第一章 切望
頬を撫でられた気がして、目蓋が開く。そこは死を覚悟した場所と何ら変わりはなく、じっとりとした苔の上だった。ただ、目の前に小さな花が咲いていた。親指の先程の大きさで、花冠は5枚に分かれている。純白の花弁の中央には黄緑色の蜜腺があり、先の方には蒼色の斑点が慎ましく散りばめられていた。懐かしい香りに目頭が熱くなる。一つの株に花が6個ほど咲いており、華やかさとは無縁の姿ではあるが、暗い森の中で光っているかのようにすら感じた。
花を見つめていて気付かなかったが、体に変化がおきていた。倦怠感がまだ残っているものの、激痛や悪心は消え、起き上がることが出来た。この異界のような森で、よく倒れているうちに命を失わなかったものだ。脚通しを履き直して辺りを見回すと、私の周りに十数株の同じ花が咲いていた。倒れる前はその存在に気づくことは無かった。いったいいつ咲いたのだろうか。まるで私を護ってくれているかのようないじらしい姿に、只々涙が溢れた。
花は点々と森の奥へ続いている。支流から離れる事になるが、花に導かれるまま進んだ。足の痛みもないため、木の根が張りめぐる地を奥へ奥へ歩いて行った。
しばらく進むと微かな水音が聞こえ始めた。体にまとわりついていた腐敗した空気も段々薄くなっていく。道案内の花が途切れたと思った時、急に視界が開けた。光に打たれ眩しさに目がくらむ。そこは青々とした空から光が差し込む滝壺だった。突然現れた清澄な空間に目を瞬かせ、天を仰ぎ見る。手をかざして見やれば、空は何処までも澄み陽は暖かかった。
切り立った岩肌の半ばから流れ出た水は、次第に量を増やし大きな滝となって地表目指して降り注いでいた。落差はラナの木の二倍ほどある。殆どは地表に着く前に霧となって霧散していたが、僅かな流れが滝壺に注いでいた。
私はその光景に圧倒され、しばらく佇んでいた。ここの空気と水の清澄なことといったらなかった。
底の石までかくっきりと見える透明度の高い川に手を入れ、心いくまで水を飲んだ。無味無臭であるはずが、何処となく甘く生命の味がした。腹が水で膨らむと、体の匂いが気になり始めた。美しい景色の中ではことさら泥と汚物で汚れきったこの身が恥ずかしく思える。
滝壺の端を借りて身を清める事にした。
端をお借りします
滝に向かってそっと頭を下げて、身に付けていた服を脱いだ。現れた裸身は想像を超えて痩せ、窶れていた。顔を洗えば頬骨が浮き出ており、この数日で明らかに衰弱しているのがわかった。
死んでもおかしくなかったこの身であるが、死は訪れなかった。まだその時ではないと言われたような気がして、感謝しながら服も洗濯した。
それにしてもこの地域は暑い。少し動くだけで汗が滴ってくる。洗濯を終えると透明な水に頭まで浸かった。目の前を銀色の小魚が鱗を閃かせて通り過ぎ、水草が脚を撫でる。水の心地よさにうっとりしながら体を清めた。
名残惜しい気持ちを抱きながら水から上がり、平たい大きな岩に上がる。岩は丸く角が取れて温かく、そして乾いていた。髪から滴る水滴は音を立てて岩に吸い込まれていった。
少しのつもりで横になる。
温かい
柔らかな陽射しの下、貧弱な体を晒しながら眠りについた。
どれくらい寝ていたのかはわからない。喉が渇いて目が覚めた。陽の位置は先程とほぼ変わらない位置にあり、それほど時は経っていないようだった。傍に干した服も乾いていたため、手早く着込んだ。それにしても、服は大きくダボついている。袖と足元を数回折り曲げ調節した。他に切る服が無かったのだろうか。身支度を終えると、もう一度滝に頭を下げて感謝した。
ふと足元にまたあの花が咲いているのに気がついた。花弁の先に散りばめられた蒼色の斑点が夜明けの星々のようである。
ラスター
私は胸の内でそっと呟いた。愛おしさと感謝を込めて明けの明星の名をその花に捧げる。
別れが名残惜しく、ラスターの花冠にそっと触れた。
すると、茎の付け根からポキリと折れて私の手の中にそっと収まった。まるで自ら手折られたかのようだ。命に溢れた花が私の手に入ったことに、嬉しさと同時に悲しみを感じ、大切に懐にしまった。
ラスターは初めて見た花だが、一般的な動植物の名前は理解しているようだ。ただ、自分に関しての記憶がさっぱり失われている。
まるでインクを零したかの様に、記憶が斑らに消えているのだ。
私は誰だ
自分が何者かも解らない。どうしてあの沼地に倒れていたのか。あの女性は私とつながりがあったのだろうか。再び恐怖が体を蝕み始める。
再び支流沿いに戻り歩いて行くと,次第に川幅が膨らみ流れる水の量も増えていった。ずっと水部を歩いてきたと言うのに、動物を見かけたことは無かった。この森には生き物がいないのだろうか。しかし何物かの気配はずっとしている。支流沿いに戻った時から見られている気がしていた。異臭が時折鼻をかすめるため、あの怪物がついてきているのは明らかだった。
夜、疲れ果てついには歩けなくなり、暗闇が支配する中大きな木の下で丸くなった。
私は祈った。
痛い思いをしたくない
苦しい事から逃れたい
でも、最も切望するのは
私の存在する理由だった
出来る事なら自分を取戻し、正しい行いをさせて欲しいと何度も願った。
命が危ぶまれる混沌とした現状において、この願いは非現実的で理解不能だった。なぜそんなことを切望するのか解らない。ただ、私の全身に流れる血がそうさせているとしか考えられなかった。私は聖職についていたのだろうか?聖職と言っても、神の名前すら思い出すことが出来ない。過去に関して考えることは靄の中を探し回る事に等しく、寂寥だけを胸に残した。
考えているうちに眠ってしまうと、いつの間にか咲いたラスターが私を護っていてくれた。この花は怪物も遠ざける力があるのか、悪臭と気配は感じるものの"それ"は近づいて来なかった。
翌日も、喉の乾きを感じながら暗い森を歩く。終わりの見えない暗い森はただでさえ気持ちが滅入ってくる。私は誰で、何故ここにいるのだろう。自分の思考が頭の中で反響し意識がぶれる。木々の軋む音、葉の擦れる音が話し声のように聞こえてきた。
おいで
おいで
ざわざわと音たちが私を取り囲んだ。幻覚だとわかっていても頭の芯が痺れ、酩酊した状態となる。私は真っ直ぐ歩けているだろうか。
「おい、おめぇ」
今度ははっきり話しかけられた。ぼんやりと声のした方を見ると、後頭部に衝撃を受けた。一瞬で視界が暗くなり、地面に倒れたのかすらわからなかった。
ガヤガヤとした騒音で目を覚ました。私は両腕を後手に縛られ地面に横倒しになっていた。地は乾き、細かな砂が頬を押し上げている。私の目の前には十数頭の鳥馬が繋がれていた。一頭一頭がとても大きく、筋肉質で明らかに軍用のものと知れた。それぞれ目隠しされ大人しく地に伏せている。軍用とはいえ気性の荒い生き物のであり、近くにいる私は思わず息をつめた。
鳥馬の向こうには緑色の幕営が点在しているのも確認できた。
ここは小隊規模の野営地であるらしかった。深緑に黒い縫取りでガイルが刺繍されている旗がみえる。沼地に生息するガイルは大きいもので人を丸呑みに出来る程だと聞いたことがある。黒い鱗と強靭な顎は決して出会いたくない生き物だ。そんなガイルを縫い付けた旗を持つのは誰であったか、肝心なところが思い出せず頭を振った。立ち上がろうと状態を起こすと、引っ張られて後ろに倒れた。首を巡らしてみると、太いモクの木に繋がれていた。私が目を覚ましたのに気が付いたのか、何人かがこちらへやって来た。みな私の背丈の1.5倍はありそうな長身で肩が恐ろしく盛り上がっていた。上腕は私の大腿程もあり、顔中が髭で覆われていた。そして、揃いも揃ってニヤニヤと下卑た表情をしている。
私は死よりも恐ろしい事を想像した。いや、想像ではなく現実になるであろうそれに歯の根が合わなくなる。男達は私を囲むと、1人が私を引っ張り立たせた。立つといよいよ自分の小ささに打ちのめされる
。後手に縛った手をぐいとやられ痛みに喘いだ。
「おい、誰だ。女だって言ったやつは」
「ガーが攫って来たんだ。女だって言ってたぞ」
「よく見ろグズが、女殷がねーだろ!」
男たちは私の手の甲の泥を落とし覗き込んだ。何か印を探しているらしい。
「男なんて攫ってきてどーすんだ!隊長にどやされるぜ」
会話から察するに、女の印がないため男だと思われているようだ。体を改もせず男だと信じているのがとても不思議だ。この鶏ガラの体でも弄れば、女だとわかるはずだというのに。
「だども、ちっこくてすべすべでねぇか。女だっててっきり・・ぐぁっ、」
ガーと呼ばれた背中の丸い猫背の男が殴られ蹲った。
「だからお前はグズだって言うんだよ、鈍間の玉無しが!女殷が無いのが何よりの証だろうが。隊長に知られる前にバラして捨てようぜ」
男達は頷き合って私の首に手をかけた。
「待て待て、俺が取りなしてやってもいいぞ」
その時、更に頭上から声がかかった。陽を遮る程の大男がこちらを覗き込んでいた。
「副長!」
私を掴んでいた男が手を離した。代わりに大男が綱を切り、私の襟首を持って掴み上げた。私は子シャオのようにぶら下がり大男の顔を恐る恐る見た。
「骸骨みたいだが、まぁ、男には変わりないだろう。俺が面倒見てやる。なに、心配するな、死にはしないさ」
大きな口の中で不揃いの黄色い歯が笑っている。
周りの男達も笑っている。
「いやー、副長も人が悪い。逸物がおさまるまで生きてた奴なんていないじゃないですか。しかもそんな塵みてーな体じゃ、ぶち込んだだけで血吐いて死んじまいますよ」
「旦那も人が悪いや」
「そんなに男のケツがいいもんですかね?」
「俺のケツもあぶねーや」
男たちが笑うと、ツンと刺さる口臭が漂った。
「何が悲しくてお前らのケツにぶち込まなくちゃいけねーんだよ。こいつみたいに、細っこくてすぐ死にそうなのがいいんだよ」
「さすが、副長!」
ガハハと笑いながら大男が私の服に手をかけた。
ふっ
ふと、空気が揺れた。
野蛮だが修羅場をくぐり抜けた男達は素早くそちらをみた。私も吊るされながら目を動かした。
鳥馬を繋いでいる杭の近くに、手製の檻があった。その中に黒々とした長髪を垂らした男がいた。長い髪に隠れてわからないが、どうやら笑っているらしかった。
「おい、ローゼント!貴様何を笑っている」
副長と呼ばれた男が低い声を出す。大声ではないのに、私の腹がビリビリ震えた。
ローゼントと呼ばれた男はこちらを見向きもせずうつむいたままだ。
「おい!何とか言え!」
男の1人が落ちていた石を投げつけた。石はぶつかる前に大きな手のひらに受け止められ、ゴキリと砕かれた。両手を戒められながら行われたそれに周りのものは唖然とする。
「なに、私を捕らえた男の最期にしては、残念なものだと思ってな」
ローゼントの言葉に男達が色めき立つ。
「どういう事だ?お優しいローゼント様よ」
副長と呼ばれた男が私を引きずりながら檻に近づく。
檻は手製であったが、太い丸太で組まれ手斧をもってしても、出る事は容易くないだろう。中で囚われている男は手と脚に枷がされ、立つことも出来ないようだ。
「その少年、夜の森から出てきたのだろう?生きてあの森を抜け出ることは不可能なことはお前も知っているのではないか。本当に、人間か・・・?」
こちらを見ようともせず、言葉には嘲りが込めらていた。
「屍肉喰いだって言いたいのか」
そう言うと私をどさりと地に落とし、一歩下がった。
周りの男達も後ろに後ずさる。
「さあな。ただ、屍肉喰いは万病を運ぶと言われている。そんな奴をどうこうしようとは思わないがな」
「ふっ、副長。浄師は隊長と出掛けてますぜ。どうします?」
「どうするもこうするもねぇ、こんな不浄を連れ込みやがって。逃すと仲間も来るかもしれん、動かないようにしてエニシの葉で囲んどけ。」
忌々しそうに吐き捨て大男は去っていった。残された男達は誰も私に近寄らず遠巻きに見ている。その中の1人がガーと呼ばれた男を殴りつけた。
「お前が連れてきたんだ、お前が何とかしろ」
他の男も同意見のようで、興味を無くしたかのように天幕の方に歩いて行った。
残されたのは、私とガーと呼ばれた男だけだった。檻に入れられた男は黙して動かない。
「何で俺がやらなきゃなんねぇんだ。おめぇみたいな奴が屍肉喰いなわけねぇ。見てみろ、目なんかでかくてまるで女じゃねぇか。女だ!女だって」
ガーは殴られた顎を摩り、私の顔を覗き込んだ。
「んばぁ!」
突然口を大きく開けて雄叫びをあげた。汚れた唾液が頬に飛び散る。ガーのにやついた顔を見て、驚かせようとしたのだとやっと分かった。人より劣る体と知能がその存在を低くさせ、貧しい心が彼を蝕んでいるのだ。縄をうたれ動けぬ相手にしか強く出られない悲しさを私は哀れんだ。
「おめぇ、その目やめろ!」
持っていた棒きれで私の脇腹を殴りつけた。あまりの痛みにもんどりうち、息が出来ずもがいているうちに、ガーはどこかに消えていた。
頭上の葉が擦れ柔らかな音を立てている。二羽の鳥が囀りながら枝で羽を休めていた。呼吸をするたび左の脇腹が悲鳴をあげているが、世界の美しさに胸がいっぱいになった。
ざっざつと引きずるような足音が聞こえ、ガーが帰ってきた。何やら手に素焼きの壺を抱えている。水でももらえるのだろうか。私は木に背を付けてどうにか上体を起こした。
「おめぇは屍肉喰いだから、浄師様が来たら燃やされるんだ。悪いもんは何されたっていいって知ってるか?おれはおめぇみたいな目は嫌いだ。だからこいつに食われるといい」
ガーはそう言うと壺の中に手を突っ込み森鼠を1匹引っ張り出した。丸々と太った胴体は黒々と光っていた。
「屍肉喰いも鳴くんかな?ほれ、鳴け」
森鼠はぐいと近づけられ、キーキーと悲鳴をあげながら私の額を引っ掻いた。さらに、ガーは鼠の尻尾をねじ切り壺に戻すと、その壺をあろう事か私の頭部に被せたのだ。きつい壺を無理やり被せられ、鼻が折れたような痛みがある。首を降ろうが壺が抜ける事はなさそうだった。私は恐怖に慄いた。しかし私より恐慌を来たしているのは森鼠だ。無茶苦茶に壺の中で暴れまわり、私の顔をぐちゃぐちゃにした。
「悲鳴もでねぇのか?バケモンだからか?つまんねぇな」
縄で木に縛られ身動き出来ない私は悲鳴をあげていた。そうだ、ガーの言う通り声が出ない。今まで何故気づかなかったのか。いくら声を出そうとしても、ヒューヒューという息だけが漏れる。私は記憶だけでなく、声まで失っていた。
口を開けていたら鼠が潜り込もうとしたので慌てて口を閉じる。鼠の怒りを感じたと同時に、左耳に刺されたような痛みを感じた。痛みの他にも息苦しさを覚え、私の限界も近かった。背に木肌を感じたと同時に思い切り後頭部を打ち付けた。
ガシャンという音とともに空気が顔を洗い、思い切り息を吸って肺を満たした。狂ったようにガーが笑っている。
ここが限界だった。私の意識は闇に飲まれていった。