前編
理由は分からないが怖いものがある。
ある人は少しだけ空いた襖の間だったり、ある人は大きな送電用の鉄塔だったり。潤谷健吾にとっては、たまたまそれが二段ベッドだったというだけの話だった。30を超える歳になっても自分が寝ていない方のベッドから軋む音やうめき声やら聞こえてはいけない何かが聞こえてきそうで気味が悪く苦手だった。
とはいえ、彼には兄弟がいたわけでもなく、ましてやベッドから落ちてケガをしたような経験が思い当たるわけでもなかった。嫌見えないもの、聞こえないもの、そこにないものを空想しては自傷行為のように恐怖を増幅させていのだ。これは健吾の持論だった。
「ま、そんなんだから俺らは儲かってるんだけどな」
彼の独り言がつい口を突いた刹那、ピピッという電子音と共に室内が光で満たされる。潤谷は業界ではそこそこ名の知れた写真家で、主に世間では心霊写真と呼ばれるジャンルを専門としている。よくコンビニの雑誌コーナーで端の方に陳列してある胡散臭いオカルト誌なんかに掲載されることの多いものである。読者投稿として掲載されている斜視運のうち半分ぐらいは彼のようなカメラマンが撮影したものだ。カメラマンも雑誌は呼んでいるから一応読者であるという乱暴な論は今もなお健在である。
とはいえ、写真家でご飯が食べられる人間は一握り中の一握りということを考えると、その点で健吾は優秀だった。それらしいものが写っていれば読者は勝手にそこに幽霊を見つけてくれるものだ。潤谷はいつもそんなことをうそぶいている。つまり、彼は「それらしいもの」を撮るプロなのである。
『会社員の鮎川隆太郎さんは人と会うと言って出かけたまま帰っておらず、不審に思った家族が捜索願を出したとのことでした。鮎川さんの変死体が発見されたのはI県の山中で―――』
今年小学3年生になった彼の一人息子である文哉の様子がおかしいと妻の碧が言い出したのは平成最後の夏が始まる頃。関東から東北を日替わりで地上を襲う熱波と過度の湿気が首のあたりにまとわりつく嫌な夜だった。文哉は既に寝室で寝ていた。今日のプール開きで体力を使い果たしたのだろう。
「健吾さん」「ん」
健吾が碧と結婚して10年。相変わらず碧は健吾を「さん付け」で呼ぶ。子供ができたタイミングでパパと呼ぶこともできたのだろうが碧は頑なに「健吾さん」と呼んだ。彼女なりのこだわりがあったのだろう。テレビではどこかの会社員が変死体で発見されたというニュースがしきりに流れている。年は健吾と大して変わらないようだった。
「今朝ね、文哉が外におじさんがいたって言うの」
「おいおい、仕事じゃないんだから勘弁してくれよ」
「真面目な話」碧の眼光がちらりと光る。「すまん」
健吾は麦茶の入った青い琉球ガラス出てきたグラスとテーブルの上に置く。
「健吾さん、寝てたからあんまり騒がせないようにしていたんだけど、夜からずっといたっていうのよ。そして、朝になったらいなくなったって。夢だとは思うんだけど、君が悪くって」
深夜の仕事の多い健吾は大概朝も遅くまで寝てしまっているのだ。
これが一回きりの話であれば健吾も見逃した。もちろん、碧だってそうだはずだ。しかし、文哉は1日おきないし、少なくとも3日に一回は同じようにおじさんを見たと言い出した。そして、梅雨が明ける頃には日中まで同じおじさんを見たと言い出す始末で、健吾はともかく、碧がどんどん疲れてしまっていた。
夕方、碧と文哉が一緒に夕食の買い物に出た時も不意につないでいた手をくっと引いては今あそこにいたと誰もいない空間を指さす。碧がその方を向くともう人影はないそうだ。しかし、不思議と健吾がいる時には文哉はおじさんを見ないらしい。
「夏休みになってあの子が毎日のようにあの話をし出すと思うとあたし、どうにかなっちゃいそうなの」
翌週から小学校が夏休みに入るというある晩。頭を両手で覆った碧は健吾に漏らした。
「今はどうにか我慢できてるの。私もパートに出てる間は忘れられるし。でも、あの子が休みに入ったら私もパートお休みもらってるし。お祓いとかした方がいいんじゃないのかしら。健吾さん、その辺は伝手があるんでしょ」
「確かに撮影の前なんかは編集部が準備してくれたところでお祓いをしたりはするけど、意味があるかって言われたらわからないよ」
はぁ、と碧はあからさまに肩を落とす。
「あの時、お家に行かなければこうはならなかったのかもしれない。だから、あたしは入るのは嫌って言ったのよ」「それはもう済んだ話じゃないか」「ええ、そうだけど」「ごめん」
沈黙。答えは出なかった。陰鬱な夏休みはすぐそこに迫っていた。
健吾の両親が死んでもう13年が経っていた。病弱だった母親が肺炎を拗らせてあっという間に逝くと、後を追うようにその1年後には父親もこの世を去った。孫を見せてやれなくて悪かったと健吾は仏壇に向かって言っていたのを碧は何度も目撃していた。碧自身の複雑な心中を健吾は知っているのだろうか。碧は長らく訊けていない。
そんな健吾の両親が終の棲家としていた家は昔ながらの木造平屋で押せば倒れてしまいそうな造りをしていた。主を失って13年。放置され続けていた家は健吾の父親の知り合いだという不動産管理人が一応の管理をしてくれていた。そして、その管理人からおよそ10年ぶりに健吾に連絡があったのは2018年の春先のことだった。
編集部との打ち合わせを終え、明るいうちに撮影場所の下見済ませてしまおうとS県の山中を車で移動している時だった。尻を震わせる振動を確認して車を端に寄せて画面を確認した。非通知の電話番号には普段でないようにしている健吾が、この着信は珍しく応答ボタンをタップしたのは何かの巡り合わせだったのかもしれない。
「もしもし」
「あぁ、健吾さんお久しぶりです」
耳に覚えのない関西訛りを感じる男性の声だった。
「ええと、失礼ですが、どちら様でしょうか」
「すみません、お父様のお家を管理させていただいております、城久でございます」
そこでようやく城久という10年前の健吾の最後の記憶ですら70代に見えた白髪の壮年男性の像が結ばれる。彼が言うにはあの家の取り壊しが決まったということ。費用は掛から愛ように手配したが、土地の権利をどうしたいか、そして、最後に見ておきたいのであれば手配する旨の電話だった。
碧と相談して健吾は土地など一切の権利を放棄することを決めた。なにせ、都会のデッドスペースのような場所で使い勝手も悪い。税金をとられるのですら馬鹿馬鹿しいほどのものだった。しかし、最後に家は見ておきたいという意思を碧に伝えると彼女はそれを快諾した。
一家が健吾の出身地であるI県に赴いたのは5月の連休明け最初の日曜だった。潤谷一家3人は来月にはこの地上から姿を消す建物の前に立っていた。健吾がカメラを持ってきていたのはほとんど職業病だったのかもしれない。
「だいぶボロボロになってるのね、ちょっと気味が悪いぐらい」
碧の率直な感想は文哉も同じだったみたいで母親から離れようとしなかった。
「お久しぶりです、健吾さん」
突然後ろから声をかけられ、謙吾がぎょっとして振り向くとそこにはグレーのスーツを着込んだ老人が立っていた。
「ええと、城久さん?」
「ええ、さようでございます。ずいぶんと立派になられて。お子さんが生まれたというお話は風の便りで聞いておりましたが、こんなに大きくなられて。お父様もお喜びのことでしょう」
恭しく頭を下げたこの老人と自分の父親の関係を健吾は良く知らない。左の手の甲にある古傷におもわず目が行く。
「おじさん、けがしたの?」
「ああ、これは昔少しやんちゃをしましてね。その時の傷なんです」
「あぁ、すみません。今回はいろいろと便宜を図ってくださってありがとうございます」
「文哉、ほら挨拶して」碧が文哉を促す。文哉は緑の後ろに少し隠れるようにして「潤谷文哉です」と小さく自己紹介する。
「文哉さんですか。素敵なお名前です。どうぞよろしく」
では、早速中をご覧になられますか。と中へと案内してくれる。
「私は文哉とここで待ってるわ。健吾さんだけ見てきて」
健吾はもちろん無理強いをするつもりはなかったが、自分の生家を気味の悪いものとして見られてしまったことに少なからず気を悪くしていた。
本当は息子に見せたかったのだ。自分がどこでどう育ってきたのかを。
「お父さん」「ん」「僕も入っていい?」どう伝わったのか、文哉が自発的についてきてくれた。碧が気を付けてねと何度も念を押して家屋に入った。
埃と土と腐食した木とその他諸々何かわからない匂いが混ざった臭気が家中に漂っていた。健吾はそこがどんな部屋だったのかを文哉に伝えながら各部屋を回っていく。城久は無言で後ろを亡霊のようについてきていた。
「ここがお父さんの部屋だよ」
「2段ベッドだったの?」「ああ、下は物置になってたけどな」
部屋に入ってすぐ右側。当時、健吾が使っていた二段ベッドがそのままに残っていた。そのベッドをカメラに収めておこうとファインダーを覗いて切り取る。その瞬間だった。
映画で見るようなフラッシュバックのような感覚が健吾を襲った。頭を揺らすような衝撃で思わず健吾は膝をついた。
「パパ?大丈夫?」文哉の心配そうな声や城久が肩を持ってくれている感覚はあるのだが、思うように体が動かない。そして、健吾は思い出した。
自分はこの二段ベッドがとてつもなく嫌いだった。ということを。
すぐに家を出た後の健吾は何もなかったかのように元気だった。城久に礼を言って今後の手続きの一切を任せることに同意すると一家は帰路に就こうとした。そして、碧が後悔してやまないことが起きたのはこの時だった。
「あぁっ!」
突然文哉が素っ頓狂な声を上げた。「どうしたの」碧が彼に尋ねる。
「メダル置いてきちゃった。すぐ取ってくる」
そう言って文哉がこともあろうか家の中に一人で戻ってしまったのだ。彼の言うメダルとは最近小学校ではやっているアニメに登場するアイテムで、それを使って対戦をしたり交換をしたりと彼らの社交界では必須のアイテムなのだ。
そして、彼が家に戻って1分もしない内に叫び声が上がった。その声に弾かれるように健吾が家の中に飛び込むと健吾の母親、文哉からすれば祖母の部屋で泣きじゃくる彼を見つけた。なんでも、メダル置いてしまっていた鏡台を見たら自分の後ろに誰かがいたというのだ。
「怖いと思って見ると、何かいるような気がしちゃうんだ。大丈夫」
そう言い聞かせて泣きじゃくる文哉を抱えると健吾は生家を後にした。
そして、文哉が「おじさんがいる」と言い出すのがこのさらに2週間ほど後のことになる。
当たり障りのない、いつものような写真で十分。健吾が編集長に言われて訪れたのはS県にある廃ペンションだった。あたりは当然のように静まり返り、虫の音だけがむなしく響いている。健吾からすれば、廃墟はさして怖い場所ではない。むしろところどころに人がいた痕跡があるだけほっとする。そこで何があったかは別の話だが。
いくつもの棟に分かれたペンションを一見ずつ撮って回る。フラッシュがたかれた瞬間だけ健吾の目には利用者がいた頃のペンションが見えたような気がしていた。健吾自身もこれがあくまでも想像の一つであることは理解していたが、最近は意識しすぎているのかどこを撮りに行ってもそんな幻視が見える。
撮った写真のいくらかをチェックして、人影に錯覚させやすそうな影をおさめることに成功したことを確認する。針に蛍光塗料が塗られた大きめの腕時計は午前3時を指していた。
「今日は帰るか」
独り言だ。自分以外誰もいないことが確認できている場所ではどうしても独り言が出てしまう。車の中なんていい例だろう。
そうして、5棟あるペンションの最後の一つを撮り終えた健吾は各部屋に取り残しがないか確認をしながら出口を目指していく。そして、見つけてしまった。恐らく使わなくなった結果、物置のような場所にしまい込まれていた二段ベッドを。健吾の世界が渦巻いた。
健吾は二段ベッドの上段にいた。
降りるための梯子は見当たらなく代わりに鉄格子が付いている。
さながら独房だ。
そして、彼は自分の手がやけに幼いことに気が付く。
何かが聞こえる。
声?
苦しそうな声。
幼い声。
誰?
そして、声が止む。
その刹那、ベッドのマットレス部分から細く青白い無数の手が生えてきた。
悲鳴を上げたはずの健吾の口からは空気らしきものしか出てこない。
手は健吾の足をつかみ、
体をつかみ、
首をつかみ、
顔を撫で、
頭を覆うと完全に健吾を飲み込んだ。
うごめく腕は次第に一つの闇になった。
目が覚めると健吾は二段ベッドの前に倒れていた。埃と土の強い匂いがする。
急いでカメラを確認する。どうやら壊れてはいないようだ。
今見た映像は記憶なのか妄想なのか、彼に判断がつかなかった。
自分は監禁されてるようだった。ただ、誘拐をされたような記憶やそれに準ずる何かひどい目にあったことなどなかったはずだ。
とはいえ、引き金はどうしても「二段ベッド」のようだった。
健吾はスマホを取り出すと時間を気にせず掛けられる先輩ライターである浅岡に電話をかける。幸いにも浅岡は2コール目で電話に出た。
「すんませんこんな時間に」
「どうした、俺が恋しくなったか?」
浅岡はこんな時間にかかってきた電話にもかかわらず嬉しそうだった。
「馬鹿言わないでくださいよ。ちょっと浅岡さんに調べてもらいたいことがあって」
「俺の調査料は高くつくぞ」
「叙々苑一回でどうですか」「先輩を食い物で釣るとは、やるるようになったな。乗った」
「先輩のお陰ですよ。で、調べてもらいたいのが今から30年ぐらい前にI県で会ったかもしれない誘拐事件です。しかも複数誘拐」
「なんだよ、その『あったかもしれない』ってのは」
「いや、俺の妄想かもしれないんすけど、それもその誘拐に巻き込まれていたかもしれなくて」
「とはいえ、30年前で誘拐事件なんてわんさかあるぞ。他に何かないのか。特徴的なやつが」
「おそらく犯人は子供たちを鉄格子のついた二段ベッドに監禁していたと思います。それ以上はちょっともうわからないですね」
はじめは「うーん」と唸っていた浅岡の急に声のトーンが変わる。
「あ、いや、なんか聞いたことあるような気がするぞ。まぁ、伝手がないわけじゃないからな。何かわかったら連絡するよ。お前は自分の仕事に集中しろよ。俺と違ってありがたいことに守るものがあるんだからな」
そう言って浅岡は電話を切った。
頼りになる先輩をもって健吾はありがたい一心だった。浅岡とは2社前に出入りしていた出版社でお互いフリーのライターという立場で出会い、20歳も上の先輩だが同郷ということもあり意気投合しこれまで先輩として慕ってきた。浅岡は主に刑事事件の裏を暴くような記事を書くことで有名で警察に伝手があるのはもちろんのこと、あらゆるところに知り合いがいるようだった。彼ならきっと何かしら見つけてくれそうな気がしていた。
夏休みに突入しても相変わらず文哉は「おじさん」を見ていた。碧の疲弊は目に見えるもので、健吾はいよいよ文哉を病院に連れていくか、お祓いの類を受けさせるかを考えだしていた。「おじさん」による現象はついに碧にも確認できる段階に進んでいいた。
「だって、チャイムが鳴ったのは私も聞いてるのよ」
7月末の昼下がり。リビングで文哉と録画していたドラマを見ていると、家のチャイムが鳴った。そして、文哉がいつものごとく「僕が出る」といって玄関に走っていく。自分専用の踏み台に登ってのぞき穴を覗いた文哉はそこから転がり落ちるように玄関に向かってきた碧に抱ききついてきた。
「どうしたの文哉?」
「外に、おじさんがいる」
涙目の文哉が訴えたのはおおよそ、そんなところだった。ドアにチェーンがかかっているのを確認して碧が覗き込むとそこには誰もいない空間が広がっていた。そして、その日は健吾が帰ってくるまで碧は玄関のドアを開けなかった。
「私はお祓いがいいと思うの。きっとあの家に何かいたんだわ。だって、健吾さんも眩暈がしたって言っていたじゃない。それに、そもそもあの城久さんだっけ、あの方だってなんだか怪しかったし」
碧はとにかく何か理由が欲しかった。息子の異変の変化が。
「まぁ、確かにお祓いをするだけで解決するならやってみるのもありか」
しかし、さらに夫婦を悩ませたのが文哉自身だった。
「僕、お祓いとかしないからね」そう彼は頑なに病院へ行くこともお祓いを受けることも拒むのだった。自分が見ているのはあくまでも生身の人間であるというわけだ。そうなってくるといよいよ気味が悪くなってくる。
「文哉自身が嫌だと言っているのを無理くり連れていくってのも気が引けるよな」「ええ」
息子が寝ている部屋の扉に目線を送りながら夜な夜な夫婦は頭を抱えた。
文哉はここの所、ほぼ毎朝「おじさんを見た」と言い張る。日中、公園やそこに続くまでの路地で見るだけではなく、文哉の部屋からも見えている。しかし、潤谷家が住むのは一軒家ではない。集合住宅だ。マンションの3階の窓からどうして生身の人間の顔が見えようか。なんなら、文哉自身にも説明ができずもごもごする始末なのだ。健吾自身もこの件をこれ以上この場で議論したくなかった。あからさまに話題を変える。
「先週、浅岡先輩に頼んでた件なんだけどさ」
浅岡に連絡を取ってから4日が経過したところで浅岡自身から連絡があったのだった。
「あぁ、誘拐事件の話でしょ。進展があったの?」
「うん、確かに30年前にI県で複数児童誘拐監禁事件があったみたいなんだ」
「あなたもそこに?」「いや、それが分からなくて。なにせ十数人いた子供たちの名前は同時のメディアにしては珍しいけどあまりにもショッキングな内容だったから伏せられてたんだ。いま、そこも先輩に探ってもらってる。ただ―――」
「ただ?」「犯人は捕まってないのと、誘拐された児童の数がはっきりわかってないみたいなんだ」
「どういうこと、じゃあ未解決事件ってことなの」「そう。犯人が捕まってないのは、うまく逃げおおせたってことにしても、誘拐された児童の総数が分かってないのは諸説あるみたいで、犯人に噛みついて自力で脱出できた子がいたとか、犯人に逃がしてもらったって証言した子がいたとか、そもそも誘拐されたと気が付かなかなかった子がいるとか、そんなところらしい」
時計の二本の針がガコッと音を立てててっぺんを指す。
「なんか身代金を要求される誘拐より気味が悪いね。健吾さんもその中にいたかもしれないってことでしょ」「うん。でも、覚えてないんだ。何せ5歳だったからね」
碧は心底気味が悪いと言った様子で萌黄色のサマーカーディガンを羽織り直した。
「でも、ただ一つだけ保護された子供たちの証言が一致したのがあったんだ」
「二段ベッド」碧が声を落とす。「そう、帰ってきた子供たちは一様に二段ベッドを怖がったらしいんだ。俺に関しては親父もお袋にももう聞けないから確かめようがないんだけど、たぶんそうだったんだと思う」
碧は何も言わずに健吾の後ろへ回ると耳元で囁いた。
「もう平気。健吾さんは大丈夫。何かあれば私が守るんだから」
碧の細い体が健吾を温かく抱きしめた。「あぁ、ありがとう」健吾がその手をとる。
「文哉の件だけどさ」「うん」
「俺たちだけで進めるのはもうやめよう。ちゃんと話そう」
「ええ、そうね。あの子とちゃんと向き合わないと。私たちが親なんだから」
潤谷家の最後の明かりが消えた。穏やかな夜が静かに更けていく。