挺身
目を覚ましたのは夜中だった。私は木の根元に倒れていた。周りを香ばしい匂いのする枝で囲まれている。空には月が昇り地表を薄く照らしている。沼の中で見た時よりも月は太り数日は経過していることが知れた。
ゆっくり体を動かし具合を確かめていると野営地の中心部がにわかに騒がしくなった。ぱっと辺りが急激に明るくなり、鳥馬達も脅え、蹄を鳴らした。焦げた臭いに混じり、男達の叫び声が聞こえてくる。
状況を知ろうとどうにか起き上がる。後頭部の髪が濡れて張り付いているのは出血したからだろうか。
その時、月の光が遮られた。私が顔を上げるとそこには大きな男が立っていた。昼間私をボロ切れのように扱った副長と呼ばれた男よりも大きいのではないか。
漆黒の髪は肩を超えて豊かに流れている。今は泥に汚れごわついているが、さぞかし美しい髪だろう。
檻に囚われていた筈の、ローゼントと呼ばれた男は私をじっと見下ろし、おもむろに小刀で縛を解いてくれた。逆光で表情はわからないが、助けてくれたのは明らかだった。
「お前も、今のうちに遠くへお逃げ」
低く優しい響きを含む声が耳朶を打つ。私の背骨から延髄迄が途端に痺れた。尊い御身分なのだろう、美しい声、優しい心。
沼で目覚めてから、初めて触れた優しさに涙が関を切ったように溢れた。
ありがとうございます。感謝致します。
声は出ないが、精一杯頭を下げて感謝を示した。ローゼント様は何か思案しているようだったが、踵を返して鳥馬の所へ歩いて行った。私も何とか逃げなくてはいけない。よたよたと立ち上がり、なるべく火から遠ざかるよう森に足を向けた。しかし、数本歩くうちに冷や汗と耳鳴りがし始め、気が付いたら地に頭を打ち付けていた。何度も衝撃を受けた私の頭はぐわんぐわんと不平を述べた。もう一度起き上がろうともがいていると、右手をぐいと引っ張られ、鞍上に引っ張り上げられた。鞍にうつ伏せとなった私は頭を動かす元気も無く、目玉だけぎょろりと巡らした。どうやらローゼント様が引き上げて下さったようだ。
下ろしてください。馬上が汚れます。
声が出たらどんなにいいだろう。私を連れていくことで、また捕まってしまうかもしれない。私は降りますという意思表示で地を指し示すと、大きな手で背を抑えられた。
「静かにしていなさい。徒歩では無理だ」
心配するなと言うように、温かい掌で背を叩いた。
私はこれ以上お邪魔にならないよう静かにしていることにした。ローゼント様が手綱を引き、鐙を踏み締めると鳥馬が羽ばたいた。体の何倍はあろうかという羽が風を切ると、我々は空に浮かんだ。地面が離れていくのを息を殺して眺めていると、ローゼント様が、やや右に傾いだ。はっ、と体を硬くするが、手綱を操つる姿は淡々としており、何事もないようだった。鳥馬の大きな翼は力強く風を切り、ぐんぐん上昇していく。野営地は掌程の大きさになっていた。よく見れば、中心部の天幕が激しく炎をあげ、周りにも紅蓮の触手を伸ばしていた。
ローゼント様がおやりになられたのだろうか。ゆっくりと彼を仰ぎ見た。焔に照らされて、初めてお顔が見える。
風に嬲られ現れた秀でた額、真っ直ぐ伸びた高い鼻梁、そして漆黒の瞳。その瞳がどうしたと言うようにこちらを見た。初めてお声を聞いた時のような痺れが走った。まるで夜空のような瞳だった。幾つもの星々が瞬き、私を見つめている。息も出来ない私を訝しげに見ていたが得心いったように頷いた。
「お前は、声が出ないのだったな。今しばし待て。トゥーリン領に入れば奴らも追っては来られまい」
フゥと息を吐くとそれきり言葉を発することは無かった。鳥馬は気流に乗り、時折大きく羽ばたいた。羽の動きに合わせて上昇、下降を繰り返す揺れは、私にとって心地よく眠気を誘った。
異変に気が付いたのは、近くの息遣いの変化だった。大きくゆっくりとしていた呼吸は、今は絞り出すようなものに変わっていた。はっとローゼント様を見上げると上体を折り曲げ歯を食いしばっていた。眼は開いているが生気が無い。周りの景色は大幅に変わり、茶色い山肌が露出した山岳地帯になっていた。私は慌てて起き上がり大きな体を支えた。背中に回した手が何かに触れた。恐る恐る脇から覗くと、一本の矢が右肩の下に触れた。
何ということだろう。発達した筋肉により、肺には到達していなさそうだが、状態がとても悪い。毒でも塗ってあったのだろうか。早急に手当をしなければ、尊い命が失われてしまう。
私は鞍に結わえてあった組紐を解くと、私とローゼント様の胴を結んだ。ローゼント様はもう殆ど意識は無く、鞍に座り手綱を握っているのが不思議なくらいだった。私に出来るかわからないが、お助けするためやるしかない。ローゼンと様の背後からでは手が届かないため、前に陣取り手綱を握った。勿論鐙には足は届かず靴を脱ぎ捨てて足全体で鳥馬を締め付けた。
鳥馬は私に手綱が変わった際、少し同様したが振り落したりはしなかった。ローゼント様はトゥーリン領と仰ったが、何処がそこなのか皆目見当がつかない。
とりあえず、山肌に横穴が空いている場所が目に付いたため、そちらに降りる事にした。
手綱をゆっくり引き、踵で合図をおくると鳥馬は下降を始めた。存外素直な性格であるらしく、私の意図する地に向かってくれた。横穴は以外と小さい入り口だった。背の主人を思ってか、ゆっくりと地に降り立つと首を巡らし私を見た。私は騎乗したまま何とか横穴に進んだ。横穴の奥行きはそんなになく、地面は乾いており、生き物の気配は無かった。切迫する危険は無いと判断して、胴を結んでいた組紐を外した。ぐらりと傾ぐ体を支えながらゆっくり地面に下ろす。私だけの力では到底不可能な作業も、鳥馬が協力してくれた事により上手く運んだ。
何と利口な生き物だろう。ありがとうと首を掻くと、ごぅごぅと喉を鳴らした。素早くローゼント様を横向きに寝かせ、お顔を覗いた。顔色は土気色になり、呼吸は浅く早い。一刻の猶予もない状態だが、私は手当の仕方を知らない。横になるのに矢は折った方がいいのかも知れないが、試してみても硬くて折ることが出来なかった。
どうしょう、どうしょう。
このまま亡くならせてはいけない。
何故かこの世界がこの方を必要としていると確信で
きる。
私を救ってくれた大切なお方。
私の全てを捧げてお守りしたい。
私は地に額をつけて、全身全霊で祈った。
お祈り申し上げます。
ローゼント様をお護りください。
意識を傾注させて祈るうちに懐が温かくなり、粗織りの生地の内側から柔らかな光が漏れた。手を差し入れ一輪の花を取り出す。私がラスターと名付けた奇跡の花だ。私を救ってくれたように尊きお方をお救いできるだろうか。他に方法もない為、茎ごと花をお体に触れさせた。私に出来ることは冷えていく体を抱きかかえ、祈り続けることだけだった。どれくらいそうしていただろう。消えかけていた呼吸が規則的に深いものに変わり始めた。顔色はまだ土気色だが、眉間に刻まれた皺が薄くなっている。回復の兆しを感じて感謝のあまり、抱きついていた手に力を込めた。
その行為が痛みをもたらしたのか、別の理由からか突然ローゼント様の意識が戻った。目を見開き、私を一暼すると止める間も無く矢を一息に抜き去ってしまった。途方も無い痛みである筈なのに、息を詰めただけで声も漏らさなかった。引き抜いた傷口からは新たな出血が流れ始め、私を青くさせた。更にローゼント様は事は済んだとばかりに、どぅと横になって目を瞑ってしまった。
出血はまだ流れ続けているらしく、じわじわと地面に広がりを見せる。早急に止血しなくてはいけないのだが、私がどんなに押しても引いてもお体を動かすことができなかった。鳥馬をみるが、困ったようにこちらを見つめているだけだ。私は意を決してラスターを全て口に詰め込んだ。思い切り噛みしめると、思ったような苦味は無く少しの酸味と青臭さが広がった。繊維が細くなるまで咀嚼すると、ローゼント様の口腔に流し入れた。ラスターを飲むことで怪我が良くなるとは限らない。しかし、今私に考えられることはこのくらいしかなかった。
ご無礼お許し下さい。
しかし、全部飲んでいただかなくてはなりません。
ローゼント様は少しおむせになったが、全て飲み干してくださった。私は命を注ぎ込むように覆いかぶさり
祈り続ける。私の行動を見ていた鳥馬は、おもむろに羽を広げ、2人を羽毛の下に包んでくれた。そのお陰でローゼント様の体温は徐々に上昇し唇の色も少しよくなったようだ。
一命を賭してお救いしようとしているこのお方はどなたなのだろう。記憶を無くした私だが、深い縁を感じざるを得ない。以前お会いしたことがあるのだろうか。昨日お会いしたばかりだというのに不思議なことだ。
羽の間から外を伺うと、いつの間にか薄暗くなって夜の帳が降りようとしていた。
ローゼント様が微かに身動ぎ、目を開いた。瞳がしばらくさまよった後私を見た。また瞳に星々の瞬きが戻った。
「お前が助けてくれたのか?」
ローゼント様が起き上がると鳥馬は羽を折り畳んで隅へ歩いて行った。その様子を見やりながら、到底信じかねるといった表情で軽く頭を降る。
「いくら軍馬といえど、容易く扱える生き物ではない。どうやって落馬せずに此処へ辿り着いたのか」
大きな手で額を揉むと、更に思案げに私を見た。
「矢を抜いたのは私だろうが、どのように解毒させ、命を救ったのか。そもそも、お前は何者だ」
視線を向けられると、地に縫い付けられたように動けなくなる。そのくらい眼差しは強く圧倒的であった。
問いに答えられたらどんなに良いだろう。口も聞けぬ、記憶も無い私は恥ずかしさでいっぱいになった。
貴方を害するものではないと知らせたくて、両手を痛い程揉みしだく。そんな姿に呆れたのか、視線を外し鳥馬の元へ歩いていかれた。気がつかなかったが、鞍には大きな袋と皮袋が括られていた。革袋には液体が入っているらしく、5口ほどお飲みになると、私に袋をお渡しになった。、私はようやく喉が乾いていることに気がついた。唇はひび割れ喉は張り付いている。渡された革袋を見つめていると
「水だ、飲みなさい」
鳥馬の向こう側から声がかけられた。たっぷりと入った水は魅力的だが、ローゼント様のご帰還のためには私より役に立つものに譲った方が良いだろうという結論に達した。
こぼさぬよう慎重に手のひらに水を滴らせると、鳥馬の鼻先に持って行った。鳥馬は喜んだのか鼻を鳴らすと、ざりざりと手を舐めた。それを数度繰り返していると、背後から溜め息が聞こえた。
「私は、飲みなさいと言ったはずだ」
腕組みをしているローゼント様を見上げて、あたふたと革袋を抱え直した。
「軍馬には、ミゴーの実がある。要らぬ心配は無用だ」
大きな袋から橙色の実を取り出すと、ひょいと投げる。鳥馬は上手に咥え咀嚼し始めた。
漆黒の目がこちらをじっと見つめているので、慌てて水を飲ませていただいた。水は温くきつい革の匂いがしたが、とても美味しく魂に沁みた。
お水ありがとうございました。無事にお国へ帰れますように。
喉を潤し、袋をお返しすると深々と頭を下げた。ここでお別れしなければならないのは明らかだが、見送る事はとても辛く出来そうもなかったため、早々に暇乞いした。横穴の出口に向かおうとすると、左手をぐいと掴まれた。
「お前は、奇妙なやつだな。自分の命を何だと思っている。そんな姿では一夜も持たぬぞ。第一、命の恩人を置いて行くと思うのか?」
彫り深い目の傍に皺を寄せ、最後は苦笑いを浮かべておられた。そのようなお顔を見ると、私の胸は押し潰されて、圧のかかった顔が充血した。どくどくと耳の奥が鳴るのを感じながら再び頭を下げる。言葉を持たない私に他に何ができるだろう。
光栄です。ローゼント様。
私は手足を縮こませて頭を下げた。
夜がふけたため、出立は明日の早朝になった。陽が完全に沈むと、標高が高いためか急激に冷え込んできた。辺りには石しかなく、暖をとれるようなものは見当たらなかった。鳥馬をみると、優しい瞳で羽を動かしたので、今晩も宿を借りる事にした。
ローゼント様、鳥馬の羽下にお入り下さい。暖かく過ごせます。
ローゼント様の袖を引いて、身振り手振りで鳥馬を指差す。
「あそこで休めと?気性の荒い軍馬の素で眠るなど、正気の沙汰とは思えんが」
大丈夫です。鳥馬はローゼント様がお好きなのだと思います。それにとても利口です。
私がなおも食い下がると、しぶしぶ鳥馬の元へ歩いて行かれた。鳥馬はローゼント様が目の前に立っても羽を広げる気配は無く、見つめ合った双方が一斉に私を見た。
鳥馬、貴いお方を温めて。ほら、翼を先程のように広げてください。
私は慌てて、翼に触れた。すると、ばさりと持ち上がり羽毛の下が現れた。どうぞ、とローゼント様をお招きした。
「どちらかというと、お前の言うことを聞くようだな。ならば、遠慮はしまい。安全の為、お前もこちらで休むように」
蹴られてはかなわぬからな、と呟きながら、私を鳥馬と自分の間に押し込み横になってしまった。私は、ご一緒に眠る気など無かったため、岩のように固まり、冷や汗をかいた。先程まで温めるためくっついていたが、尊い御身が傍にあると思うと心臓が早鐘を打った。
とはいえ、疲れ切った体は素直に眠りに落ちていった。