3. 指針
克洋が意識を取り戻して初めて見た物、それは見慣れぬ天井であった。
まるで頭に靄が掛かったように意識がはっきりしない克洋は、朧気な状態のまま上半身を起こした。
そこは克洋が少し前まで生活していた不粋な鉄筋製のアパートでは無く、四方が木製の壁で覆われている小さな部屋であった。
克洋は嗅ぎ慣れない木の香りを感じながら、興味深そうに部屋の中を見渡す。
部屋の中は六畳ほどの広さで、室内には木製のテーブルや椅子などの簡素な家具が置かれ、壁際に二台のベッドが設置されていた。
克洋は二台のベッドの片方に寝かされていたらしく、もう片方のベッドは使用されていなかった。
壁にある小さな窓からは赤い西日が差し込んでおり、もうすぐ日が暮れる事を示していた。
ふと視線を下に向けてみれば、そこには上半身が裸になっている自分の体が有るでは無いか。
体の上に掛けられていた微妙にカビ臭い毛布を手に払い、克洋は今更ながら自分がトランクス一丁の下着状態になっている事に気付く。
よくよく部屋の中を見渡せば、部屋の中に置かれた椅子の上に先ほどまで克洋が来ていた衣服が置かれていた。
その衣服は森の中で土下座などをした事もあって泥が付いており、恐らく寝床を汚さないために誰かが克洋の服を脱がしたのだろう。
周囲の状況を把握していった事で、克洋の意識は段々と覚醒していった。
そして克洋の脳内には意識を失う直前の記憶が蘇っていく、"冒険者ユーリ"の世界に訪れた事、転移魔法で空を跳んだ事、ドラゴンを間近で見た事。
軽く並び立てて見れば、どれも現実では有り得ない嘘のような記憶であった。
もし克洋がこんなファンタジー風の室内で無く、自分のボロアパートで目を覚ましていたのならば悪い夢でも見たと断じていたに違いない。
「…あら、目を覚ましたましたか、お兄様?」
「やっぱり夢じゃ無いよな…」
そして駄目押しするかのように、克洋の居る部屋のドアから一人の少女が姿を見せたのだ。
藍色の着物を来た美しき少女、那由多の登場に克洋は疲れたようにがっくりと頭を下げた。
そこは克洋が那由多と共に転移魔法で跳んだ地点からほど近い街だった。
交易路の中間地点に位置する街はそこそこ発展しており、旅人が利用する施設が多く存在している。
街に幾つか存在する旅人向けの宿、その一室に克洋と那由多の姿があった。
那由多の話によると克洋はあの後、突然意識を失って森の中で倒れてしまったらしい。
どうやら緊張状態で誤魔化されていただけで、転移魔法の連続使用は思った以上に克洋の体を疲労させていたのだ。
そして魔力切れの影響で完全に意識を失った克洋を、那由多はわざわざこの宿屋にまで運んでくれたらしい。
女の細腕で成人男性を運ぶとは恐れ入るが、よく考えれば此処はファンタジーの世界である。
この世界において強者に属するこの人斬りの少女であれば、克洋の体を担ぐ程度は朝飯前なのだろう。
「すいません、迷惑を掛けたようで…」
「構いませんよ、お兄様にはまだまだやって貰いたい事が有りますからね」
「あの…、俺は何をやれば…」
「とりあえず情報です、あの魔族の事についてもう少し情報を貰えますか」
部屋の中のベッドの上に腰掛ける克洋の姿は、何時の間にかこのファンタジー風の世界に合った服装に変わっていた。
克洋は着心地の余りよくない、ゴワゴワした肌色のシャツと黒いズボンの感触に違和感を覚えている様子だ。
これは那由多が克洋のために買い与えた衣服であった。
克洋が最初に着ていたTシャツにジーパンという現代風の出で立ちは、"冒険者ユーリ"の世界においては違和感しか無い。そのため那由多は悪目立ちを避けるために、わざわざ克洋のためにこの衣装を用意したのだ。
ちなみにこの世界に来たばかりの克洋にこの服や宿代を払う甲斐性が有る筈も無く、現実世界において中学生程度の少女に全ての代金を払わせていた。
衣服だけで無く先ほど克洋が頂いた硬いサンドイッチや生温い水も、当然のように那由多が克洋のために買い与えた物である。
年端もない少女に金銭的に面倒を見てもらおうとは、二十歳近くの男としては恥ずかしい限りだ。
勿論、那由多は純粋な行為で克洋に施しを与えた訳は無く、これはザンを斬ると言う那由多の目的に協力するに際しての前払い的な意味合いがある。
どうやら克洋は実力的な面だけでは無く、金銭的な面に置いても頭が上がらなくなりそうであった。
克洋としても折角"冒険者ユーリ"の世界に来たのならば、ユーリやその仲間たちと一度でいいから会ってみたいと思っていた。
ただしそれは現実に存在する漫画のキャラクターを一目見てみたいと言う、ささやなか野次馬根性でしか無い。
克洋が手に入れた逃げ腰の能力を見て解る通り、この男には原作で行われるユーリたちの世界を救うための戦いに直接関わる気は皆無だった。
早々にユーリの戦いに巻き込まれない事を決意していた克洋としては、原作キャラクターに深く関わる気は毛頭無かった。
下手に関わってしまえば原作のイベントに遭遇して、済し崩しずにユーリの戦いに巻き込まれてしまうだろう。
克洋はあくまで傍観者ポジションとして、ユーリたちの戦いを遠くで眺めながらこの世界を満喫したかったのだ。
「では、次にあの魔族の少年が現れるのは新年なのですか。 まだ半年以上先ですね…」
「俺だってザンの動きを全て知っている訳じゃ無いんです。
しかもこの情報はあくまで原作の物で、この世界に居るザンが同じようの行動しない可能性もあるし…」
不幸なことに克洋はよりにもよって、那由多という人斬り属性を持つ原作キャラクターと出会ってしまった。
そして不本意ながら那由多に協力する事になった克洋は、必然的にこの危険な少女と行動を共にする事になったのだ。
ザンに対する那由多の復讐を手伝うことになった克洋は、とりあえず自分の持つザンの今後の動きについての情報を披露していた。
原作の中でザンが初めて姿を表わす時、それは新年を迎えた物語の主人公ユーリが住む村を襲撃した時である。
確か原作の二巻辺りでユーリが冒険者を育成する冒険者学校に入った動機を説明するために、ユーリの回想としてその時の情景が描かれていた。
村人たちでは到底太刀打ち出来ないドラゴンたちに焼かれる村、そのドラゴンたちを率いるのが那由多の宿敵となったザンなのである。
主人公であるユーリ少年はとある事情から実の両親の元から離れ、勇者ヨハンの仲間であった僧侶デリックと共に小さな村で暮らしていた。
そしてユーリは父親が勇者ヨハンである事を知らされる事無く、ただの村の少年としての平凡な毎日を過ごしていたのだ。
しかしそのささやかな幸せは、魔族の少年ザンの登場によっていとも簡単に崩されてしまう。
ドラゴンを引き連れて村に現れたザンの目的は、当然のように勇者ヨハンの息子であるユーリだった。
最終的にユーリは生まれ育った村を無くし、そして幼馴染の少女を永久に失ってしまう。
辛うじてザンの手から逃れたユーリは、ザンやドラゴン相手に何も出来無かった自分の無力を呪った。
そして勇者の息子である事を知ったユーリは、父のような力を手にするために冒険者としての道を進み始めたのである。
ユーリの村を襲う以前のザンの足取りについては、克洋の知る限り原作では全く触れられていない。
そもそも冒険者ユーリは主人公であるユーリを中心にして物語が描かれており、敵方であるザンの描写は必然的に主人公よりは少なくなる。
そのため克洋の知る限り、原作開始前の現在においてザンが現れそうな場所など検討が付かなかったのだ。
「半年の間、ただ待っていても仕方ないですね…。
しかしあの魔族を探すにも、手がかりも無ければ…」
「うーん、俺も"冒険者ユーリ"の事を隅から隅まで知っている訳じゃ無いからなー」
克洋は別に重度の"冒険者ユーリ"オタクと言う訳では無く、原作を一通り読破した程度のライトユーザーでしか無い。
そして"冒険者ユーリ"には様々な裏設定があり、幾度から出された公式ガイドブックにはその裏知識が公開されている筈なのだ。
直接ガイドブックなどには手を出していない克洋には、まだまだ知らない裏設定は沢山有った。
その中には那由多が望むザンの情報も含まれているかもしれないが、ガイドブックを呼んでいない克洋がそれを知る筈も無い。
「いっそ俺やザン以外に現実世界からこの世界に来た奴を探して見ますか?
もしかしたらそいつがザンの足取りを知っているかもしれませんし…」
「…あの魔族やお兄様以外に、お兄様のお仲間が居るのですか?」
「ええっと…、その可能性は零では無いと思います…」
今の所、自分とザンが現実世界からこの異世界に来訪しており、この調子であれば他にもこの異世界に訪れた人間は居るだろう。
何の証拠も無い勝手な推測であるが、克洋は現実世界からの来訪者が自分とザンで打ち止めである可能性は考えにくいと考えていた。
「…情報源は多い事に越した事は有りません、兄さまの話の裏付けをしたいですしね。
お兄様、先に言っておきますが、もし今までの話が作り事だったならば…」
「ひぃ!? 全部本当だって、信じてくれよ!!」
「では、お兄様のお仲間とやらが居そうな場所を教えて貰えますか?」
「わ、解った。 ええっと…」
どうやら那由多は克洋の話を全て鵜呑みにした訳では無く、まだ内心で半信半疑の状態なのだろう。
確かにこの世界は創作の世界という話を、そう簡単に信じる訳にはいかない。
那由多も克洋と同種の存在と思われるザンとの接触が無ければ、決してこの話を信じなかった筈だ。
半年余りの猶予が出来た那由多は克洋の提案に乗り、情報の裏付けをするために新たな現実世界からの来訪者を探すことを決意したようだ。
再び刀に手を掛けて見せた那由多の軽い脅しを真に受け、両腕を前に突き出すと言うオーバーなりアクションをしながら自分の無実を訴える。
そして克洋は己の知る"冒険者ユーリ"の知識を記憶の海から呼び起こし、自分と同じようにこの世界を訪れた現代人がが行きそうな場所を考え始めた。