U氏の後悔
A~Zまで悪人を並べ立てようとしててやろうと思っています。
自分の中の悪を並べ立てれば、書いている本人の私は毒が抜けきって真っ当になれるかも知れません。
そう願を掛けながら、意外と悪が出てこないことに焦りながら、Uです。
家族。誰もが安心して帰れる場所。温かく迎え入れられ、愛され、健全で、神聖な場所。
誰もが言う。家族、有り難う。大切、大好き。
そうあるべきなんでしょうかね。
じゃあ、そう思えない人は、異常なの?悪なの?
U氏≒リアルの私はそう思えない。重荷、苦痛、頭痛の種、思い出すと辛い。
でも、愛されていたのは確かなのでしょう。でも、それは不器用で、不適切で、しかも傷付けるものでしか無くって。
「分かっているよ。でも、俺はあんたが憎いし、それでもやっぱり愛されたい。俺が自分の子供たちを愛するように、あんたに愛されたかった。
あんたが生きているのが辛いのかもな。あんたが生きていると、あんたとの関係をなんとか出来るのではないかと期待をしてしまう。いや、何とかしないと、息子として失格だと考えてしまう。
だけど、あんたと会うと、どこまでも気分が滅入るんだよ。でも、きっと、俺もあんたを愛しているよ。会いたくは、無いけどな。」
泣く自信は無かった。
目の前に、母親の死体が横たわっている。
そのやせ細った手を、自らの手に取ってみる気持ちも湧かず、ただ、その顔を見ていた。
まるで、ミイラみたいだ。手の指の肌はつるっとして凹凸が消え、血管の浮き上がりさえ認められない。唇は口腔に吸い込まれたように内側に巻き込まれている。髪は薄くまばらに生え、地肌がかなり見えている。
母は、俺を抱きしめたかったのだろうか。そんな記憶も無いが、そうだったのだろうかと自問してみる。
生きている間に聞けば良かったかと思わないでも無いが、生きている間はただただ面倒だった。
両親には、愛情はあったのかも知れないが、俺はそうは感じなかった。
ただ、暑苦しくて、べたべたとまとわりつく、不快で苛立たしく、接していると、どんどんと自分が尖っていくようで、嫌だった。
俺を、自分の出番のように使うのが、この上なく気持ち悪かった。自分の生き甲斐を、まるで俺に用意しろと求めているようだった。そんなことまで俺がやらなくてはならないのか。
母の印象としては、ようやくふさがりかけた傷口に塩を擦り混んで、痛いかと嬉しそうに聞くイメージがしっくりと来る。
ただ、この人達には悪意があったようには思えず、人を疲れさせるヒステリーも、この上なくご都合主義な記憶も、あの人達にとっては、嘘では無く、ただの本心だったのかも知れない。
死が、俺と母親とを切り離した。母と同様にヒステリーで、自己愛の強かった父親は二年前に亡くなっていた。俺を育ててくれた似た者同士は、もうこの世にいない。
どれだけ後悔しても、どれだけ望んでも、言葉を交わすことも、真意を確かめることも叶わなくなった。俺はどこまでも素直になれず、それが自分のためかどうかも分からず、ただ離れて生きていれば、忘れられた。それが、幸せだった。
「もう無理、絶対耐えられない。」
妻が目の前で絶叫していた。俺は確か、呆然としてその姿を見ていた。
あれは、六月。梅雨に入る前の晴れた日の夕方。俺は生まれたばかりの息子の顔を見たくて残業を切り上げて帰った日だ。
妻はスウェットを着ていた。汗でベッショリと肌に付き、スウェットの襟から現れている汗ばんだ首筋に、長い黒髪が不器用にへばりついていた。スラッとしたその長身の胸に眠りこけている息子を抱いて、目が疲れるからと外したコンタクトの代わりに分厚いレンズの眼鏡をかけ、その向こうに潤む瞳はあの時の自分のようだった。俺は、背中に寒いものを感じた。
「もう疲れているからって、何度も言ったのに。なんで、あなたのお母さんは毎日来るの?断っても断って断っても、来るのよ。『私は気にしないから』って。気にするのは、あたしなのよ。
疲れてる顔も見られたくない、寝ながらお乳もやれないし、眠れない。監視されているみたい。あちこち漁り回っては、これが無い、あれが足りない、買ってこなくちゃって。要らない、要らない。必要なものなら、自分で買うわよ。
この子が生まれてから、二時間おきに起こされるの、連続して眠れないのよ。夜も昼も無いの。会社の書類も書かなくちゃいけない、役所に書類も出さないといけない、健診もあるし、保健師も来るの。その上あなたのお母さんの相手なんて出来ないのよ。」
分かっている。俺も何度か母親には電話で伝えた。だが、聞かなかった。
「もう一度、電話するよ。」
溜息と共にコールした。電話に出た母親は、この上なく上機嫌だった。俺は言葉を選び、しばらくはうちに来ないように頼んだ。妻は疲れ切っていて、いくら母が気を使わなくて良いと思っていても、どうしても妻は気を使ってしまうものなのだから、しばらく遠慮して欲しいと。それを、母親は気が付かないことを言ってもらえて良かったと言って、電話を切った。俺は、次に起こるであろう事をある程度予想していて、気が重くなった。
妻は泣き声を上げながら髪を洗っていた。やっと息子を下ろすことが出来たと。息子は起きている間は立って抱っこをしないとぐずる。ぐずると隣からイライラとした物音が聞こえてくる。隣の人間の顔は見たこともない。だが、狭いアパートで神経をすり減らせていた。ぐずれば立って抱っこするか、添い寝でお乳をやるか、汚れ物を替えるか。
赤ん坊に接する機会など、今までまるで無かった俺達は、何もかもが初めて事で、あの時は確かに俺達も気が立っていた。だが、それにしても、俺の両親のはしゃぎようは異様だった。
出産までは近寄りもしなかったのが、生まれた途端、病室にも入り浸りになった。カメラを手に、看護師の意見も耳を貸さず、ひたすら赤ん坊を相手にはしゃいでいた。産科の医師が見かねて、赤ちゃんが落ち着かないからと言って追い払ったくらいだ。
俺が母に電話したあの日、当時まだ仕事を持っていた父は母からその夜に話を聞いたのだろう。母がヒステリーを撒き散らして父に話をした姿が目に浮かぶ。髪を掻きむしり、机に爪を立て、馬鹿にされたとわめき立てたのだろ。
翌日、朝会社に出てメールを立ち上げると、予想通り父からメールが来ていた。『君たちは折角待ちに待った初孫にお母さんを会わせないと言ったのですか?どうしてそんな酷いことが言えるのでしょう。あんなに喜んでくれているのに、どうしてそれが分かって貰えないのでしょう。我々は、君たちに感謝し、命の数珠つなぎに立ち会えたことを嬉しく思っています。それなのに、ただそれだけの純真に喜んでいるだけなのに、どうしてバアさんが孫に会ってはいけないのですか?お母さんは、君たちにそんなことを言われないといけないのでしょうか。何が君たちをそう思わせるのでしょう。悲しいのを通り越して君たちの人間性を疑います。』メールは打ち出せばA4の用紙にみっちり二枚。俺は吐き気がこみ上げてきて、職場のトイレでその朝食ったものを全部吐き出した。ある程度予想していたとは言え、こたえた。その時、トイレの鏡で見た自分の目は、見覚えのあるものだった。親のヒステリーに付き合わされ、精神をすり減らせた時のものだ。この目は、妻が「もう無理」と言った時と同じ目でもあった。
「雨が降っているじゃないか。」
中学生の時だった。父が目を怒らせて、俺に怒鳴った。確かに、雨が降っている。それが俺のせいなのか?そう言わんばかりの噛み付きようだった。俺は神なのか?
ある時、高校生になっていたか、俺は親知らずが暴れて右の頬がパンチをまともに食らったボクサーのように腫れ上がったことがあった。当然右側でものを噛めるはずもなく、ひたすら左だけで噛んでいた。食べるスピードは半分以下に落ちる。右を庇うように、気にしたようにものを食べる様子に父は苛立った。「鬱陶しい、目障り、イライラする。」を壊れたレコードプレーヤのように45分間繰り返し続けた。
顔を合わせれば、勉強しろと言われ続けた。参考書に目をやっている時にも言われた。どれだけ偏差値を上げても足りないと言われ続けた。どこまで行っても、何も達成されない感じがして、もう何もかも、どうでも良いような気がした。だが、俺には全部を投げ出す勇気も、ぐれる勇気も、反発するだけの勇気も持ち合わせがなかった。一日に勉強しろと言われた回数は、一度数えてみたところ二十を超えた。朝と夜遅く父が帰ってからしか顔を合わせないのにこの数だ。「男は頭で食っていくんだよ。勉強はしたのか?バカに人権なんざ結構なものがあると思うな、世の中は頭の良い奴が作っていくんだ。バカに仕事があると思っているのか。勉強しろ、勉強。好き嫌いは関係無いんだよ、勉強しろ。こんな順位で満足しているのが信じられない。なぜもっと勉強しない。やろうと思えばトイレに暗記用のシートを貼るとかやりようはあるだろう。勉強しろ、勉強。」あの時も、吐いた。ものが食べられなくなった。夜は眠れなくなり、睡眠導入剤を飲むようになった。それ以来、この年になっても手放せない。半世紀だ。
大学は実家を出られるところばかりを受けた。誰もが認める有名大学であれば、父も母も文句はないだろうと思った。結果に、父は「まあまあだ」と言った。ようやく、俺は両親の束縛から逃れられた。大学の四年間は、親がいることを忘れていた。思えば、この上なく正しい判断をしたものだ。楽しくて仕方なかった。親には、電話番号もメールアドレスも、住んでいる場所さえも一切連絡しなかった。親となった今の俺としては、学費を出す立場だ。両親の気持ちを忖度しないでもないが、あれは、普通の親じゃなかった。盆も正月も一度も実家には近寄らず、のびのびと生活をしていた俺は、妻となる女性に出会った。
大学卒業を機に、俺は生活の基盤を地元に戻した。父と母に、帰ってきて欲しいと言われたからだった。
「お前しかいないんだから、子供は。何かあったら、どうしたら良いの。」
母が言ったあれは、自分達の面倒を見ろと言うことだったのだろうか。ひょっとして、最初から介護のために子供を作ったのかと穿ったくらいだ。だが、その時は、ただ単純に自分を大事に思ってくれたのだと、嬉しく思った。だから俺は地元に帰った。
就職し、しばらくはやはり親のことなど忘れていた。仕事が忙しく、また面白くもあった。自分で金を稼ぐと言うことが、たまらなく偉大なことに思えた。
二年ほどして、妻が大学を卒業した。俺達は学生時代から付き合っていて、就職してからも俺はしばしば会いに学生時代を過ごした街に足を伸ばしていた。俺は彼女以外に心が揺れることがまるでなかった。就職しても、この女性を生涯の伴侶とすることに自分の中ではまるで躊躇いはなかった。彼女も俺と結婚することに迷いはなかったようだ。「あたし、すぐに結婚するんです。子供も産みます。でも、仕事は続けたいんです。」そんなことを臆面もなく言ってのける彼女を雇ってくれるところを見付け、人生で最も自信に溢れる瞬間に俺達は結婚した。
思い返せば、あの頃からまた親の暗い影が差し始めた。親は、いつも俺に陰鬱な気分を与える。考えるだけで、気分が滅入ってくる。妻を初めて紹介した時、両親はそこそこの店を予約し、非常に喜んでくれてた。母は涙を流し、良かった、良かったと言ってくれた。俺はそれを額面通り受け入れた。両親は特に彼女の素性を聞くでもなく、結婚を了承してくれた。それを俺は自分のことを信頼してのことだと考えた。緊張の面持ちの妻を前に、父は妻の出身大学を尋ねた。妻が答えると、ニヤッと笑って、「聞いたことないな」と言った。
「あなたのご両親は、あなたが自慢で仕方ないのね。うちの両親も感じてたみたいよ。『こんな娘にうちの息子なんてもったいない』って思ってらしたって。」
両家の顔合わせ、結婚式とイベントが進む。その中で妻が不満そうにそう漏らした。俺は打ち消しはしたが、心の中で首肯していた。なぜそんなことを言うのか、相手がどう受け取るのか、考えないのだろうか。相手の両親の前でも、どれだけ自分達が息子を厳しく大事に育て方を延々と述べていた。大学進学は話の一番の盛り上がりで、何度も話したがった。
「自主性を最大限に考えてですね、極力何も言わないようにしていました。そうすると、子供は子供で考えるんですね。私たちは、見守るという、いわば親としては苦行のような、それでいて最も効果的な教育をしてきました。でも、彼のやりたいこと、塾通いなどは全面的にバックアップしましたよ。夜遅くまで、私も勉強に付き合ったものです。」
教育とは、『勉強しろ』と言い続けることでは無かったのか。塾とはお金を払えば成績を上げてくれる場所、とくらいの認識ではなかったのか。
「親のことが心配なんでしょうね、帰ってきてくれまして。」
それでは、相手の親のことはどうでも良いと言っているようなものだ。妻の両親は、俺の実家のある地方に住んでいるわけではない。
「息子がこのお嬢さんと結婚したいと言いますので。」
取りようによっては、『そう言われれば仕方ないと思っています』と取られかねない言い方だ。普通はそうは取られない言葉だが、文脈からすれば、そうも取れる言葉になってしまう。
結納は「そんな大時代な儀式なんて今時。」と笑って流しておきながら、結婚式は「息子に恥をかかせるわけにはいかない。」と俺の両親以外誰も望まないホテルでの挙式となった。俺も妻も、結婚式なんてこっぱずかしいだけのものと考えていた。お金もかかるし、意味を見出せなかった。結婚式に呼んだからと言って上司が目をかけてくれるなんて考えこそ、大時代だ。
「結納を新婦側が断るならまだしも、新郎側がうっちゃるって、知らないよね。」
結納は、いわば新郎側が新婦側に誠意を見せる場でもある。後日、どう考えていたのか尋ねたことがある。
「必要ないって、あなたが言ったんじゃ無い。」
母は、ケロッとそう言った。その事を伝えると、妻は
「本当に、あなたのご両親?自慢の息子の親はもう痴呆症?」
と蔑んだような表情を見せた。それでも、息子が生まれるまでは、両親との距離は開いていた。小康状態、だった。
「もうそろそろ、時間も遅いし、面会も終わるから。」
俺の声は一体、耳のその奥に届いていたのだろうか。熱に浮かされたように両親は生まれたばかりの息子を取り囲み、息を吹きかけ、指の先をちょんちょんとつつき、フラッシュを炊いて写真を撮りまくり、けたたましく声を立てて笑い続けた。
両親は息子が生まれた日、面会が終わる21時まで、病室を離れなかった。個室だから良かったようなものの、妻は疲れ切った表情をしていた。それでも、妻は気丈に微笑みを浮かべて息子をようやくその胸に取り戻し、初めての授乳を始めた。俺は、初めて涙が流れた。母と子の姿がこの上美しく、そこにはどんな音楽も超えることのない感動が流れ、どんな名画も表現し得ない柔らかい光が広がっていた。小さく開いた目が、シワシワの指が母を求めている。母は優しく微笑み、その口に乳首を含ませる。
「ねえ、助産師さんが言ってたこと覚えてる?大真面目でさ、赤ちゃんがお乳を吸うって事は、ご主人に乳首を吸われるのとは訳が違うって。生きるために体全部を使って全力で来ますからって。わたし達、笑ったじゃない?でも、ホントだった。」
それが、最初で最後の冗談になった。次の日は、父も母も朝から夜まで、9時-9時で病室に入り浸りになった。「手伝い」に来た両親は赤ん坊の周りではしゃぐばかりで、あれこれと必要の無いものを買っては病室をものだらけにしていった。妻はろくに授乳も出来ず、ストレスを溜めていった。その次の日は、父は仕事があり来なかったが母はやはり朝の9時にやって来た。満面の笑みを浮かべ、「あなたのご両親は遠くて、来られないものね。大丈夫、私がちゃんと手伝いするから、何も心配しないで。」妻の絶望的な表情が、脳裏にこびりついている。妻の両親も息子の顔を見に来たのだが、まるで母が取り仕切るような形になり、「お母さん(妻だ)が疲れちゃうからそこそこでお引き取り」いただく事になってしまい、両家の溝は決定的になった。以来、俺達両家の両親は顔を見ることもなく、妻の父親が亡くなった時は「来ていただかなくて結構」と義母に言われることになった。3日目、母は産科医に咎められ、家に帰った。病院から家まで、車で一時間もかかるのに、わざわざ手伝いに来ているのにと医師に食って掛かっていた。医師は呆れ顔で俺に言った。
「ご主人、奥さんは今、今までにない大変な時期なんですよ、もうちょっとあなたがしっかりしないと。」
俺はその日の晩、母に電話を入れた。妻にとって義理の親がいれば、授乳もしにくいこと、疲れている上に他人に気を遣うことの酷さを伝えた。母は物わかりの良い口で分かったと言った。だが、退院すると、アパートにやって来るようになった。俺が出社し、しばらくすると満面の笑みで玄関先に現れるのだ。家に帰れば、赤ん坊用のおもちゃが散乱していた。妻がぽつりと、「要らないのよ、こんなの。」と言った。「知育シリーズ」と、箱書きにあった。俺は、その文字に愛情のかけらを嗅ぎ分けようとしたのかも知れない。しばらくその無機質で、面白くなさそうなおもちゃの箱を手にしていた。
「飲む?」
妻が寂しく微笑みながら、ビールを開けてくれた。俺は息子でも妻でもなく、箱を見つめながらビールを流し込んだ。残業で空になった胃袋に、軽いアルコールが胃壁を荒らすのを実感できた。
それでも妻は耐え続けた。何も言わず、ただ耐えていた。退院して二週間、妻は遂に耐えられなくなった。土日ともなれば、父も一緒に現れる。当時土日も俺は出勤せざるを得ない状況だった。そこに、狙ったように俺が会社に出ている時間にやってきて、帰宅する前に帰っていく。
「あたしには、何をしても許されるって思っているのよ、あなたのご両親。」
若い女が、例え夫の親であっても他の男の前で胸をはだけて乳をやれるわけがないだろう、俺は母にそう訴えた。父はまず自分で俺に相対したりはせず、必ず母を挟む。ただ、その母の言うことを鵜呑みにする。母は、自分が受けた言葉をヒステリーで包んで父に渡す。「俺がお前の嫁さんのおっぱいなんかに興奮するとでも思っているのか。」次の日にはそんなメールが来ていた。その日は、仕事が手につかなかった。胃がムカムカした。その上母は、男はダメで、女である自分は良いと判断したようで、その次の日もやって来た。妻は「もう無理」と言い、俺はしばらく来ないでくれと電話で話した。理を尽くし、噛んで砕いて説明したつもりだ。母は分かったと物わかりの良い口で言った。その次の朝に来たメールが、「人間性を疑う」ものだった。
俺はその日から、一切の連絡を絶った。社内のメールサーバの受信拒否リストに父の連絡先を片っ端から追加し、家の固定電話にも携帯電話にも拒否リストに追加した。その上で、次の週末には引っ越しを強行した。あの時の、妻の嬉しそうな顔は忘れられない。クタクタに疲れ、目の下にクマを作り、ゲッソリとこけた頬に嬉しそうに笑みを浮かべ、一緒に買った思い入れのある食器を新聞紙で包んでいた。俺は、自分の家族を守ったことに誇りを感じていた。
それから、三年、俺は一切何の連絡もしなかった。仕事と妻の職場復帰に伴い保育園の登録、友人達への息子のお披露目で忙しくなり、その後はお互いに仕事と育児で何も考える暇もなかった。親のことは、ほぼ思い出さなかった。息子は日々大きくなり、抱っこひもでの抱っこも必要なくなり、歩くようになった。やがて走るようになり、遅かった口もようやく利くようになった。ある日、俺は息子の手を取り、百貨店に向かった。妻は二人目の子供を身ごもっていた。俺達はお母さんにちょっと、休憩をプレゼントするために出かけていたのだ。その出先で、俺は両親にバッタリ会った。
「こんなに大きくなって。」
母は息子を見て、絶句した。息子は妻によく似て目が大きく、髪はどこまでも黒く艶やかで、髪さえ長ければ女の子と言っても通っただろう。知らない老人を見上げ、息子ははにかんだように笑った。母は人前も憚らず、滂沱と涙を流していた。
「小さい時のあなたにそっくり。」
俺は息子を見た。そこにはより濃く母親である妻の面影があるように思えた。
俺は、それからまた両親と連絡を取るようになった。妻は、余りいい顔をしなかった。だが、自分にとっては唯一無二の親なのだ、そういう態度を取られると反感を抱かずにはいられなかった。
祖父が健康上の問題を持っていることを聞かされた。もう、余りもたないだろうと言うことだった。俺が小学生の頃は、よく遊んでもらった記憶がある。俺が小学生の頃、俺達一家は両親の地元であるこの地ではなく、別の地方にいた。だから、夏休みや冬休みには、俺は一人で祖父母の家に遊びに行っていた。それも、両親が子供の相手をしたくないがために、子供だけを自分達の親に押しつけ、自分達は親孝行をした気に浸りつつ羽を伸ばしていたと言うことだろう。さして親らしいこともしていなかった癖にと、俺は一人反発を感じた。それはともかく、あの祖父が危ないのかと、少し心が乱れた。近所の川に魚を捕りに網をもって出かけたり、セミを追いかけたり、カブトムシを探しに早朝の山に出かけたり、父親らしいことをしてもらったのは、父よりも祖父の方だったかも知れない。その祖父が、危ないという。俺は、大きくなってから祖父に何か恩返しをしただろうか。祖父母は俺の結婚式では、「結構だ、結構だ」と繰り返し言っていたと聞いた。であれば、あの気にくわない結婚式も、祖父母へのささやかな恩返しと言うことも出来たのだろうか。お金を稼ぐようになってからも、さしてプレゼントをしたわけでもない。子供の頃の懐かしい記憶の中にだけにいる、遠い人になっていた。物理的には近かったのにも関わらず、俺は何と冷たい人間なのだろうと自分を責めた。
祖父が入院しているという病院に見舞いに行くと、俺が両親との連絡を絶っていた間に祖父は痴呆が進み、俺の顔を見ても誰の子供かも分からず、自分の孫だと認識できずに、「ああ、先生。今日もお世話になります。」と医師と間違えて深々とお辞儀をするのだ。祖父はそれから間もなくして亡くなった。あの大きな手はぬくもりを失い、胸の上で組まれていた。叔父や叔母が泣き崩れる中で、父は割りと平然としていた。「いつかは、死ぬさ。」そう言ったきりだった。
毎日毎日、世界中のどこかでたくさんの人間が死んでいる。死は遠い世界のことではなく、極近くでも日常的に起こっていることだ。ただ、そこには物理的心理的壁があって気が付かないだけだ。俺は、いつか自分が父の立場になることも覚悟を求められた。俺は、父が死んだ時、後悔をしないのだろうか。あの時、そう考えていた。
二人目が生まれ、割りとすぐに三人目を授かった。母は大喜びしたが、父は苦々しそうに、「お前もいい加減にしておくことだ。」と言った。俺が一人っ子だったのは、母に体力が無かったこともあるが、父の精巣に問題があるとは祖母から聞いたことだ。父は、その事で俺に引け目を感じていたのかも知れない。であれば、精々盛大に男として、生物的に劣っていると見せつけてやるもの悪くないと思った。溜飲が下がる思いだった。
両親は初孫を猫かわいがりした。小学校に上がる頃には高級シャープペンを買い与えたり、絶対にダメだと言っていた電子ゲーム機を親に隠してもたせたりした。
「ばれなきゃ良いんだって、バアバがよく言ってるよ。」
長男は、無邪気な顔をしてそう教えてくれた。俺と妻は顔を見合わせて、眉根を寄せ合った。ゲーム機はダメだと母に言っても、母は「そりゃそうでしょう。」と素知らぬふりを通した。ゲーム機を目の前に突きだしても、これを私が買ったとでも言うつもりかとうそぶいた。長男は段々図に乗り始め、親に隠れて母に電話をしてはあれやこれやと買わせ始めた。特にカードゲームは問題が多かった。レアカードだと数万という値段が付くらしく、しょっちゅう同級生同士でトラブルとなり、相手の親や先生から何度も注意を受け、俺も妻も頭を下げ続けた。だが、母は「誰が買い与えているのかしら。」と他人事だった。長男はバアバに買ってもらっていると素直に話していた。店の人にも話を聞いたら、やはりお金を払っているのは母だった。困っていると父に話をしても、「お母さんがそんなことをするはずがないだろう。一体お前はどういう目で自分の母親を見ているのだ、それでも人の子か。」と目を怒らせてなじられた。
結局長男はお金に関する感覚が大学に上がって自分でアルバイトをしてお金を稼ぐようになるまで狂ったままだった。俺は、大いに自分の親を呪った。二人で海外旅行に行くと聞けば、飛行機が落ちれば良いのにと真剣に念を送ったものだ。
あるとき、本当に偶然に、別の地方に住んでいた時の、子供の頃に住んでいた家が売りに出されていることを知った。ネット上の情報をたまたま拾ったのだ。俺は懐かしさに居ても立ってもいられず、当時十歳になったばかりの長男を連れて、新幹線に飛び乗った。不動産屋に見せて欲しいと言うと、暇そうな不動産屋は買いもしないことを百も承知で現地に連れて行ってくれた。急な傾斜の中程にその家は建っていた。物心ついた時から小学校卒業前まで暮らした家だ。俺にとって、家と言えばこの家だった。久々の再会に俺は胸を躍らせていた。不動産屋の車で現地に向かう間、俺は息子に道道の思い出を語った。ここで自転車に乗っていて車にぶつかった、ここにはおもちゃ屋があって、いつも店の前でプラモデルを箱から出して手にセメダインを付けながら作った、ここの溝ではいじめっ子と列んで立ち小便をした。俺のその土地での経験は、ほぼ息子と同じ頃までで終わっている。何かしらの縁が繋がっていて欲しかった。だから、俺はその家を手放さないように両親に頼んだが、まるで聞いては貰えなかった。それはそうだろう。持っていてもどうしようもない。人に貸すか、そのまま放置しておくか。だから、俺も両親がその家を売りに出したことに異議はない。ただ、残念だった。子供心に、いつかこの手に取り戻すと、誓ったものだ。いつか、大金持ちになって、自分の家を取り戻す。友達の家が近いあの家、夏の昼の光りが踊り、ジュースを飲み干したあの二階の屋根瓦の上、飼い犬と走り回ったあの広い庭、秋には金木犀が花を咲かせ、甘い匂いが広がった南側の一角。二階のベランダで遊んでいたらアシナガバチの巣に近付きすぎて蜂に刺されたこともあった。何もかもが懐かしいあの家に、外側だけではなく、中には入れるのだ。俺は、不動産屋が俺の思い出話を聞きたがるのを少々面倒に感じていた。家が近くなると、どこの道でもどこの角でも思い出達が顔を出す。もう二度と戻らないだろうと思っていた土地。次々と顔が浮かんでくる。表札には懐かしい名前がかかったままになっている。まだ、彼は、彼女は住んでいるのだろうか。隣には、同級生の女の子が住んでいた。彼女はどうしただろうか。
「この辺も新興住宅地の宿命って言うんですか?開けた当時は良かったんでしょうけど、後は人もあんまり入っては来ませんでね。お客さんにこういうのも何ですけど、段々寂れていくって言うんですか?空き家も増えてきて、なかなか売れませんね。」
目にするブロック塀も、かなりの年期がその汚れの中に感じ取れる。白く何かが流れ出したようなものさえある。手入れがされていなくて、もろに数十年という時間がそのまま止まったようだ。俺にはそれさえも、大いに感傷に浸る要因となった。
「着きましたよ。」
そこで見たものは、まるで俺の記憶にあるものとは異なっていた。建物の壁は明るいクリーム色に塗り替えられ、金木犀のあった場所はコンクリが敷かれ、車を止めるようになっていた。庭に回ると、時々父が手入れしていた芝生は見る影もなく、安物のプラスチックのタイルが敷き詰められていた。端の方にはホームセンターで売っているようなテラスが拵えられていて、バーベキューでもしたような雰囲気が残っていた。タイルとタイルの間からはセイタカアワダチソウがまばらに伸び、廃墟の趣だった。それは晴れ渡っているのに、俺の印象は黄色く濁った焼き付けられた写真の中の風景だった。二階のベランダは雨に打たれ錆が吹き出し、蜂に刺された場所も錆の流れ道になっていて赤茶けていた。空を見上げて転がった二階の屋根にはパラボラアンテナが取り付けられていた。俺は、悲しくなった。ここにだけ、俺の思い出がすっかりない。不動産屋は中もどうぞと鍵を開けてくれた。玄関の扉は記憶の中のものと違ってはいないようだった。三和土も、きっと変わっていないのだろう。すぐ右手のトイレは和式から様式に変わっていた。階段横の東南アジア風の彫刻の柱はなくなっていた。俺はそのまま階段を上がった。俺の部屋は二階にあった。ここで一人本を読んだり、漫画を読んだり、勉強をしたり。家庭教師の先生に来て貰ったこともあった。自分の部屋からベランダに出て西を向くと、真っ赤に焼けた太陽が目の前に見えた。近く公園で同級生達が野球をやる声も聞こえた。だが、目の前の部屋は確かにそうだったのだろうけど、俺の勉強机もベッドもない。夏と言えば近くの海に連れて行ってくれた、その時に拾ってきた貝殻もない。ああ、夏と言えば、海だった。唯一と言えるほど、父と母が俺の楽しみにしていることを叶えてくれた例だった。海で拾った宝物の貝殻を俺は、床いっぱいに広げていた。あの頃は四畳しかないその部屋が広く感じられた。大人となった俺には、物置のようにしか感じられなかった。俺はここに来たことを悔やんでさえいた。下におり、リビングに続く台所に入った。料理をする時の煙やら匂いを外に出せるように、台所には大きな窓がしつらえてある。台所は当時の流行でもあったのだろう、今のようにその存在を存分にアピールするでもなく、ただ申し訳なさそうにそこにあった。その横には勝手口がある。波打った板で作られた扉。俺は、それを見た時に涙が溢れ出るのを止められなかった。明らかにその勝手口から母が買い物を下げて急いで帰ってくる姿が見えた。不機嫌に何か言っている。俺のテストの成績が悪かったのか、近所のおばさんに悪口でも言われたのか。母は、若い頃はそこそこの綺麗な顔だった。それが俺には自慢だった。その事で苛められもしたが、それさえもザマア見ろという気持ちが無かったわけじゃない。母は、袋から魚を取り出すと、グリルに入れて焼きだした。あの魚は同級生のお父さんの店で買ってきたものだ。ただ、涙が溢れた。あの頃、ただ大人になりたかったあの頃、大人になれば誰からも苛められることなく、まるで違ったものになれるように考えていた。それは、まるで見当違いだったが、俺はそれでも守られていることを実感していた。愛されていたのかはどうかはまるで自信がない。振り返るとあの汚い机が見える。テーブルクロスを掛けないととてもじゃないけど見れたものじゃなかった。その机の上で、冬は鍋料理が出た。俺は鍋料理の後のおじあが好きだった。父がおじあの用意をする間、俺は「一回目のご馳走様」と言ってソファでゴロゴロしていた。その俺を見る父と母の目は優しくはなかったか。
実際目に映るものは、ささくれだったフロアリングの上に溜まりに溜まったほこりの平原だった。夏の甘い匂いが広がっている。洗濯が終わったばかりで、洗剤のスズランの匂いがする。狭い風呂場のお湯の匂いがする。俺は思った。きっと俺は死ぬ寸前には、ここの夢を見るのだろうと。父と母に優しく見守られ、俺は安心して大好きなおじあを待っている。その安心感の中、俺の体は全機能を停止する。ずっと、俺は死ぬ寸前には子供たちに本を読んでいる夢を見たいと思っていた。その光景こそ、俺の人生で一番の幸せだと思っていた。子供たちを膝に乗せ、絵本を読み聞かせることは、至福だった。だが、俺の心の奥底で求めていることはそれではなかったのかも知れない。涙はやがて嗚咽を呼んだ。呆然と俺を見ている不動産屋と長男。俺は、今自分が手に入れたあのちっぽけなペンシルハウスを終生手放すまいと思った。この子達に、帰る場所を残しておいてやりたい。こんな廃墟ではなくて、誰かがいて、温かい場所を、空間を。息子を脇に抱き、俺はそう誓った。
長男は中学受験に失敗した。高校受験にも身が入らず、親をヤキモキさせた。だが、あの可愛かった長男は完璧な反抗期に突入。親と口も聞かなければ、部屋で何をやっているのか詮索されることを殊の外嫌った。母は、そんな長男に金を渡し続けたようだ。どう見てもおかしい持ち物が多く見られた。だが、俺と妻は何も言わず、ただ彼が起きてくれば声を掛け、学校から帰れば風呂に入るように促し、寝る前には閉じられた扉の向こうに声を掛けた。
まるで石に語りかけているような空虚さがあった。お金を渡しても大して構って貰えず母は少なからずパニックになったようだった。二日と開けず電話がかかってくるようになった。どれも長男のことが心配だというものだった。「手紙を書いたのだけれど、あんたが渡してないんじゃないの?あの子が手紙を受け取って返事も出さないなんて、信じられないのよ。」手紙は確かに息子の部屋に届けた。その手紙は封が開けられることもなくねじられてゴミ箱の中に入っていた。余りにも手紙が気の毒で俺はそれを読んだことがある。そこには勉強しないとろくな大人になりませんと、くどくどと書かれていた。これでは捨てられて当然だろう。
「もう私たちに残された時間は短いの。最後に、何かして上げたいのよ。なんと言うのか、生きた証じゃない?命の数珠つなぎ、その先に何か残したいの。」
何を勝手なことを苛立った。余計なことを言って、もっとこじらせたらどう責任を取るつもりなのか。この子達が大人になり、家庭を持つ頃には俺の両親は墓の下だろう。責任がないから、勝手なことが言える。責任がないから、大騒ぎを楽しめる。
「あの偏差値じゃ、普通の公立にも入れないわよ。どうするの?言うことを聞かないからって、そのまま放っておくことも出来ないでしょう?こないだの模試の結果はどうだったの?私らに出来る事ってないと思うけど、若い頃は家庭教師もしていたから、教えに行くわよ、いつでも。」
まるで分かっていない。赤の他人であればまだしも、軽蔑し、見下しきっている祖父母の話なぞ、聞く耳を持つはずがない。それは孫からキャッシュカードの要らないATM扱いされている本人が一番よく分かっているはずなのだが。
「あんたがしっかりしないから。どうするの、行く高校無かったら。父親であるあんたと、母親であるお嫁さんの責任よ。」
何でも良かったのだろう。大騒ぎできるネタがあれば。長男は、それを冷静に見ていた。長男は、模擬試験は適当に受けていたようだ。実際にまともに取り組めば、そんなに悪いものではなかった。長男はそこそこの高校に入り、大学も順調に進学した。俺の両親は、そのどちらも、自分達が心配したお陰で進学できたと鼻高々だった。全部、親の責任ではなかったのか。それが、どうして祖父母の功績になるのか、俺達には理解できなかった。
父は呆気なく死んだ。脳溢血で、何を言う間もなく死んだ。俺は、泣けなかった。寺や葬儀の手配であれこれしている間に何もかもが済んだ。俺は煙突から登る煙を見ながら、父は空に帰っていくのだろうと思った。父との思い出と言えば、勉強しろと、海と、プラモデルだろうか。三つくらいだったか、俺はF-16のプラモデルを買ってもらった。父が作ってくれていたのだが、俺が部品を壊してしまった。ランディングギアのW型の部品だった。今でも真ん中から折れた部品が白かったことを覚えている。父は激怒して、その場にあった部品を片っ端から破壊した。それ以来、F-16は嫌いになった。ろくな思い出はない。自分のお陰で息子は一流の大学を出、そこそこの企業に入ったといつ迄も自慢たらたらだった。会社人になると、父の口癖は勉強しろから出世しろに変わった。顔を合わせる度に課長になったのかと問い詰められた。なぜもっと昇進しようとしないのかとなじられた。それも何のためだったのだろうと思う。
母親はその後、痴呆を発症した。ホームではなかなか受け入れて貰えず、しばらく一人で生活させていたが、あるだけの金を使いに使った。エルメス、グッチ、シャネル。何でも御座れで、毎週のように数十万のカバンだの洋服だのを買いあさり、父が残した遺産はあっと言う間に消えた。痴呆の進み具合は速く、運良くホームに入れて貰えた。そこでも母は女王様気取りで好き放題だったらしい。最後の言葉は「お茶が熱い。」だったそうだ。そう言って茶碗をヘルパーさんに叩き付けたらしい。
死んだと聞いて、俺は何か取り返しの付かないことをしたように思った。後ろめたく、とても親不孝な一生を送らせたと自分を責めた。だが、あの親の要求を聞き続けていたら、俺達の家庭は、俺の人生は、きっと滅茶苦茶になっていただろう。
「あの時ね、最初の子が生まれてから、お母さんが連日うちに来たでしょう?あの時、あなたがお母さんを庇うようだったら、あたし、離婚届を突き付けるつもりだったの。あたしの分はもうハンコ、押してたから。」
最後の一線は、なんとか守りきったのだろうか。目の前には、若い頃の美貌は片鱗も残らず、干からびたミイラのような老婆が転がっている。俺は母の手を取ることさえも躊躇い、それでいて何かとてつもない後悔を後々するような恐怖に捕らわれ、それでも「出して下さい」と待ってくれている霊柩車の係の人に言った。簡単な家族葬だった。誰も夜通し母の側に付きもせず、線香の火も朝には消えていた。
俺は霊柩車に乗って思った。俺は、生まれ変わることがあっても、あの両親の元に生まれたくはない。俺も大した親じゃなかったが、どうせなら、俺のような親の方が良い。俺は後ろの席に座っている三人の子供たちに顔を向け、尋ねた。
「なあ、お前達。お前達は、俺の子供で良かったって、思っているか?」
三人は一様に苦笑して、「ああ、そう思ってるよ。と言うことにしておいて上げるよ。」と長男が言った。俺なら、同じ質問をされれば、即座に「生まれ変わるつもりはないから答えるつもりはない」と答えただろう。
永遠に解り合えなかったのか、解り合う努力をしなかったのか。その努力をすれば、俺達親子は違った未来があったのか。車窓の外には、山が見える。母も、火葬場の煙突から空に帰っていくのだろうか。母は、死ぬ間際に夢を見ただろうか。普通の家族でいたかった。俺は目頭を押さえたが、やはり涙は流れなかった。
自分の気持ちを表現する、それも一つの技術。
相手に分かり易いように、自分の気持ちをちゃんと咀嚼して、相手の口に合うように言葉を渡す。
でも、怒りや見栄、自分の親が自分にどう接してきたか、そんなことが絡み合って、上手く出来ないんだよな。
それが、普通じゃないのかな。
どこもかしこもが、温かくて、優しくて、時には喧嘩するけどやっぱり一番の理解者で、そんな「サザエさん」みたいな家族ばっかじゃ無いでしょう。
心の中で罵り、憎み、蔑み、それでも縁が切れない面倒くさいもの。
その中に、愛情が微かにでも残っていれば、それが苦しみになる。
パンドラは箱を開けてしまった。「憎しみ」や「嫉妬」が世界に飛び出していった。慌てて箱を閉めたけれど、パンドラは「希望」に懇願されてもう一度箱を開けた。「希望」も「憎しみ」や「嫉妬」を追って世界に飛び出した。
パンドラを良くやったと祝福するのが幸せな人、馬鹿者と罵るのが不幸な人。でも、人はどっちでもある。時として祝福し、時として罵る。なんでこんなややこしいんだよ。
リアルの私は、親とは解り合えないと思っています。でも、世間の善人どもが、「話せば分かる」「親不孝は罪だ」「君の努力が足りない」「子を愛さない親がいるはずがない」などと言う。
うるせえ。
確かに努力が足りないかも知れない。でも、努力する度にガッツリへし折られたら、こっちの心が折れる。
話しても、相手が聞かないのではどうしようも無くないか?都合の良いことしか聞かないし、都合の良いように解釈をする。
グッタリと疲れた俺は、自分を親不孝者だ、クズだ、悪い奴だとしこたま責める。
ああそかもね。でも、しんどいねん、それ。