接触。
「……なに?」
怪訝な表情を浮かべ、僕に声をかける大学生くらいの男。
この男こそが……彼女の、彼氏?
「今見てたよね? なんか用?」
「あ、いや」
まさかの、絡まれてしまった。
予想外の接触に僕が言葉を詰まらせていると、脇にあった横断歩道がちょうどそのタイミングで赤から青へと変わり、男は何事も無かったかの様に渡って行ってしまった。
色とりどりの傘が流れるように移動し、彼氏の後ろ姿が人混みに紛れるまで見送る。
「はー。びっくりした。まさかいきなり話す事になるなんて」
緊張で止まっていた呼吸を一気に開放する。もっとちゃんと観察したかったのに、あんな不意打ちは思ってもみなかった。
右手で心臓の鼓動を感じながら隣に目をやると、彼女は完全に俯いて、小さく震えていた。
高鳴る心臓がそのまま、今度は愛おしさに動き出す。
抱きしめたい。今まで以上に強く感じた瞬間だった。
「大丈夫?」
「心臓が破裂しそうよ」
見た目の雰囲気とは打って変わって、強い口調の返答……あれ?
「幽霊って心臓動いてるの?」
「……知らないわよ。ちょっと静かにしてなさい」
妥当な疑問だとは思うけど……彼女が落ち着くまで待つ事にした。それくらい動揺しているという意味なのだろう。
という事はつまりやっぱり、今の人が彼氏さんで間違いなさそうだ。まさかこんなに早く会えるなんて思わなかった。なんという強運だろう。
彼氏が今、彼女の事をどう思っているのかを明確にしたい。その上で僕はやっと、正々堂々と彼女に交際を申し込めるのだ。
彼女にまた少し近づけるかもしれない。……だけどそんな期待とは裏腹に、頭の隅にはどうしようもない不安要素も存在していた。
それは先日の彼女の言葉。
「私を成仏させてください」
もしも彼女が未練から解放されてしまったら、成仏してしまうかもしれない。
そうしたら、もうこの駅のこの花壇から、彼女は居なくなってしまうという事だ。
血の気が引いた。そんなの耐えられない。こんなにも僕の中心を占拠してしまっている彼女を失うなんて、考えられない。
だから僕はせっかくの機会を棒に振った。みすみすと彼氏を見送ってしまった。
出会えたけど……彼女の願いを叶えるチャンスだけど……躊躇してしまったのだ。
何か、無いのだろうか。
彼女が苦しみから解放されて、未練も無くなって、それでもこの世界に居続けられる方法は。
「…………はぁ」
しばらく黙っていた彼女が、息を吐きながら顔を上げる。その横顔も、憂いを帯びた溜息も、色っぽくて素敵だった。
「久々に顔見た。当然と言えば当然だけど、変わってないわね」
何処か強がっているような感じがした。先程の震えを、無かった事にするみたいに。
「そうなんだ。いや、まさか話しかけられるなんて……」
そこまで言って、慌てて口を噤んだ。しまった、と思った。
いつものように彼女が睨んでくるかと思ったけど、そんな事は無く、ただぼんやりと前を見つめている。それが余計にいたたまれず、気付けば「ごめん」と謝っていた。
そこで彼女はチラリと横目で僕を見ると、再び視線を前に戻す。
「いっつも無遠慮に図々しく話しかけてくるくせに、何急に気を遣ってるのよ」
雨脚が少しだけ強まる。僕は一応、広げた傘を彼女まで覆うように持っているが、彼女はわざとらしく両足を投げ出し、そんな物必要無いと言わんばかりの態度を見せる。
「分かってたわよ。どうせ見えないんだろうなって。っていうかあなたが特別おかしいのよ」
頬を膨らませている。もしかして拗ねているのだろうか。可愛い。
その瞬間。僕は見てしまった。
膨らんだ頬を雨のような雫が伝っていったのだ。そしてポタリと、地面に落ちた。
「…………」
言葉を失った。可愛いだなんて思ったその感情を、押し込めてやりたくなった。
彼女に雨は当たらない。その頬を、雫が伝うなんてあり得ない。
だからこの水滴は。
「……嘘よ。ちょっとだけ期待してた。あなたみたいな人が見えるんならあの人だって……ってね。見えなかったらどうしようって恐くて、今までずっと会いに行けなかったけど……今日、証明されちゃったわね」
頬にだけ、雨が当たっている様に見える。意味も無く、傘を持つ手に力が込もる。
彼女がこれ以上、雨に濡れないように。
だけど堰を切った様に、抑える事も出来ないまま、雫は溢れていった。
「どうして、私を見つけてくれたのはあの人じゃないんだろう。まだまだ話したい事がいっぱいあったのに」
彼女の声は、強まる雨音と駅前の喧騒に紛れてしまいそうな弱さだった。彼女らしくないとも思ったし、これが彼女の本当の姿なんだとも思った。
彼女の声は誰にも届かない。例え雨が止んでも、喧騒が去っても、それが叫び声だとしても、誰も気付かない。
僕だけなんだ。
僕だけが、彼女の声を受け止める。そして伝えられる。
そうだ。悩む事なんか無い。僕にしか出来ない。
彼女が消え去ってしまうのは嫌だけど、こんなにも苦しんでいる彼女のままで、居て欲しいわけがない。
きっと僕だけが、彼女を救う事が出来るのだ。