激に曇り始めた。
「わたしの……? お父さん、お母さん……?」
「……シャリテちゃん?大丈夫?」
「分からない……? 何で、何も……?」
そう呟くとシャリテは頭を抱え、苦しそうな呻き声を上げ始めた。次第に瞳の焦点も合わなくなってきている。
「……ッ! ユエ!」
呼ぶまでもなく駆け寄ってきたユエは、シャリテの頭に手を置き、睡眠魔術を唱える。
頭の上に置かれた手が光を放つと、呻き、強張っていたシャリテの体が弛緩していき、やがて再び眠りについた。
「これは、一体……?」
「まあ、記憶喪失、という事でしょうね」
「聞けば他にも何か覚えているかもしれませんけれど、負担をかけるのは好ましくありませんわ。ふぅ……色々とお聞きしたいことがありましたのに……」
そう言いながら、ユエは手元の紙を持って何処かへと行ってしまった。そしてその入れ替わりに、パンが山盛りに詰まったカゴを持ったイズモちゃんが部屋に飛び込んで来る。
「持ってきたぞ!パン屋のおじさんが焼きたてを......あれ、また寝てしまったのか」
イズモちゃんは残念そうに顔を伏せ、シャリテが寝ているベッドの側にある机に、そのカゴを置いた。
「記憶喪失なんだってさ、この子」
「な、記憶喪失……!何も覚えていないのか?」
「ううん。シャリテって言う自分の名前は覚えてたけど、他は何も。聞いたら苦しみ出して、ユエが眠らせたんだ」
「そうだったのか……ううん、困ったなぁ」
顎に手を当て、何やら考え込むイズモちゃん。
「どうしたの?」
「いや、この子の身元を特定して親御さんの元に送ろうと思っていたのだけど、分かっているのが名前だけだとちょっと厳しいかなぁ……」
「ああ、そっか」
見たところ年は十四、五才くらい。一人で旅行できる年でもないし、この国の子供なのかな。
「ビスクの生まれじゃないの?」
「いや、今騎士団の手が空いている者に役場の資料を片っ端から見てもらっているが、少なくともビスクで子供が行方不明になっているという報告はここ数年上がっていない」
「そうなんだ……ねえ、イズモちゃん」
「なんだ?ソワレ殿」
「もし仮に、この子に身寄りがなかったら、その時はどうなるの?」
その質問に、イズモちゃんは少し悲しげに答えた。
「ビスクの孤児院に預けられるか……里子に出される事になる」
「……そっか」
「でも、名前が分かったのは僥倖だ。王国の資料室に名前で問い合わせてみよう。明日には返事が届くはずだ」
「……手際いいね、イズモちゃん」
「ふふん、これでも騎士団長だからな!」
言うなり、イズモちゃんは慌ただしく部屋を飛び出して行った。
静かな室内に、パンの香りが漂う。
もし、もしも万が一、この子が次に目を開けた時、この世界に自分を知る人間が誰も居なかったら、この子は何を思うんだろう。
私はあの時、何を思ったんだっけ。




