7. 神の書
フリーダの元に訪れた時点で、勇人の精神は限界ギリギリにまで追い詰められていた。
日本という恵まれた環境で何不自由なく過ごしてきた勇人に取って、この異世界での生活は地獄に等しい物だった。
勇人が精神を此処まで保てた理由を挙げるならば、自分がこの世界を救える選ばれた人間で有るという思いであろう。
自分が折れてしまったらこの世界は原作と同じ結末を迎えてしまう、そう考えた勇人はこの苦境に耐えることが出来たのだ。
しかしそんな勇人を支えていた物は、克洋という自分以外に現実世界から来訪してきた者の存在によって粉々に砕かれてしまう。
自分だけが特別な存在で無かった、その残酷な現実は勇人の壊れかけての心に止めを刺したのだ。
最早正常な思考が出来なくなった勇人は、知らず知らずの内に自分を追い詰めた克洋に対する憎しみで満ち溢れていた。
「"冥土の土産に見せてやろう、失われた"神の書"の力、神器の姿をなぁぁ!!"」
「"はあっ、神の書!? ふざけんな、何でそんなチートアイテムを…、やばい!"」
勇人は勝ち誇ったように、自分が手に持つ本の正体を克洋に告げた。
神の書、その存在は"冒険者ユーリ"の原作を読破している克洋とって既知の名前であり、その危険性についても理解していた。
古ぼけた本にしか見えなかった物の正体を知った克洋は、慌てた様子でフリーダにその情報を通訳して知らせる。
「フリーダさん!? まずいです、こいつ神の書を持っているそうです!
しかも今から神器を召喚する気らしくて…」
「神の書!? それはもう失われた筈だぞ、馬鹿な…。
しかしそれなばら、あの力に納得は…」
「…神の書?」
世界最高峰の魔法使いであるフリーダは、神の書という名前の危険性をすぐに理解の色を示した。
フリーダはすぐさま杖を勇人の方に向けながら、最大限の警戒態勢を取る。
那由多の方はその名前に聞き覚えが無かったようで、可愛らしく小首をかしげる。
それだけ見れば可愛らしい少女にしか見えないだろうが、首をかしげながらも刀を抜き放つ所は流石那由多である。
どうやら那由多は神の書の正体を知らずとも、フリーダの反応からそれが危険な物であると察したらしい。
「お兄様。 何ですか、神の書って…」
「神が残したって言う伝説のアイテムの一つだよ。
神の剣、神の弓、神の斧、そして神の書! けど本当なら現代では、神の剣以外は全て喪失している筈なんだけど…」
神の書の存在を知らない那由多のために、克洋は原作知識を参考にして彼女の説明を行う。
"冒険者ユーリ"の世界において世界を想像した神が残したと言われている、神の武具と呼ばれる伝説級のアイテムがあった。
破壊と再生を司る炎の力を操る神の剣。
争いを沈め潤いを満たす水を司る神の弓。
豊穣の恵みと安定を齎す土より生まれし神の斧。
そして世界を巡る風と大気の理が記された神の書。
神の武具と呼ばれるこれらのアイテムは、使用者にまさしく神の如き力を与えた。
この世界において最強クラスの戦力であるフリーダと曲りなりにも互角に渡り合っていた秘密は、このチートクラスの伝説のアイテムにあったらしい。
しかし"冒険者ユーリ"の原作において、実際に出てきた神の武具は神の剣だけである。
作中の説明による神の剣以外の神の武具は全て失われており、本来なら神の書はこの世界には存在しない筈なのだ。
恐らく勇人は来訪時に授かる特典として、この神の書を所持した状態でこの世界にやって来たのだろう。
「では神器と言うのは…」
「ファンタジーの世界観を完全無視した巨大ロボットだよ!?
ええっと…、この前見たドラゴンより一回り大きい鉄のゴーレムみたいな物!!」
神の武具には所有者にそれぞれの武具が持つ属性の力を与えるだけで無く、神器という奥の手も存在した。
神器、神がこの世界に訪れる際に使用したという神の器と言う名の巨大ロボットである。
原作で神器が初めて登場した時、いきなり世界観を無視した巨大ロボットが登場した事によってネット上でえらく騒がれたものだ。
まるで何処ぞのスーパーロボットアニメのように、神の剣をかざしたら空を切り裂いて巨大なロボットが現れる。
後になって実は巨大ロボットが居てもおかしくない世界である事が判明したのだが、その時点では読者はそのような情報を知るはずも無い。
これまでの純粋なファンタジーの世界をぶち壊す所業に、当時は作者の気が狂ったかと罵る者まで出るほど荒れた物であった。
一読者であった克洋もこの神器の登場には思うところがあったが、それを使う者がユーリの敵であった事でギリギリ許すことが出来た。
ファンタジー世界に巨大ロボットはどうかと思うが、少なくとも主人公の前に巨大な敵が現れるというシチュエーションは克洋にも理解出来のだ。
話が脇道に逸れてしまったが、勇人は今まさに神器という反則兵器を呼びだそうとしていた。
勇人の危険性を理解した那由多とフリーダは、その暴走を止めるために飛び出そうとする。
「やばい、神器を呼び出されたら大変なことに…。 早く止めない…」
「"させん!!"」
神器などと言う反則兵器を呼び出されたら、今の暴走した勇人を止められる者は誰も居なくなってしまう。
幸運な事に神器の召喚には定められた呪文の詠唱が必要があり、今ならまだ妨害が可能である。
しかし召喚のために一定の時間が必要な事は、勇人の重々承知していた。
勇人は神の書の力で己の周囲に、先ほどフリーダの魔法を打ち消した時の規模を上回る暴風を展開する。
その風の結界の風圧は凄まじく、距離を置いた克洋たちの体が吹き飛ばそうになるほどの圧力だった。
この風の障壁は、勇人が神器の召喚を行うための時間稼ぎで有ることは明白であった。
愚図愚図していたら、克洋たちは巨大ロボットに蹂躙されるという有りえない展開に遭遇してしまうだろう。
「フ、フリーダさん、あなたの魔法であれを吹き飛ばす事は…」
「すぐには無理だ、中級クラスの魔法ではあの風に掻き消される。
上級クラスの魔法でも、あれを壊せるか…」
「じゃあ超級、此処で切り札をばばーーんと…」
「あれはまだ未完成だ!? というより貴様、何故そのことを…」
この場で唯一、あの風の結界をどうにか出来そうな人物はフリーダだけであろう。
克洋はかつて勇者のパーティーであった、伝説の魔法使いに助けを乞う。
しかし現実は非常である。
勇人の周囲に展開する風の障壁は、神の武具の名に恥じない凄まじい力を秘めていた。
その力は人類サイド最高峰の魔法使いであるフリーダでも、匙を投げる物であったらしい。
「もう駄目ぁぁぁっ!? これは今のうちに逃げた方が…」
「お兄様、こういう時こそお兄さまの出番では無いでしょうか?」
「えっ、俺…」
フリーダと言う最後の頼みの綱が絶たれてしまい、勇人から名指しで狙われている克洋は半狂乱になってしまう。
勇人の事情を知らない克洋から見れば今の状況は、理由も解らず襲われていると言う理不尽な展開なのである。
別に克洋がこの場に残る理由は全く無く、逃走という手段は一番いい選択肢に思えた。
しかし克洋はまたしても彼と行動を共にする人斬りの少女によって、その逃走を止められてしまう。
そして那由多は可愛らしい笑みを浮かべながら、克洋に対してある無茶なお願いをするのだった。
風の結界は勇人の周囲360度を全てカバーしており、虫一つ入る隙間は無かった。
神の書の力を全開にした風の結界、例えフリーダの魔法で有ろうともこれを簡単に破壊することは出来ない。
対人に特化している剣士である那由多も、この風の防壁の前では出来ることは何も無いだろう。
邪魔者が入る心配が無くなった勇人は、いよいよ神の書の切り札である神器の召喚を行おうとしていた。
勝利を確信した勇人は、暗い笑みをたたえた。
神器と言う圧倒的な力であの邪魔な男を排除すれば、フリーダと那由多はきっと自分の力を見なおしてくれるだろう。
そして彼女たち原作キャラクターの協力を取り付け、自分の冒険を再び始めるのだ。
しかし勇人の目論見は叶うことは無く、その表情はすぐに凍りつくことになった。
「"…はっ!? な、何故お前たちが此処に!? くっ、風っ…"」
「遅いですよ!!」
「"ぐぁぁっ、腕がぁぁぁ!!"」
残念ながら勇人の神器の召喚は、突如目の前の空間に跳んできた那由多と克洋によって止められてしまった。
勇人の敗因は克洋の存在を無視した事と、風の結界を広範囲に広げてしまった事だった。
勇人自身と周囲の風との間には数メートルの空きが出来ており、克洋が転移するに十分なスペースがあったのである。
外敵を防ぐために自分の周囲全てに風を展開する事に意識が行ってしまい、勇人は必要以上に自分と風との空間を開けてしまったらしい。
そして冷静に勇人が風の障壁を展開する様子を観察していた那由多は、その致命的な隙を見逃さなかった。
現れた克洋と那由多に対して、勇人は慌てて風による迎撃を行おうとしたが遅かった。
既に勇人は那由多の刀の射程範囲に入っており、この距離で彼女の行動を止められる者の数は限られている。
その剣速はまさに神業、気がついた時には既に神の書を持った勇人の腕は宙に浮いていた。
分たれた腕の先から血が吹き出し、自分の腕の状態に気が付いた勇人の悲鳴が響き渡った。
「取ったどぉぉっ! って、うわ、腕が…」
「"あぁぁぁぁ、そんなぁぁぁぁ…"」
腕ごと神の書を奪われたことで、勇人の周囲で激しく吹き荒れていた風が嘘のように収まった。
自分の腕が断たれた事が余程ショックらしく、勇人は半狂乱になりながら叫び続ける。
その腕からは血が激しく吹き出しており、放っておけば出血多量で死んでしまいそうであった。
克洋は再び勇人に神の書を使われないように、瞬時に転移魔法で神の書の回収を試みる。
見事、神の書を回収した克洋は、未練がましく神の書から手を離さない勇人の腕を気持ち悪そうに見ていた。




