空の途切れ目
そこは薄暗くて、とてもほこりっぽかった。
長い長い廊下の途中。光の射し込む窓を背に、ソラは立っていた。ちりや粉のようなものがゆっくりと流れをつくり、キラキラと白く漂っている。日の届かない向かいの部屋の奥からは、十何年も前に置き去りにされたカートやベッドのようなものが、草むらで獲物を待ち構える猛獣のように、息を潜めてじっとこちらを窺っている。
ソラの前にはロープが垂れ下がっている。先は輪っかになっている。
ソラはこれから自殺しようとしていた。
脚立に一段、二段と登ってゆき、程よい高さに来たところで輪に首を通す。あとは踏み台の脚立を蹴ってしまえば終わりだ。
目をつむって、気持ちを落ち着かせる。鼓動が少しだけゆっくりになり、ほこり臭さが濃く強くなった。背骨に太陽のぬくもりが伸びていた。後ろのカーテンが細く開いている。
大丈夫。すぐに、楽になれるんだから――。
ソラは覚悟を決めた。そして、足の裏でその場を蹴放した。
こぶしをグッと握り潰す。時間が止まる。
蹴った。確かに蹴った。ところが予想していた苦しさは訪れず、代わりに「ぷつん」という微かな音が響いて――何かが、見えた。
ソラははっと隣を振り向いた。廊下の角を曲がった先で、誰かの駆け抜けていく音がした。
ああ、あともう少しだったのに……!
ソラは頭から輪っかをはずした。脚立はどういうわけか一ミリも動いていなかった。床に飛び降りて適当に倒す。逃げるように階段へ、一階の出口へと向かった。
そして、さっきの自分の目に浮かんだ風景を思い出した。あれは、深い青色の水……海の中のようだった。
外に出て振り返ると、廃墟が建っていた。鉄筋コンクリート造りの大きな建物が、体を左右に拡げてそびえている。外壁にはひびが走り、窓ガラスは割れ、至るところに枯れ草混じりの雑草が茂る。玄関の上には看板すらなくて、何の施設だったのかもわからない。
台風が日本列島を通過した次の日だった。風はまだ強い。秋のはじめの少し冷たい風だった。
周りのそこかしこに建ち並ぶビルに向かって、頭上のずっと高い位置から青い空が広がっていた。谷間になっている通りの先まで、どこまでもどこまでも続いている。おかげで表はとても明るかった。
近頃は外出する人が少ない。
まだ昼下がりなので車なら走っているのだが、歩行者はソラの他に見当たらなかった。狭い裏道に入ってしまえば、もう夜の森のようにひっそりとしていた。
制服のズボンのポケットに両手を突っ込んで、薄暗いビルのはざまをつかつか歩く。風が通り抜けていった。短く切られた髪の毛が揺れる。ワイシャツの背中がパタパタとはためいた。
あの海中の風景が、ソラの脳裡に焼きついて離れなかった。時々、ふと何かの状況やものを思いついて、まるでそれが突然目の前へ現れたように感じることはある。でもあれはそんなものじゃなかった。もっとくっきりしていたし、全然ソラの意識とは関係がなかった。幻覚だったのだろうか……と、考えを巡らす。でもそれもいつの間にか、周囲の風景に刷りかわっていた。
ビルの高さがおさまってきた頃だった。
川が流れていた。ごうごうと音を立てながら進む。台風で増水しているのだ。
橋を半分渡って川を見下ろした。思ったより高い。建物の三階くらいはあった。カフェオレ色の濁流が、折れて流されてきた大枝を橋脚に押さえつけ、白いしぶきで今にも呑み込もうとしている。ここに落ちたらひとたまりもないだろう。
ソラは柵に体重をかけて、その光景をしばらく見つめていた。そして、ゆっくりと、川面の上に身を乗り出した。
水面に、トカゲの顔が映っていた。
ソラは驚いて後ずさった。
動いてみて、今、自分が四本足で立っていることに気づく。しかも、両手がツルツルした緑色の鱗にびっしりとおおわれていた。指先には鉤爪まで生えている。
橋も川もまったく見あたらない。湿った土の地面の先に、水たまりが張っている。さっきソラが覗き込んだのは、あの水たまりだ。ソラはトカゲになっていたのだ。
その時、ブウン、と背後からソラのすぐ上空を何かが過ぎ去った。すかさず頭を低くして視線で追いかけると、巨大なトンボが枝のない木々の間を飛んでいくところだった。
小型の飛行機みたいだ。ソラの体が小さくなっているからということもあるが、それでも翅を広げた長さは一メートル弱はあるだろう。
辺りは木生シダの森林だ。もう一度、ソラは水たまりを覗いてみた。やっぱりトカゲになっていた。幻覚なんかじゃない。前足を踏み入れれば泥の感触がするし、じめじめと蒸し暑い空気を全身に感じていた。
そして、声がかかった。
「おい、君、やめなさい!」
体を後ろに引っ張られた。柵に半分かけていた右脚が、また橋の上に戻される。その勢いで、ソラはアスファルトに尻餅をついた。
視界に入るものにはすべて、もう夕焼け色が染みついていた。赤い瞳が川の上流に沈もうとしている。ソラは柵に触ろうとした。それを大きな体が横に押し倒した。
スーツ姿の男性だった。ソラに覆いかぶさり、飛び降りさせまい、と手首をつかんで離さずにいる。
「何バカなことをしてるんだ! まだ生きてやることがあるだろうに、自分から…………」
男性がソラの顔を覗き込んで、意外そうに目を見開いた。ソラは心のなかで舌打ちをした。
男性の手を振りほどき、橋の柵へ乱暴に突き放す。ソラは振り返ることもせず、そのまま家に走り去った。
(どうして、いつもいつもこうなんだよ!)
帰ってみると、玄関に父の靴がない。まだ誰もいなかった。
ソラはリビングへの行きざまに、廊下の壁をガツンと蹴り上げた。
(せっかく場所を見つけて、計画も立てたのに。やっと楽になれると思ったのに)
みんな、寄ってたかって俺の邪魔をする。毎度いいところで変なものが見えて、二回とも失敗してしまったのだ。
ドアを開けると、天井の明かりが自動でついた。ソラはカウンターに手をついてみて、思った。
もしかして……自殺しようとしたら、また何かが見えるんじゃないだろうか。
カウンターの奥はキッチンになっている。リビングの明かりだけでは充分に照らせなくて、黒い網をかけたみたいに暗い。ソラはカウンターを迂廻して、シンクの前に行った。
洗って水を切られている皿が、何枚か立てて並べてある。その上にお椀が二つ伏せてあった。手前にはまた水切り用の小さなかごが据えつけられていて、箸や庖丁やフォークがささっていた。
ゆっくりと庖丁を抜き出して、そっと手首をひねる。光の帯が刃の先端に収束して、弱く輝いて消えた。庖丁の面に自分の片目が映っていた。
……暗闇に、巨大な目の玉が覗いていた。やっぱりだ、とソラは確信した。
茂みのわきから、ソラと同じサイズのネズミのような動物が飛び出してきて、ソラのとなりをすり抜けていった。何かから逃げているみたいだ。別に思い当たる節があって腰の後ろに力を入れると、そのネズミに生えていたのと同じしっぽが動いて、ひゅるりとソラのとなりに横たわった。今度はネズミになったらしい。
大きなシダの葉の茂みに囲まれて、目玉がパチリとまばたきをする。目玉は瞳孔を小さくして、そして上のほうに動いて、消えた。
次の瞬間、ソラの数歩脇に何かが突き落ちた。
ソラは飛び上がった。
一目散にネズミの去った方向へ駈けだす。前方にネズミが二匹、見えてきた。さっきのと、それより一回り大きいものだ。
突然、また何かが地面に踏み込んでくる。巨大な鳥の足に見えた。最初のネズミが方向転換して、ソラもとっさにその後を追う。大きいほうのネズミは、もうそれっきりついて来なかった。
真っ暗なシダの森のなかを、倒れた木の幹の下を、先の見えないまま必死に突き抜けた。後ろは見なかった。家ほどもある駿足の鳥が追いかけてきているのを想像して、ソラは何度もつまずきそうになった。
細い顎が素早くおりてきた。キーキーと悲しい鳴き声をあげて、最初のネズミが茂みの上に消える。息も切れ切れに、ひときわ大きなシダの葉に身を隠して、ソラは夜空を見上げた。
鳥じゃなかった。月あかりに照らされて、馬のような長い顔に、ワニのように大きな口と目をもった動物が見える。ちょうど何かを呑み込んだところだった。そして動物は、一息つくように口を細く開いた。
鋭い牙が光った。
「――ソラか?」
聞き覚えのある声で我に返る。ソラはそこで、握っていた庖丁を床に落としてしまった。呼びかけられたことに驚いたのもあるが、自分の手首に触れていた刃が、ひどく恐ろしく見えたのだ。
リビングに父が立っていた。
床に落ちたものを見て、父は口を閉ざした。ソラが一歩前に出ながら、拾い上げた庖丁をシンクに戻す。ずっとうつ向いたままでいる。
「俺は本当なら、男に生まれるはずだった。心だけなら確かに普通の男だよ。でも、体は」
ソラは顔を上げた。リビングの明かりがかかって、ソラの色白の顔が浮かびあがった。黒い瞳が父を見つめた。長いまつ毛を避けるように、はらりと前髮がかかっている。女の子の顔だった。
少女としては短い髪でも、少年として見られるには、まだソラは長すぎた。
「誰も俺を男扱いしてくれない。誰もわかってくれなかった。……みんな、俺を見て変な顔をする」
受け入れてくれたのは母さんだけだった。ソラが小学校に入る頃まで、母はずっとソラを見守っていてくれた。そのせいでたくさん迷惑をかけた。それは今も変わっていない。
「自分が苦しんでまで生きろって言うのか? 父さんに迷惑かけてまで、生きていかなきゃいけないのか? それでも楽になったらダメなのか? 死ぬのは間違ってるって言うのか?」
ソラはさらに続ける。
「知ってたんだろ? 生まれる前に、わかってたんだろ? 俺がこんなふうに生まれてくるんだって」
「……そうだ。知ってて、産まないことも考えてた。実際に手術室まで入っていった。でも、直前まで悩んで、お前を産むほうを選んだんだよ」
父の厳しい視線がソラを突いた。
「なんでだよ。……生まれても苦しむだけなのに。やめてくれてたほうが、俺のためにもなったのに。こんな人生を送るなら、生まれてこないほうが、俺はずっと幸せだった」
父の足元を眺めながら、ソラはつけ加える。細い首が見え隠れする。
「俺なんか、堕ろされてればよかったんだよ……」
「――いい加減にしろ!」
父がソラの胸ぐらをつかんだ。
「お前の母さんが、寿命を削って産んだ命だ。一つだけしかない命だ。それを、お前はそんなに捨てたいのか?」
ソラは何も答えなかった。動こうともしなかった。二人で見つめ合うだけになっていた。
「本当にそう思うなら、もういい。……勝手にしなさい」
父が手を離した。
ソラは自分の部屋へ歩いていく。
部屋に入って、内開きのドアを閉めた。引出しの奥からロープを出して、片端をドアノブに結んだ。ドアをたんすでふさぎ、たんすの上を通したロープの、もう一方の端に輪っかをつくる。
今日、廃墟でやったことを思い出しながらの作業だ。もう慣れていたはずだが、手は震えている。
「……いいんだよな」と、ソラは自分に言い聞かせた。
「俺の命だ。俺の人生だ。生きるか死ぬかなんて、俺の自由なんだから。どうせ俺が生きてることも、生まれたことも、誰も望んでなかったんだろうし」
「――見てみますか?」
ふいに後ろで声がして、ソラは振り返った。ソラより背の高い、見知らぬ少年が立っていた。辺りは白い空間になっている。真っ白な壁と床と天井が、彼の背後のずっと先に続いていた。たぶん、どこかの病院の廊下だ。
「……誰だよ」
「あなたの子孫です」
そう答えて彼は先へ歩きはじめた。ソラは無言でそのあとを追って、横に並んだ。
「『見てみますか』って、どういう意味だ。ここはどこなんだよ」
尋ねると、彼はソラのほうをちらりと見た。そして、うんと頷いて言う。
「あなたがここで自殺してしまえば、僕は生まれないことになります。だから僕はあなたの時代へ行って、それをやめさせようとしました。……今日、何か変なものを見ませんでしたか」
「目の前が一瞬青くなったり、トカゲとか、ネズミになったりした……」
「実は、それは僕たちのご先祖様の記憶なんです」
ソラは彼の言っていることの意味がわからなかった。彼は前を見て歩きながら、話しはじめた。
「……地球で最初の生き物は、海の中で生まれました。その元になった物質なら、宇宙からも来ているんですが……今から三十八億年も昔のことです。それから生物は進化して、種類を増やしていきました。植物や、動物――貝の仲間や魚。大きなグループだけでも数えきれません。昆虫や両棲類は陸にも上がりました。両棲類からは爬虫類や哺乳類が生まれます。哺乳類は恐竜の絶滅後も生き延びて、人類が誕生します。そして、あなたが生まれました」
「――それで」
ソラが口を挟んだ。
「それで、ここはどこなんだよ」
「あなたに関係の深い場所です」
「俺の生まれた病院には行ったことがあるけど、こんなとこじゃない」
彼は笑った。
「今にわかります」
突き当たりにたどり着いた。直線はここまでだったが、廊下はまだ続いていた。角を曲がって、ソラは目を見開いた。
「ここって……」
そこはここに来る前、ソラが首を吊ろうとした廃墟だった。ちょうど脚立を立てていた、まさにあの廊下にいる。これからあまりに荒れ果ててしまうので、今までまったく気づかなかったのだ。
ソラの前にあった部屋も見える。今は手術室で、扉が閉まっていた。その向こうから、声が聞こえた。
「……もう少し、考えさせてください」
母の声だった。
「もう、準備はできているんですからね」「わかってます。でも……」
一度、心臓が止まりそうになった。ソラは手を伸ばして、よろよろと扉へ近づいていった。言葉が出なかった。扉に両手で触れる。冷たかった。
ソラが会いたくて、もう二度と会えないと思っていた人が、この向こうにいる。いろんなことが頭のなかに渦巻いていた。
ソラは彼に背中を向けていた。彼がふたたび諭すように話しだす。
「あなたはここで二回、死にかけました。一度はあなたが首を吊ろうとした時、もう一度は今、この時です。僕がもし自殺を妨げなかったら、ここにあなたはいません。本当なら、あなたは死んでいたんです」
彼はソラの反応を見るように、いったん言葉を切った。ソラはじっと話の続きを待った。
「でも、あなたは生きています。これからあなたは大人になって、結婚をして、子どももできます。それは、今のあなたが望まないことかもしれません。もちろん、結婚しないという選択肢もあるでしょう。それはあなた次第です。ただ僕は、短い命の背後にさえ長い歴史があるんだと、あなたに知ってほしいと思っていました。それで、自殺をはかったら映像が見えるように、僕があの時しかけておいたんです」
ああ……廃墟で聞こえた足音って、彼だったのか。
「僕が過去の世界を見せたとも言えますが、記憶そのものはあなたの体に刻まれていたものです……。あなたの命は、あなただけのものではありません。みんなつながっているんです。生き物は三十八億年前から、親が自分の細胞を分けて、それが子どもになって、脈々と命をつないできました。危険をたくさんくぐり抜けなければならなかったでしょう。本気で死にたいと考えた人だって、何人といるかもしれません。でも、この世界は素晴らしいんだと、生きていることは素晴らしい贈り物なんだと、ずっと伝えてきました。この長い長い流れのどこか一部が欠けただけでも、今の僕たちは生まれてきません。辛くても、苦しくても、生きなければいけないんです。命は文字通り、受け継がれる使命なんですよ」
彼はソラが振り返るのを待っているようだった。ソラは後ろを向いたまま、言った。
「……違う」
にじんだ両目で彼を睨んだ。彼が驚いたように一瞬、固まった。
「努力は報われるだなんて、偉い大人は言うよ。世界は素晴らしいだって? 生きてるのは素晴らしい贈り物だって? ――嘘だ。そんなのただの綺麗ごとだね! みんな、苦しみながら生きてるんだよ。現実には、どんなにがんばっても一生無理なことだってたくさんあるし、成功するやつは一握りしかいない!」
語気がだんだん荒くなり、目の奥は熱くなった。母にも聞こえているだろうなと思った。
「命になんて何の意味もないんだ! トカゲもネズミも、結局何もしてないじゃないか! 母さんも、俺も、お前も――ただ生きてるだけだ! 生き物は、無意味な生涯を何度も繰り返している、無意味な存在だったんだよ!!」
ソラの目元に滴がたまっていく。彼は黙っている。その時、手術室のドアが自動で開き、中から看護師が覗いた。
「あなたたち、ここは病院ですからね。しかも、今から手術をするところです。お静かにお願いしますよ」
ふたたびドアが閉まっていく。ソラは母の姿を覗こうとした。でも、手術台の影はすんでのところで見えなかった。
「……それがあなたの答えですか」
扉が閉まりきって、彼が問いかけてきた。向かい合った二人の目のあいだに、長くて短い時間が流れた。
「死ねば楽になれるなんて、妄言です」
彼は言い切った。
「中絶がどんな方法で行われるのか、具体的に知っているんでしょうか。そのあとの、子どもの亡きがらがどう処理されるのか、あなたは少しでも考えたことがありますか?」
ソラは口をつぐんで、彼の目をじっと見つめていた。気のせいか、彼がうっすらと透き通って見えた。
「あなたには呆れました……この時代の人は、命を軽く見すぎていますね。戦争はちっとも終わりませんし、親子でも友達でも、自分だって平気で殺します。……まったく、理解できません。命がなくて、一体何ができるというんですか」
喋り終えるかどうかのところで、彼の姿はふっと消え失せていった。未来に帰ったんだ、とソラは思った。
一人ぼっちになって、ソラは背中を扉にあずけ、廊下に座り込んだ。自分の呼吸と心臓の音だけが響いていた。
少し高くなった位置に、窓が見えている。レースのカーテン越しに青い空が広がっていた。まだこの頃にはビルもそれほど建っていなくて、視界もひらけていたのだ。
この空の先は宇宙になっている。夜になると本当の姿を見せて、無限に続くような広すぎる暗闇に、今にも消えそうな星くずが瞬くのだ。よくそんなことを考えると、自分の存在がとてもちっぽけなものに思えて、みじめだった。
小学校に入学する前だっただろうか――名付け親の母に、自分の名前の由来を尋ねたことがあった。
「誰にでも優しくできる、空みたいに広い心を持ってほしかった」
そんな返事が戻ってきて、まあそういうものかな、と軽く納得した記憶がある。でも、今あらためてこの言葉を思い出すと、毎日呼ばれなれていた自分の名前が、とても重いものになって心に沈んでいく気がするのだ。
その時、今まで静まり返っていた手術室から、小さな声が聞こえてきた。
「……お願いします」
ソラは一瞬、何のことだか理解が追いつかなかった。続けて返事が響く。
「わかりました。すぐ、終わりますよ」
突然、痛みが走った。息が苦しい。首が、体が、まるで大きなハサミで挟まれるようだ。
壁に寄りかかることさえできない。廊下の床に横になって、体を丸くした。あたたかい世界に包まれて、ソラは母の顔を思い浮かべた。
ああ……そっか。母さんは、ずっと俺のために悩んでくれてたのか。
「ぷつん」と、紐の途切れる音がした。
それから薄赤い水中が見えた。
廊下から音が消えている。吹き込んできた風でカーテンが仰ぎ、砂ぼこりが舞う。白い光が汚れた床を照らしだした。
ちらりと見えた透き通った空が、窓の外にいつまでも、どこまでも、続いている。