昔の話
物心ついた時には人に聞こえない音が聞こえた。
幼い頃の世界は美しかった。
生まれた地が田舎であったことが幸いし、山や川や虫、獣。彼らはただそこにあり、あるがままに生きてる。
そこから生み出される音は、ただ、美しかった。
大人も皆おだやかで、慎ましく、自然や田畑と共にある人たち。
こどもたちも純真で素朴だった。
私の周りは調律されたピアノのように耳障りの良い音が溢れ、穏やかな音に恵まれて育った。
でもそんな日々も中学に上がるまでだった。
周りに変化が訪れたのだ。
思春期に入る年頃の同世代が100名近くいる学校がどんどん苦しい場所になった。
特に女子の中から生まれてくる聞いたことのない不快な音。
調和のとれた音たちが、くるったかのように音階が崩れ、頭が割れそうな音階に変化し始めていた。
それは、恋心が嫉妬になり、悪意に変わる、マイナスな感情の念から生まれる、不協和音。
ある日、その念が自分に向いてまともに音を拾ってしまい、吐いた。
音が聞こえない周囲からすれば、急に吐いた同級生に驚いたことだろう。
吐いても気分が収まらず、視界が霞んで気がつけば家の布団で寝ていた。
中学2年にもなればそれは、何度も起こり、さすがに精神的にもまいり始めていた。
「うっ、ひっく…。うぅう。」
中学3年になる目前の冬、もう何度目かわからない早退をした自分が情けなくて、悔しくて、涙が止まらない日があった。
「律、お姉ちゃんねえ、良いプレゼントがあるの。」
泣き止まない律の頭を撫でなから歌ってくれていた奏は、おもむろにそう言うと大きなヘッドフォンを差し出した。
「ヘッドフォン?」
「そう、ヘッドフォン。これねえ。優れものなの。プレーヤーに繋がなくても音が流れるのよ。」
涙をぬぐいながら奏の手元をみると黒い、いわゆるヘッドフォンで、それが「良いもの」とはにわかに信じられない。
「お姉ちゃん、あれは音楽も超えて聞こえてしまうよ?」
そう、不安そうに問えばにっこり笑って奏は答えた。
「ふふ。そんなの知ってる。だからね、私の歌が流れるの。これなら他の心の音は聞こえないはずよ。」
そう言って耳に当てられたヘッドフォンから流れる音楽に驚いた。
いつも奏が歌ってくれるとてもあたたかい、心に染み入る子守唄のようなアリアだった。
これは、奏の「心の音」が練りこまれた、律のための歌だ。
ヘッドフォンからは音というよらも、奏の律への愛情が流れてきて心があたたかくなる。
奏は、律に聞こえるという不思議な音を、「心の音」と呼んでいた。
恐らく、人の心のあり方が音になり、律の耳に届くからだろうと。
あまりにも早退する孫を安じて、祖父母が医者に通わせたが原因は分からず精神的なものだろうと言われて返された。
研究だなんだでめったに現れない実の娘夫婦に託された孫が原因不明の体調不良とあり、祖父母の動揺っぷりは申し訳ないばかりで、余計に気分が塞いだ。
そんな律に奏はなんでもないことのように「律には心の声が聞こえるんだから仕方がないわ」と言って慰めてくれた。
なぜなら彼女もまた異能持ちだからだ。
奏は律のように音は聞こえない。
ただ、想いを練り上げて歌に込めることができる。
それは、普通の歌とは明らかに異なる音質であることは律が誰よりも知っていた。
奏が愛を込めれば聞くものの心は満たされ、慈しみを込めれば癒される。
試したことはないが怒りや憎しみを込めれば相手を苦しめることもできるだろう。
そんな奏が能力を使って律への愛情を込めて歌ってくれた、守護のような歌がヘッドフォンから流れてくる。
確かにこれなら誰よりも強い律への想いの念がこもっているので、他の心の音は聞こえないかもしれない。
「すごい!ありがとう。お姉ちゃん。すごいねこのヘッドフォン。前にスマホで録音しようとした時は心の音は録音できてなかったのに。」
「父さんの研究物だそうよ。仕組みは分からないけど、心の音を練り込んだ歌がきちんと記録できるみたい。逆に普通の音楽は録音できないのが不便だけどね。」
何の研究をしているのかイマイチ分からない親だが、少なくとも自分のような耳を持つ身としては、とても有り難い発明だったので深く考えないことにした。
「学校には治療の一環とか適当なこといって許可をもらってあるよ。明日からは気持ち悪くなる前にこれを使いなさいね。」
そうして、なんとか進級できてほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間。
今度は奏が大学は都会に行くと言いだした。
奏は、心の声を練り込めることを差し引いても歌が上手い。
アルト気味の耳触りの良い落ち着いた声、バラードがよく似合う透明感。
特技である歌を伸ばせる音楽学校が都会にはあるらしく、確かにこの田舎では音楽の学校はなく奏の希望は叶い得ない。
自分の高校への進級と奏の大学進学の年は重なるが、これまでと変わらず、この田舎で姉妹で支えあっていくとおもっていただけにこの奏の話は動揺したが、大好きな姉の願いだと思えば受け入れるしかなかった。