序章 -沼の底ー
初めに感じたのは鼻を刺す痛みだった。チリチリと肌を焼くような腐敗した臭いで意識が水面を目指す。目を開けようとするが、瞼が蝋で固められたかのように動かない。動物の死骸と糞尿を混ぜたようなすえた刺激臭に頭の中で警鐘が鳴り響く。さらに臭いは刻々と強くなり、切迫した危険を知らせていた。焦りと混乱から息を大きく吸い込むと、泥が鼻と口に入り込んでしまう。その悪臭たるや筆舌し尽くしたがく、激しくむせ込んだ。胸や腹に入り込んだ泥を吐き出すべく胃がひっくり返り、苦い液がこみ上げる。
どうにか山石の様に重たい瞼を引け上げると、目玉をぐるりと回した。辺りは漆黒の闇に包まれ、天地の境も明らかではない。左腕の感覚が無いのに気付き慌てて身を捩る。どうやら自分は俯せに倒れているようだった。左腕は体の下敷きになっており少し動かすと痺れてようやく存在を示した。
右手で辺りを掻けば、ぬかるんだ地面と水面から頭を出している葉の長い草が触れる。どうやら沼地にうち倒れているらしかった。時間をかけて肘をつき強張った身体を引き上げた時、雲間から青白い月が顔を出す。その光は僅かであったが、辺りをぼんやりと映し出した。
馬一頭分離れた場所に "それ" はいた。
人と言うにはあまりに大き過ぎる姿、頭部らしき部分は大人の頭のふた回りの大きさがある。加えて胴体ときたら、まるまる太った草牛より巨大だ。胴は消炭色の剛毛に覆われているが、毛一つない頭部らしきものがてらてらとひかる様は異様である。そして何よりその臭いだ。先程から鼻の曲がるような臭いを放っているのはまぎれもなく"それ"だった。
"それ"は胴体に比べて細い腕で何かを抱え、食らい付いていた。その咀嚼は静かだが
ずっ、ずっ、っとすすりあげる音がする。
私は余りの光景に言葉もなく、小さく息を吸い込んだ。
その小さな空気の流れを察したのか"それ"が此方を見た。見たと言うより此方に鼻先を向けた。何故なら"それ"には目が無かったからである。のっぺりとした顔の上部に鼻であろう穴が二つあり、顔の大部分は小さい歯がビッシリ並んだ大きな口で占められていた。獣の様に匂いを嗅ぐ姿は、私に激しい嫌悪感をもたらした。"それ"が顔を上げた事により抱えていたものも光に照らされる。
女だ
いや女であったと言う方が正しいだろう。頭の半分を失った体格の良い女は旅装をしており、長い髪は渦を巻きながら体にへばり付いていた。全く記憶にない女だが、何故だか胸が押しつぶされ涙が出た。
涙を流しながら私は逃げた。女の頭部を啜っていた"それ"が私の方へ動き出したからだ。4本足で泥を跳ね飛ばしながら思いの外素早く向かってくる。私は背後の沼に逃げるしかなかった。どう体を動かしたのかは分からない、ただがむしゃらに沼の中央目指してもがいた。恐怖が私を支配していた。足のつかない所まで来ると岸辺をようやく見遣る。"それ"は沼の中へは入れないようだった。水に濡れるのが嫌なのか、はたまた別の理由なのか、岸辺で左右に体を揺すっているだけだ。
私は息を殺して闇を見つめていた。沼は思ったより暖かく、凍えずにすみそうだ。じっとりとした闇が頭上から私を押しつぶす。
どのくらいそうしていたかはわからないが"それ"は突然踵を返して木々の間に去って行った。私はまだ動けずにいた。またあの怪物が引き返してきたらどうしよう、私が岸に上がるのを闇の中で待っているかも知れないと思うと動くことが出来ない。夜中だと言うのに汗ばむほど気温が高い。風の無い水面は月と私を映している。
誰だ
ボサボサの短髪で泥に塗れたその姿を私は知らない。
私は、誰だ
呆然と体を弄れば、髪こそ短いが小さいながら胸があり、どうやら女のようだ。上下に別れた目の粗いごわごわした服、膝丈まである長靴、泥に塗れたそれらが私の全てだった。
じわりと頬を涙が流れる。自分が何者であるかも解らないまま沼に浸かっていると、猛烈な孤独に苛まれた。
その夜、絶望と焦燥を抱えてまんじりともせず、私は沼の中で過ごした。
霧がゆっくりと木立から立ち上っていく。沼の周りはぐるりと湿地で囲まれ、さらにその先に森があった。朝の森は奇妙なほど静まりかえっている。太い幹は湾曲して天を目指し、重々しい枝を垂れていた。葉はモーサの葉に酷似しており同型種と思われた。
モーサ、何故木の名前は覚えているのに、自分の名前は思い出せないのだろう。
私は慎重に沼から這い出た。上着は指先迄隠れる長さの為、袖をゆっくり捲る。現れた腕の白さと細さにぎょっとする。既に擦れ傷付いてはいるが、頑丈な服に釣り合わない貧弱さだ。一晩沼に浸かり恐怖に慄いていたため、体も思うように動かない。陽の上天とともに気温も一気に上昇してきた。指先の泥は乾きはじめ、ぱらぱらと粉が舞う。また夜を迎えては生き残る事など出来ないだろう。どうにか安全な場所と食べ物を得なくてはいけない。
沼には小さな支流があった。どこに向かえばいいかなど解らない。ただ、このささやかな流れだけが私を導いてくれるような気がした。
か細い水の流れを辿って歩き出す。空腹で目が回り胃がしくしく痛む。空のはずの胃が張って、何度もゲップが出た。時折支流の水を飲むが泥と砂混じりの為、口を湿らす程度だ。水を含んでわかった事がある、この森は生きながら腐っている。小鳥の声もしないこの精気の無さは異常だった。
森に分け入る程、その異様さに改めて戦慄した。木々は一つ一つが大の大人が両腕を伸ばしても抱えられないほど太く、さらに密集している為、鬱蒼とした葉は太陽の光を地面に落とすことはない。それだけならまだしも、嫌悪感をもようす何かがそこにはあった。あの怪物が潜んでいるかも知れないからだろうか、私は暗闇が恐ろしく、足元の支流を見失わないよう必死に足を動かした。
もうどれくらい歩いたのだろう。うちひしがれた静寂が支配する木々の間を抜けて行く。地には木々の根が張り巡らされ、苔と何か嫌なものでぬめっていた。何度も足を滑らせるうちに左の膝に痛みを感じるようになった。はじめは違和感だけだったが、今では膝が熱を持ち、少し曲げるだけで耐え難い痛みが襲ってくるようになっていた。今、時はどのくらいだろうか。まだ幾分薄暗く、日は落ちてはいないようだ。あの怪物は沼を嫌がっていた。沼に入れば襲われないと思うが、今から戻っても沼には辿り着けないだろう。今私に出来ることは、無心で痛む足を動かし続けることだけだ。
ふと、甘い香りが鼻をかすめた。辺りを見渡せば右手の方に巨木があり、そちらから熟した心躍る香りが漂ってくる。足を引きずり近づくと、周りの木の5倍はありそうな幹に蔦が生い茂り、夕陽色の果実がたわわに実っていた。
何て立派な実なのだろう。張りのあるつやつやとした皮は、歯を立てたら甘い汁を零すに違いない。食べられるのかちょっと齧って確かめよう。毒があるのならば直ぐに吐き出せばいいだろう。そう考えて一つ実をもいだ。力を入れずともぷちんと実は私の手の中に落ちてきた。私の握りこぶしより大きな実の香りを嗅いだ。うっとりさせるようなその香りは悪夢のような現実を薄れさせてくれる。
試しに歯を立ててみれば、想像通り甘く芳醇な果汁が口一杯に広がった。かの天上に生えていると言う黄金の実も、これ程美味ではないだろう。毒は無いと思われる、いや毒である筈がない。私は我を忘れてむしゃぶりついた。一つかぶり付いている間にもう一つを摘み取り、結局3つ瞬く間に食べ切ってしまった。何という幸福感だろう。このまま横になったらもっと素敵に違いない。濡れた苔すら最上級の寝具に見えて膝をついた。
食べ過ぎたか。胃がしくしくと痛み出す。ビシャっと音がして、足元が濡れた。片手一杯程の血を吐いた事に気づいたのは、暫くしてからだ。指先が痺れ始め、目の前がチカチカと瞬く。腹部も猛烈に疼き始める。
切迫した便意のため、よろめきながら脚通しを下げたと同時に激しい水様便が流れ落ちた。痛みには波があり、臓物全てを出し切るかの様なそれは永遠に続くかのようであった。
余りの苦痛に歯が鳴り、脂汗が顎を伝う。
死が頭を過った。実を食べたのがいけなかったのか、水を飲んだのがまずかったのか、今ではもうどうでもいい。いっそこの苦しみを終わらせてくれるなら、死も受け入れよう。目がかすみ始め、激しく動悸がする。座っている事が難しくなり、前のめりに倒れた。こんな最後を迎えるとは私はいったい何者だったのだろう。死が優しく体に触れているのを感じた時、口が勝手に動いた。
お祈り申し上げます
声こそ出なかったが、唇が慣れた様子で祈りを唱えた事に少し驚く。
お祈り申し上げます
祈りの対象も知れないまま、今度は自分の意思でつぶやいた。声はでないままだが、祈りの言葉は臨終の体に染み入り魂を優しく撫でさする。たぶん、この骸は動物や虫、それとも奇怪な生き物に食べられるのだろう。それでもいい・・・。
お祈り申し上げます。貴方の元へお連れ下さい
意識が暖かな海に呑まれていった。