春宵 At Spring Dusk
うたた寝から目覚めると、暗い夜の底に庭があった。
沈丁花のむせるような香に少し咳き込んで、淑子はそっとまぶたをあげた。もう既に暮れてしまった春の空の下に、薄紫色に変容した闇がひろがっている。
東の山際が少し明るくなって、山の端にかすんだような月がかかっている。どこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
淑子は縁側で椅子の背にもたれてまどろんでいた。淑子はこの暗い閉ざされた庭に、ひとり取り残されたように座っていた。沈丁花が薄闇の中で仄かに白い。沈丁花のこの麻酔のような香りに、淑子の心はもう麻痺している。風が木々の梢を揺らし、夕べの鳥が舌打ちをするように鳴いている。
この家は、夫の親が残した郊外の築数十年の一軒家。庭は母屋に接していて、家屋と裏山の雑木林にはさまれた広い空間だ。雑木林では、先ほどから夕暮れの生暖かい風が木々の梢のあいだを吹きすぎて、薄暗い林のシルエットが影絵のようにゆらいでいる。
北から温暖前線が南下している。窓はすべて開いていて、湿った空気が家の中に流れてくる。庭の片隅の黄色いエニシダの茂みに、春の気配が顔を埋めている。闇の中で小さなカエルがこっそり小さな声で鳴いた。
庭の中のあらゆる物の存在が希薄になり、淑子の魂は庭の闇の中に溶けてしまいそうになる。
二
淑子は縁側に肘掛け椅子を出して、数時間前から遅い午後の庭を眺めながら編み物をしていた。そして、いつのまにか毛糸の玉と編み棒が淑子の手から縁側の床の上に落ちていた。淑子はなま暖かい春の大気のけだるさに誘われるかのように、椅子にもたれてここちよい眠りの中にいた。今、眠りのあと波のように押し寄せるうずきにも似たけだるさと戦いながら、淑子は薄目づかいに庭を見まわした。この小さな椅子に縛り付けられたように座って、淑子は一人この暗い閉ざされた庭に取り残されている。静かだった午後の庭はいつのまにか夕暮れが影を落としていた。風はエニシダの葉を揺らし、春の気配をゆさぶり、カエルを黙らせて吹きすぎていく。しかし、風の中に淑子はあの声を聴いていた。どうしても戻れない場所に連れて行かれそうになるのをあらがうかのように、淑子は風に心をさらしていたのだ。
あの風は、絶え間ない不安の息づかいのように淑子の耳元でささやいていた。
「このようにして、おまえは私と一緒に去ってゆく」
風は、淑子以外には誰にも聞こえない声でそうささやいたのだ。
三
淑子の心は浄福感に充ちていた。この予定調和のような家族の幸せを脅かすものは何もなかった。
一人娘のまゆはこのあいだ結婚した。結婚式当日家を出たのが、つい昨日のように思われる。娘に去られひとり取り残された淋しさに胸を突かれ、淑子はなぜかすべてが元に戻ればいいと思った。
庭に人の気配がする。庭に出てみる。仄かに暗い庭の片隅に人影が見える。まゆが嫁ぎ先から帰ってきたのだろうか。まゆは裏庭から家に入ってくることがよくあった。
女がいる。庭の植え込みのかげに女が立っている。若い娘が、雑木林を通る道から裏の木戸を開けて、庭に入って来たのだ。
長い髪で切れ長の眼をした二十歳くらいの娘だ。闇の中から染み出てきたように、ほっそりした紫色の影になって風の中に立っている。
見ていると、その娘は木戸のところで躊躇しながら佇んでいるので、淑子は思いきって声をかけた。
「どなた?」
「あ、ごめんなさい。玄関が分からなかったもので・・・。 高階さんというお宅、こちらかもしれないと思って・・・」
「えっ高階さんですか・・・。うちは山本ですけど。この辺に高階さんてお宅あったかしら」
満月が山の端からすっかり顔を出して、まばゆい月光が庭に差し込んできた。女の顔が月の光に映えてくっきりと浮かんだ。髪が風に揺れて、顔を半分覆い隠していたが、なにか物言いたげな娘の口元が淑子の心を動かした。
「なんだか、うちの娘とよく似ている。目元がそっくりだ」淑子は心の中でそう思った。
「どうも失礼しました。急に入ってきて、おどかしてすみません」
庭に入って来た闖入者は、そう言って後ろ姿を雑木林のシルエットにとけ込ませるようにして、裏の木戸を通ってまた出て行ってしまった。
「私の娘も大きくなるとあんなになるのかしら」淑子は、出て行く娘の後ろ姿を目で追いながら、ふと我に返ったように思った。
えっ、おかしいわ。まゆはあの人と同じ年頃よ。この間結婚したばかりで・・・。
その時、庭のどこかで子供の遊んでいる声が聞こえた。
あれはまゆかしら。ちょっと待って、そういえば・・・。そんなはずはない。私は間違っていたわ。まゆはまだ五才だったはず。家のどこかにいるはずよ。
「まゆ!」と呼んだが返事はない。どこかで赤ん坊の泣き声が聞こえる。
淑子は泣き声が聞こえた方に目をやった。さっき、泣いていたのは娘のまゆだったのか。そうそう、まゆはまだ五才の子供よ。さっき裏の木戸から入ってきた娘は誰だったのかしら。私はやはり夢を見ていたのだろうか。
ええ、何か勘違いしていたわ。まゆはまだ幼子で、結婚するような年ではないわ。今のはきっと夢だったのよ。淑子は、午睡のここちよさが自分の感覚をすっかり麻痺させているのを感じた。
沈丁花の香りが強くなった。沈丁花の香りはなぜか淑子の心に不安をかき立てる。
まゆはまだ二階の部屋で寝ている。ずっとお昼寝をしていてまだ起きてこない。まゆは、ベッドの中で人生の長い夢を一瞬のまどろみのうちに育んでいる。夢の中で彼女は成長した一人の娘になって、私の夢の中に入り込み、私を訪ねてきたのかしら。それとも私は夢の中で、いつか成長して嫁いでゆくまゆの未来の姿を見たのだろうか。
四
淑子は夫の帰りを待っていた。夫は音楽大学の講師で、民族音楽を教えている。
淑子がいる部屋のとなりのピアノのおいてある部屋には、いろいろな民族楽器が置いてある。ダルシマールやツィンバロン、そのほか様々な名前も知らない世界中の民族楽器が部屋を埋め尽くしている。さっきの赤ん坊の泣き声は、楽器たちが立てた音だろうか。
ダルシマールがまた鳴ったような気がした。淑子はとなりの部屋に行ってみる。ダルシマールは壁に掛かっていた。風でつるしてあったハンマーが揺れて楽器に触れ、ダルシマールの弦が鳴ったのだろうか。
・・・淑子は夫との出逢いを思い出した。
ある博物館で開かれた民族音楽展のデモンストレーションで、夫はダルシマールを弾いていた。大学で音楽を専攻していた淑子は、夫に話しかけ、その後付き合うようになった。そして結婚したが、それ以来何年の月日が流れたのだろう。
灯りもつけない部屋に、満月のまばゆい光が差してきた。部屋中が光であふれたようになる。幸せな結婚生活の浄福感が彼女を充たしていた。
部屋の中の楽器の冷たい硬質な手触りが淑子を現実に引き戻した。壁にかかった黒い十字架が揺れている。ふと胸騒ぎがした。沈丁花の香りがまた強くなった。なぜか淑子の心に不安感が胸に広がる。
夫はもうすぐ帰ってくるはずよ。今日はたまたま帰りが遅いだけよ。夫は帰りが遅いときはいつも電話をかけてくる。
夫は駅から自転車で帰ってくる。もう団地の角を曲がったはずよ。遠くでサイレンの音がする。淑子はなぜか胸が苦しくなる。団地の方から救急車のサイレンが聞こえる。電話のベルがなる。夫からの電話だわ。
淑子が電話に出ると、それは救急隊員で、夫が帰宅途中トラックにはねられて病院に運ばれた、と告げた。
机の上を見ると、夫の写真が飾ってあるのが眼に入った。写真を入れた木の枠に黒いリボンがかかっている。 その写真のなかで夫は淑子を見つめ、淑子に向かって笑いかけている。「そう、私はもういないのだよ」彼の口元は淑子にそう言っているように見える。忘れかけた記憶が波のように淑子の心の岸辺を洗っている。
「忘れていた。そうだったのね」
沈丁花の香りが開けた窓から入ってきて、部屋の中まで押し寄せてきた。
夫のいない部屋で、またダルシマールが鳴った。
五
夫との結婚生活の中で、淑子はときおり夫の奇妙な話に耳を傾けることがあった。
夫はある時、淑子にこんな話をしてくれた。
「淑子は馬の自己実現について考えたことがあるかい。
もし、草原を一頭だけで自由に走りたいと思い続ける馬がいたらどうだろう。彼は、日頃競馬場で懸命に走っているが、それは餌を得るためだけだ。馬肉にされないためだ。とりあえず今日のレースを走っている。彼が着に入れば馬主は喜んでくれる。賞金を稼ぎ続ければ、馬肉にされずにすみ、うまくいけば引退後は種馬生活だ。
しかし、彼には夢がある。くらもあぶみも何も身体につけないで、彼の祖先が野生で走ったあの草原を地平に向かって走り続けたい。たとえ力尽き衰弱し草むらで野ざらしになって死んだとしても、彼は満足するだろう。
だが、彼はいつからこのような願望を持つようになったのだろう。彼の、生きるために競馬場で走り続ける毎日の生活に何か矛盾していないだろうか」
淑子は夫の馬の話を聞いたあと、不思議な感覚におそわれた。
夫が語る馬は、どこまでも地面を駆ける。馬が目指すのはこの世の地平の彼方だが、淑子がいつもこの世界に対して日常的にいだく感覚は、それとは違っていた。この世で自分がいる場所が見つからないという感覚だ。間違った土地に来てしまい、庭に閉じこめられ、その閉ざされた庭から外に出られない。自分は間違った星に来てしまった。自分のいた星に帰りたい。かぐや姫のように、あふれる光につつまれて天上の自分の星に帰りたい。
夫の話は、さらに淑子を不安な気持ちにさせた。夫の馬は、淑子を残して地平の彼方に走り去ってしまう。そして淑子は、救われない存在として娘と一緒にこの世にひとりぼっちで取り残されてしまう。
淑子は思った。自分を救ってくれる救済者がきっとどこかにいるはずだ。でも、この世に降りてきた救済者は誰なのか。すべてが、存在を呑み込む時との戦いだった。
そのとき、淑子は気がついた。いやされない孤独から救い、安息の場所に連れて行ってくれる救済者はすぐそこにいた。そう、まゆは母にとっての救済者なのだ。私にはこの子が必要だ。そしてまゆと私は一体となり、救済される救済者となる。
六
淑子は、夫が残した一冊のノートをのぞいたことがある。夫は研究のため、フィールドワークに出たときの記録をノートにまとめていた。そこに、フィールドワーク中に夫が見た幻影のことが書いてあった。それは、現実だったのか、それとも熱病で高熱のためうなされて見た夢だったのか、今となっては分からない。
夫は、西アジアのある地域で出土された古代の楽器を復元するための作業に立ち会っていた。
発掘現場の砂漠の断崖に穿たれた石窟に、古代の寺院の遺跡があった。ある日、夫は一人遺跡に出向いて発掘現場を歩いていた。
ガウンのような白い服をまとった数人の僧侶らしき男たちが、断崖の洞窟に何かを隠していた。夫は思わず石の柱の後ろに隠れた。白いガウンは遠い昔の僧衣の様式だ。よく見ると、男たちは岩と岩の間の割れ目に壺を隠していた。その壺の中に黒い十字架が光っている。僧たちの話すことばは聴いたことのない古代のことばだが、夫にはすべてその意味がわかった。
「おい、ここで大丈夫か」
「もっと土をかけろ。修道院長に見つかったらやばいぜ。巻物はちゃんと隠せよ」
「壺にちゃんと封をしろ。中が見えているぜ。おい、その十字架は何だ」
「なに、お守りさ。もしこれが見つかっても、十字架を見れば、そいつの眼はつぶれちまうさ」
夫は石柱の陰からその男たちのしていることを見ていた。そのとき僧形の一人が夫に気がついた。そして、僧形は十字架を手にかざし夫に向けた。十字架から光が流れ出て、その光は夫を打った。
夫は十字架を見て、その光にうたれて倒れた。夫はもはや起きあがることができなかった。そのとき自分の魂は死んだ、と思った。
七
淑子は、暮れなずむ庭で樹々と対話をしていた。
私を救ってくれるものは誰なのだろう。そう、私に産まれる子供が私をこの世から救ってくれるんだわ。
淑子は、こんな不思議な夢を見たことがある。
来たことがない遠い国で、淑子は広い庭園の中を彷徨っていた。空は曇天で、庭は薄暗がりの中に広がっていた。どこか遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
バラやポインセチアの咲きほこる庭の一角にカスケードに流れ落ちる滝があって、滝の水が落ちる池の中に噴水があった。そして、池のわきに大理石の母子像が立っていた。
淑子はそばのベンチに腰を下ろし、その母子像を見ていた。それは幼子イエスを抱いたマリア像で、マリアの胸には黒い十字架がかけられていた。それを見ていると、淑子は幸せが胸に充ちてくるのを感じた。母子像の周りには光があふれていた。
その時、突然どこかで時計が十三回刻を打った。鳥の羽ばたくような音がして、不気味な巨大な鳥の影が空をおおった。淑子は思わず両手で顔をかくした。
しばらくすると、誰かが泣いている声がした。
それは母子像からの声だった。大理石のマリア像から涙が流れ落ちていた。淑子は母子像のマリアから子供を奪い、腕に抱いた。すると幼子は淑子の腕の中でみるみる老人に変わって行き、やがて光を発して消えてしまった。幼子は、光とともにこの世からいなくなってしまった。
淑子は、自分の心からも救済者がいなくなったのを感じ、夢の中で深い悲しみにつつまれた。
八
淑子の眼の前に、もうすっかり暗くなった夜の庭が広がっていた。もうずいぶん長いことこうやって庭を前にまどろんでいたような気がする。まゆとの楽しい毎日。あれはすべて思い出だったのか。それとも淑子が夢の中で見た幻だったのか。暗い庭の底で淑子は深海魚のように小さくうずくまっていた。
遊ぶ子供たちの声はもう聞こえない。まゆはまだ産まれたばかりの小さな赤ちゃんで、静かに寝息を立てている。淑子はやはり勘違いをしていた。まゆは五才の子供ではない。
産まれたばかりの我が児に声をかけようと淑子は立ち上がって、寝ているまゆを抱き上げに二階に行った。二階の窓から庭を見おろすと、もうすでにすっかり夜がおちていて、月光が庭を満たしていた。
二階の部屋にいるはずのまゆがいない。すべて買いそろえられ、きれいに整えられた育児用品がその部屋にあった。しかしベビーベッドは空っぽだ。庭を見たが、庭には誰もいない。救済者は消えたのだ。雑木林につながる裏の木戸は開いたままだ。
淑子はまゆを探したが、どこにも見つからない。淑子は階段を下りようとした。階段の下の白壁に、淑子自身とまゆの黒い影が母子像のように焼き付いているのが見えた。
階段の踊り場の開いた窓から、満月の強い光が淑子の眼を射るように差してきた。あれはまゆと私を浄福へと導く光だわ。淑子は、夢のなかがそうであるように、足元の感覚がないまま一歩を踏み出し、階段を降りていった。光が散乱するように階段の空間に舞い、身体が急に軽くなったような気がした。このまま光に包まれて天まで続く階段を私は昇ってゆくのかもしれない。
遠い記憶のようにすべてが思い出された。まゆはここにはいない。
沈丁花の強い香りが開いた窓から入ってきた。めまいがして、淑子は狭い空間のなかを転がりながら一人で落ちていった。そして、階段の下で強く下腹部を床に打ち付けた。最後に、淑子には階段の下に倒れている自分の姿が見えた。
沈丁花の香りが、淑子の身体の上に折り重なる波のように押し寄せてきた。崩れさり消えてゆく救済者の姿が見えた。
遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
「お気の毒です。流産でした」白いガウンを着た男は言った。
失われた、すべては失われた。
「ああ、産まれなかった私の赤ちゃん」淑子は暗い庭に向かって呟いた。




