0. ザン
その子供は周囲から身を隠すように、世界の片隅でひっそりと誕生した。
新たの命の誕生に立ち会ったのはその子の両親たちを抜けば、彼らに親しい人間たちだけである。
否、人間たちという括りは正確では無い、何しろこの場にいる内の半分は人非ざる種だからだ。
しかし種は違えど生まれてきた子供を祝福する思いは同じらしく、この場に居る者たちは皆等しく笑みを浮かべている。
「その耳は…、どうやら人間として生まれたようね…」
「でも凄い魔力を秘めているぞ、この子は。 流石は我らは魔族の血を引くだけある」
温かみのある手作りのベッドに寝かされる子供、その耳の形は父親と同じ丸みを帯びた人の物だった。
しかし見た目こそ人間であるが、その内に宿る魔力は先端が尖った耳を持つ人非ざる母親の血を感じさせる物である。
穏やかな笑みを浮かべながら互いに手を取り合い、生まれてきた愛する我が子を見やる父親と母親。
その様子から彼らが後に勇者の称号を与えられる人間の男と、魔王の名を引き継いだ魔族最強の女であるとはとても思えない。
「もう名前は考えてあるのでしょう、あなた?」
「ああ、この子の名前は"ユーリ"、ユーリだ!!」
勇者と魔王、人と魔族が交わったことで生まれた禁断の子供。
残念ながら現在の人と魔族の関係を鑑みればこの子の存在は爆弾に等しく、出来るだけその存在を秘密にしなければならない。
そのためこの場に居るのは勇者のパーティーと魔王の側近たちと言う、信頼がおけるごく限られた者だけである。
「…小さいな、ユーリ、ユーリか」
赤ん坊を除けばこの場で一番年若い見た目をした魔族の少年は、何処か困惑した表情でユーリと名付けられた子供の姿を見つめていた。
魔王の弟である少年から見れば、この赤ん坊は自身の甥にあたる存在になるだろう。
人の姿で生まれた事から人の世界で暮らした方がいいとの話になり、この赤ん坊は後に両親の手を離れて勇者のパーティーの一人に預けられる。
しかし人間の世界に行くまでの僅かの間であるが、確かに魔族である叔父と人と魔族のハーフである赤ん坊は共に生活をしていたのだ。
やがて血の繋がった両者が、互いに命を掛けて戦う未来が待っていることなど知る由も無く…。
魔族、"冒険者ユーリ"の世界で人類の天敵と呼ばれ、忌み嫌われる種族である。
彼ら魔族と呼ばれる存在は幾度となく人類へ戦争を仕掛けて、その度に世界へ深い傷跡を残していった。
これまで人類は世界征服を企む魔族たちの侵攻を辛うじて食い止めており、魔族の歴史は人類に対しての敗北の歴史である。
しかし魔族は決して世界の覇権を握ることを諦めることなく、今日も虎視眈々と彼らの領域である暗黒大陸で淡々と次の機会を伺っていた。
「…このままでは駄目だ、姉さんたちだけでは奴らを抑えきれない。
やはり僕たちは奴らに従い続けて、このまま道化を演じるしか無いのか!?」
暗黒大陸、西方に位置する魔族たちの領域である。
この地を訪れて帰ってきた人間は殆ど居らず、人類サイドに取っては多くの謎に包まれた場所だった。
その大陸のとある片隅で、一人の少年が難しい表情を浮かべながら独り言を呟いている。
人非ざる者の証明と言うべき先端が尖った耳、創り物のように美しく整った容姿を持つ少年が苦悶する姿はそれだけの一種の芸術作品のように見えた。
「何が魔王だ、何が世界征服だ!? 僕たちに勝手な役割を押し付けて…、一体僕たちは何時までこんな無駄な争いを…」
これまで幾度となく繰り返された人類と魔族の戦争で、どれだけの人間が死んだか分かった物では無い。
しかし犠牲で言うならば仕掛けた側の存在が全く無傷である筈も無く、敗戦を繰り返している魔族サイドの方が犠牲が大きいかもしれない。
魔族から見ても人類との戦いで受けた被害は大きく、下手をすれば種の存続が危ぶまれる程に傷ついた事もあった。
そこまでの犠牲を払いながらも魔族たちが得た成果は殆ど無く、戦争中に人類の領域の一部を奪おうとも最終的に暗黒大陸へと追い返されるのが常である。
何の実りの無い戦争を厭う少年の思いは、暗黒大陸に住まう大半の魔族たちと同じ意見であった。
本当は彼らは人類との戦いなどを望んでいない、それならば魔族はどうして人類との不毛な戦いを未だに止めないのだろうか。
「奴らと戦うと決めた姉さんの決断は間違っていない…、誤算は奴らの力を見誤っていたことだ。
今代の魔王である姉さんと、姉さんを倒したあの男が力を合わせても、奴らに抵抗するので精一杯だなんて…。 これが僕たちの創造主と言うべき奴らの力なのか…」
そもそも伝承が正しければ魔族たちは、人類と戦うために"奴ら"によって生み出された種族らしいのだ。
言うなれば魔族に取って神というべき存在であり、奴らが居る限り魔族は人類との不毛な戦いを永遠に続けなければならない。
魔族に課せられた使命は人類の間引きであり、決して戦争に勝って人類を滅ぼしてはいけない。
つまり魔族たちは決して勝ってはいけない戦いを強いられ、永遠の敗北者であることが義務付けられていた。
そんな魔族の呪われた運命を打破するため、魔族の王は仲間を引き連れて奴らに戦いを挑んだ。
しかし魔族に取っての神の力は予想以上に強大であり、少年が伝え聞く限りでは敗色は濃厚である。
このまま玉砕覚悟で戦いを続けるか、降伏して再び人類の間引きを行う永遠の悪役として生き続けるか。
魔族の少年、ザンは呪われた魔族の未来の暗さに絶望感を抱いていた。
人と子のハーフである甥っ子の誕生に立ち会った時、ザンは人と魔の不毛な関係を断ち切れる未来を期待していた。
そんな事は淡い夢であると突きつけんばかりの絶望的な状況を前に、ザンは苦悩していた。
"冒険者ユーリ"の原作に沿った歴史で進むならば、このときにザンはある決意を固める事になる。
その決意を胸にザンは暗黒大陸を離れて人類の世界へと降り立ち、原作にある様々な事件を引き起こすのだ。
しかしこの世界でのザンに訪れた姿なき"来訪者"の存在によって、その道筋は大きく異なる物となってしまった。
「な、何だ、これは!? 頭の中に何かが…」
それは突然の出来事だった、ザンは自分の頭の中に何かが入ってくる奇妙な感覚を覚えた。
まるでコーヒーにクリームを垂らすように、ザンという存在が白い何か塗りつぶされるような感覚だった。
痛みは無いがそれ以上の喪失感に晒されてしまい、意志薄弱な者ならば為す術もなく全てを手放していた事だろう。
しかし侵食していく何かに対してザンは必死に抵抗し、自分自身の存在を強く意識して保とうと試みる。
時間にすれば数分と満たない間だったかもしれないが、ザンにとっては永劫に等しい苦しみだった筈だ。
自分が消えていく筆舌に尽くしがたい感覚に抗い、若き魔族の少年は決して己を捨てなかった。
「…ははははは、これが、これが僕たちの末路だって。 認めない、絶対に認めてないぞ!!」
魔族としての彼の半生の記憶、見た所も無い奇妙な世界で生きる男の半生の記憶が混ざり合う。
全てが終わった後にそこに居たのは自分たちの種族を憂う魔族の少年だったか、それとも少年の体を乗っ取ろうとした見知らぬ誰かか。
それはザン自身でさえも判断がつかない程、彼の頭の中に異常な量の情報で飽和状態になっていた。
しかし魔族の少年に分かることが一つだけあった、今のままではこの世界の未来が絶望であることを…。
「やる事は変わらない…、僕は絶対に奴らを…、"システム"を滅ぼしてみせる!!」
例え自身が何になろうとも、ザンの決意は変わらなかった。
"システム"、自身を含む魔族という種を作り出した創造主、それを打倒する手段を求めて魔族の少年は原作と同様に人類の世界へと旅立つ事になる。
しかしザンが克洋が言う"原作知識"という物を手に入れた時点で、世界の流れが"冒険者ユーリ"の物語とは大きく異なる物なることは分かりきっていた。
完結を優先するため、当初予定していた冒険者学校二年目編は省略となりました…