1. 異世界
薄暗い森の中で一人の冴えない男が、一人の美しい少女と向かい合っていた。
男は二十歳前後の若者で、余り手入れをしていないらしいボサボサ髪を肩口まで伸ばしている。
安物のジーパンに柄物のシャツという平凡な格好をしており、身長は平均より少し高めだろうか。
少し吊り目気味になっている目をこれでもかとばかりに見開き、男は顔面を蒼白させてながら何かに怯えるように息を荒くしている。
男と向かい合っている少女は、藍色の着物を着た美しい少女であった。
年頃は恐らく十五歳前後であろうか、小柄で起伏の少ない体型は少女に幼い印象を持たせた。
着物によく似合う長い黒髪を後ろでまとめた少女は、男に向かって楚々とした笑みを浮かべている。
仮に少女が手に持った凶器、抜身の刀を携えていなければ誰もがこの少女を何処ぞのお嬢様だと思う事だろう。
「ひぃ…」
男は恥も外聞も無く、年下の少女の前で情けない悲鳴を漏らしてしまう。
着物の少女に刀を突き付けられると言う非日常的な状況に陥った男、克洋は内心で己の不幸を呪っていた。
まるで走馬灯のように克洋の脳裏には、数分前に行われた目の前の少女との出会いの瞬間が蘇っていた。
そして克洋はその時に妙な仏心を出してしまった、過去の自分を心底恨んだのだった。
それは素晴らしい景色だった。
克洋は肌寒い天空から自由落下しながら、眼下に広がる光景を楽しんでいた。
風を切りながら徐々に地上が迫っているにも関わらず、克洋の表情には怯え一つなく逆に満面の笑みを浮かべている。
ビルのような無粋な建物は何も無く、地上の風景を遮る物は何もない。
人の手が加えられていない豊かな自然が沢山有り、自然に寄り添うように人里が作られている。
街と街を繋ぐ道にコンクリート造り物は一切無く、大地を踏み固めた街道を旅人たちが歩いて行た。
遠くには付近の街より二回り大きな都市が見え、恐らく領主か何かが住んでいるであろう西洋風の城も見える。
まさにオタクが思い描くファンタジーの世界に、克洋はすぐに心を奪われた。
「いやっほぉぉぉぉっ! 異世界、最高ぉぉぉぉっ!!」
克洋はこの異世界に来訪出来た事に対して、心から感謝をしていた。
子供のようにはしゃぎ回りながら克洋は、空の上で腹の底から喜びの雄叫びをあげた。
"冒険者ユーリ"、それがこの異世界を描いた物語の名前である。
この作品は架空のファンタジー世界を舞台に、勇者の息子という典型的な主人公のユーリが世界を救うまでの物語を描いた漫画作品だった。
どういう訳から克洋は夢も希望も無い現実世界から、この夢と希望に満ち溢れた"冒険者ユーリ"と言う架空の異世界へと訪れていたのだ。
もしかしたらこれは文字通り克洋が見ている夢で有り、次の瞬間に克洋は六畳間のアパートで目が覚めるかもしれない。
しかし例え夢であっても、克洋は最後の瞬間までこの異世界の空気を楽しむ気であった。
目の前に広がるファンタジーな光景に夢中になっている間、重力の法則に従って自由落下をしていた克洋の体は徐々に地面へと近づいていた。
このまま何もしなければ克洋は地面と激突して、血みどろの肉塊に成り果てるだろう。
しかし墜落死と言う不幸な未来が迫っているにも関わらず、克洋は未だに怯え一つ見せる様子は無かった。
「…おっと、そろそろ危ないかな?」
自由落下をしていた克洋の体は次の瞬間、先ほどまで居た空間から消してしまったでは無いか。
そして何時の間にか克洋の姿は、此処から数キロほど離れた上空に現れていた。
克洋はある種のお約束として、この異世界に来る際に特典として特殊な能力を授かっていた。
転移魔法、自身の体を別の場所に空間転移させる魔法である。
このファンタジーの世界には当然のように、魔法と言う不可思議な力が存在していた。
そして冒険者ユーリの原作においてこの魔法は一部の熟練した者しか使用できない上級魔法であったが、克洋は来訪特典によってこの魔法を自在に操る術を身に付けていたのだ。
ファンタジーの世界と言う奴に憧れていた克洋は、思う存分に世界を回って見たかった。
そして何か危険な事態に遭遇した時に対処するための力として、克洋は原作に出てきた転移魔法の力を欲したのである。
確かにこの力が有れば例え目の前に原作のラスボスが居たとしても、尻尾を巻いて逃げることは容易いだろう。
自身の体を視界が届く範囲で瞬時に移動できる能力、転移魔法を使って克洋は擬似的な空の散歩を楽しんでいた。
転移魔法を使用した空中散歩は、残念ながらすぐにお開きになった。
回数にして六回ほど転移魔法を使用した辺りで、克洋は自身の体に対する奇妙な疲れを自覚し始めたのだ。
まるで数十分間ランニングをしたかのような気怠さと、昼食を取った直後に訪れるような軽い眠気。
克洋は冒険者ユーリの原作の内容と今までの自分の行動を鑑みて、自分が陥っている症状についてある結論を付けた。
転移魔法は冒険者ユーリの世界に存在する魔法の一種で有り、ファンタジー物のお約束よろしく魔法を発動させるためには術者の魔力が必要なってくる。
原作においてこの世界の人間は多かれ少なかれ魔力を保持しており、魔力を使用して魔法を発動させたり身体能力を強化するなどの漫画的アクションを可能としていた。
そしてこの世界の住人はある程度の訓練さえ詰めば、初級の魔法くらいは誰にも出来るようになる設定であった。
どうやら転移特典で使えるようになった転移魔法は、この世界のルールに沿って発動時に魔力を消費するらしい。
転移魔法の使用によって魔力を消費した克洋は、疲労という形でその影響が出てしまったようだ。
魔力切れ、今まさに克洋を襲っている症状の名前である。
そもそも魔力切れの症状は魔力を備えていなければ起こる筈も無く、ファンタジー要素の欠片も無い現実世界に居た克洋が魔力を持っている訳が無い。
しかし実際に克洋に魔力切れらしき症状が起こるという事は、不可思議であるが克洋の体に何時の間にか魔力が備わったのだろうか。
もしかしたら克洋の秘められた才能が異世界に来た事によって目覚めたと言う可能性も否定出来ない。
恐らく転移特典で転移魔法を使えるようにして貰った時、この世界で魔法を使えるように魔力を授けて貰ったと考えるのだが妥当だろう。
兎も角、原作において魔力切れを起こした人間は最悪、その場で意識を失ってしまう。
そして空中に居る自分が意識を失ってしまったら、その悲惨な未来は余り想像したくない。
「まずい、空の散歩はこの辺で…。 えっ、あれは!?」
魔力切れと言う思わぬ事態から早々に空の散歩を止めようと考えていた克洋の後方から、何かが爆発する音が聞こえてきた。
慌てて克洋は顔を動かして視線をそちらに向けると、そこにはファンタジーの世界に欠かせない存在が居るでは無いか。
ドラゴン、大きなツバサを持つ巨大なモンスターが眼下に向けて炎のブレスを吐いていた。
"冒険者ユーリ"の世界には、ファンタジー世界のお約束である魔物と呼ばれる人類の外敵が存在した。
その魔物の中でドラゴンはトップクラスの実力を持ち、熟練の冒険者でも手こずる強敵とされていた。
初めて見た魔物がドラゴンと言うレア物であった幸運に、克洋は魔力切れになりかけている事を忘れてしまう。
ドラゴンの迫力に心を奪われていた克洋は調子に乗って、もっと近くでその勇姿を見ようと転移魔法で距離を縮めていった。
そして気付かれないようにドラゴンの背後にまで跳んだ克洋は、そこでドラゴンが何かを追っている事に気づいた。
よくよく見ればドラゴンの視線の先には、豆粒のような人間が木々の間を駆けているでは無いか。
遠目のため詳しい姿は解らないが、追われている者は着物を着た少女のようであった。
「はぁぁっ!!」
克洋が丁度ドラゴンの背後に移動したタイミングで、ドラゴンに追われている少女が動きを見せた。
その場で足を止めた少女は意を決して振り向き、手に持っていた刀をドラゴンに向かって構える。
そしてその場で凄まじい跳躍を行い、ドラゴンの正面まで来た少女はその首元目掛けて刀を振るったのだ。
その一振りは全くの素人である克洋に取っては目で捉えることすら困難な、まさに神速の一振りであった。
並の魔物であればこの一振りで、その首を断ち切られていた事は間違いない。
「くっ…」
「ゴァァァァッ!!」
辺りに金属同士がぶつかり合ったような、甲高い衝突音が響き渡った。
そして克洋の視線の先には刀を振りぬいた姿勢の少女と、未だに首と胴が繋がっているドラゴンの姿がそこにあった。
先ほどの一振りだけを見ても、少女が並の剣士では無い事は素人の克洋でも理解できた。
しかし今回は相手が悪かった、相手はドラゴン、この世界において最高峰の皮膚を持つ魔物である。
少女の斬撃はあえなくドラゴンの皮膚に弾かれてしまい、見た所ドラゴンは全くダメージを受けていないようである。
お返しとばかりにドラゴンは腹の底に響くような唸り声を上げながら、口を大きく開けて少女を飲み込もうとする。
先ほど跳躍したために未だに空中に居る少女は、体を大きく捻って空中で無理やり方向転換を試みる。
華麗な体捌きで間一髪の所でドラゴンの顎から逃れた少女は、無事に地面へと着地して再び逃走の姿勢を取った。
あの動きを見ると少女はただの一般人では無い、恐らく彼女は戦闘訓練を受けた冒険者という存在なのだろう。
この世界を描いた原作タイトルの枕詞になっている"冒険者"と言う職業を一言で説明するならば、魔物退治を生業とする者達と考えれてばいいだろう。この世界の住民は常に魔物の脅威に怯え、脆弱な一般市民は魔物に到底太刀打ち出来ない。
そんな弱者たちの代理人として、一定の報酬と引き換えに魔物討伐を肩代わりする存在が冒険者なのである。
冒険者と言ってもその実力はピンからキリまで存在する。こ
の世界において冒険者と言う職業は免許制で有り、一定の実力を持った者のみが冒険者と名乗ることを許させるため、少なくとも冒険者で有れば一定以上の実力があると思っていい筈だ。
しかしドラゴンを相手に正面から戦う事が出来る冒険者は一握りしか存在せず、あのドラゴンに追われている少女はその一握りは入らない程度の実力なのだろう。
此処が克洋の運命の分岐点であった。
もし仮に克洋があの少女を見捨てていれば、その後の克洋の人生はもっと穏やかな物になっていただろう。
しかし克洋はその選択を取らず、転移魔法を使って少女を助ける選択を取ってしまったのだ。
目の前で死にかけている人間を助ける事は決して間違った事ではないが、善意の行動がより良い結果を産むとは限らないのである。そして克洋はこの教訓をすぐに身を持って痛感する事になるのだ。
「ガァァァァァアッ!!」
「ひっ!? …つ、捕まれ、此処から逃げるぞ!!」
「え、えぇ…」
転移魔法を発動した克洋は、着物少女の正面へと跳んだ。
克洋の正面にはこちらの突然の登場に驚愕する着物少女と、その後ろから迫り来るドラゴンの威容が視界に入った。
正面から見るドラゴンの姿は、まさにモンスターと言う形容が相応しい迫力であった。
克洋など簡単に丸呑み出来そうが顎をこれでもかと開き、敵対する者を萎縮させる咆哮を上げてくる。
その人外の威圧の前に克洋は、思わず悲鳴を漏らしてしまう。
こんな危険地帯に長いは無用とばかりに克洋は、着物少女を助けるために手を差し伸べる。
着物少女は克洋の手を見て一瞬迷った表情を浮かべ、迷っている暇が無いと悟ったのかすぐにその手を掴んだ。
少女の手をしっかりと握りしめた克洋は、すぐさま転移魔法を発動させてこの場から離脱を試みた。
そして次の瞬間、ドラゴンの目の前から克洋と少女の姿は一瞬の内に消え去るのだった。
目の前で獲物を取り逃がしたドラゴンの怒りの咆哮が、辺り一面に響き渡った。
転移魔法を数回発動して距離を取り、ドラゴンから遠く離れた場所に跳んだ克洋と少女は見知らぬ森の中に来ていた。
無事にドラゴンから逃げおおせた事を確認した克洋は、表情を緩めながら握っていた着物少女の手を離した。
どうやら魔法の連続使用で克洋の魔力がまたもや消費されたらしく、克洋に対して徹夜で麻雀でもしたかのような激しい眠気と疲労感が襲いかかる。
眠気を追い払うために頭を強く振った克洋は、そのまま先ほど助けた少女と向き合う。
そして眠気覚ましに着物少女からドラゴンに追われていた経緯でも聞こうと口を開きかけた瞬間、克洋は周囲の世界が遠のく違和感を覚えたのだ。
気が付いて見れば克洋の体は何時の間にか、少女から十メートルほど離れた場所に移動しているでは無いか。
どうやら視界がずれた事を、克洋は自分で無く世界がずれたように感じたらしい。
「…なっ!?」
「外しましたか…」
先ほどまで自分が居た空間に目をやる克洋は、そこでとんでもない光景を目の当たりにしてしまう。
何と何時の間にか抜かれていた着物少女の刀が、先ほどまで克洋が居た空間に突き立てられているでは無いか。
転移していなければ少女の刀が克洋を貫いていた事は明白であり、殺されかけた事実を知った克洋の顔は蒼白した。
そして克洋が先ほどまで感じていた眠気は、嘘のように消えて無くなっていた。
来訪特典として習得した転移魔法について、克洋は原作には無いある機能を追加して貰っていた。
幾ら優秀な逃走手段が有ろうとも、自分がその力を完全に使いこすことが出来るとは思わない。
もし暗殺者か何かに狙われてしまったら、自分はこの便利な魔法を使う暇も無く暗殺されてしまうだろう。
そんな不幸な未来を防ぐために、克洋はこの転移魔法に即死攻撃に対するオート回避機能を追加して貰っていたのだ。
克洋としてはこのオート回避機能はあくまで用心として付けて貰っており、普通に生活していれば使う事は無いと楽観していた。
しかし異世界に来て早々に、克洋はこのオート回避の恩恵を預かったらしい。
目にも止まらぬ速さで命の恩人を殺害しようとした着物少女は、可愛らしく小首を傾げながら不思議そうに克洋の姿を見る。
その様は刀を持っている事を除けばただの可愛らしい少女にしか見えず、躊躇なく克洋を殺そうとした人間にはとても見えない。
少女の凶行に驚く克洋は警戒心を露わにしながら、改めて少女の姿を確認する。見
目はお嬢様風、刀を使用、躊躇いなく人を斬ろうとする危険人物。
頭の中で少女の特徴を上げていった克洋は、遅まきながら少女の正体を察してしまう。
その事実に気付いた克洋は顔を歪め、悲鳴に近い声で少女の名を漏らしていた。
「…嘘だろう。 もしかしてお前…、那由多か?」
「あら、私の事を知っているのですか、お兄様?」
那由多、それは"冒険者ユーリ"に登場するメインキャラクターの一人である。
主人公であるユーリの敵側として登場するこの少女は、人を斬るのが大好きなら人斬り剣士という物騒な設定の持ち主だった。
"冒険者ユーリ"の作中において那由多は、劇中で最も人を斬り殺す描写を描かれた人間である。
これは公式のガイドブックにも載っている確かな情報で有り、この説明だけでもこの少女の危険性を理解するには十分であろう。
しかし漫画に出てくる那由多が纏う衣装は軍服風の物であり、今のように着物を来ている描写は一度も無かった。
加えて二次元である漫画の中で描かれていた那由多と、目の前に有る三次元に存在する那由多とでは受ける印象も違ってくる。
そのため克洋は着物を来ている目の前の少女が、あの那由多であるとすぐに気付けなかったらしい。
もし克洋があの時に少女の正体に気付いていたら、確実にドラゴンに追われている那由多を見捨てていただろう。
冒険者ユーリの原作において彼女は結構な人気キャラクターで有るが、少なくとも危険から遠ざかる傍観者ポジションで居たい克洋が積極的に関わりたい人間では無い。
克洋と那由多、現実世界の住人と異世界の住人が対面を果たした悪夢のような瞬間であった。
7/3
1.~13.の内容の一部を修正。