動揺。
その日、生憎の雨にも関わらず駅はいつにも増して人が多かった。改札から溢れるように飛び出した僕は、いつものように花壇に腰掛ける彼女に手を振る。
彼女は綺麗だ。大勢の人が色とりどりの傘を広げる狭い視界の中でも、その存在は際立って僕の目に飛び込んでくる。まるで奇跡のように整ったその顔立ちと金属のように澄んだ声が、どうにも僕の心を掴んで離さないのだ。彼女が幽霊であれ何であれ、そんな風に思える人とこうして出会えた事は、本当に、本当に素晴らしい事じゃないか。僕は幸せなのだ。そう思っていた。
そんな彼女はここで、生前付き合っていた彼氏を待っているのだと言う。
先日彼女は教えてくれた。彼女の命日となってしまった日、ここで彼氏と待ち合わせをしていたのだと。不幸が起きて合流する事は出来ず、幽霊になってしまってから今もなお、彼氏とは顔を合わせていないという。
「会いに行こうとは、しなかったの?」
僕は聞いた。地縛霊なら無理かもしれないけど、どうやらそうじゃないみたいだし。
彼女は首を横に振った。
「私は約束をすっぽかしたの。彼がもし私に愛想を尽かして呆れてしまっているのなら、今更会いに行ってもしつこいだけじゃない」
意外に弱気なんだと知って、可愛いなぁと思いつつ、少し嫉妬した。
好きな相手にはそうなんだなぁ。
ここで一方的に彼氏を待ち続ける事が彼女にとっての贖罪らしい。通常では訪れないこの駅で、もしも彼氏が現れるような事があれば、彼女との思い出で溢れたこの場所なら、きっと頭の片隅にでも彼女の存在が浮かんでいるはずだと彼女は期待していた。
彼女は健気だった。それがなんだか羨ましかった。そんな風に想われている彼氏と、そんな風に想える彼女自身が。
僕もそうなりたい。誰かの事を心から大切に、純粋に想えて、そして相手からもそうやって想って貰えたら、どれだけ幸せな事だろう。
僕は以前付き合っていた彼女との関係を、そんな風に望んでいただろうか。彼女からも想って貰いたいと、強く願っていただろうか。「つまらない」言われてしまった僕は、きっと自分の事しか考えていなかった。だから彼女に飽きられた。
僕はずっと子供だったのだ。
今だってそうだ。僕はこの駅で幽霊の彼女と出会えて、幸せだと思った。だけど彼女は付き合っていた彼氏への想いを未練に変えながら、悲痛な思いでこの場所に留まっていた。僕はやっぱり自分の事ばっかりだったのだ。
彼女を知れば知るほど僕の幸せの価値が変わっていく。いつからか僕は彼女に対して、恋と同時に感謝の気持ちも湧いていた。
彼女を守りたい。そして救いたい。だって僕はまだ一度も彼女の心からの笑顔を見ていない。笑い声が聞きたい。その気持ちは出会った日よりもずっとずっと強くなっていた。
絶えず混雑していた改札から、より一層の賑わいを見せ人が溢れ出てきた。ちょうど複数の電車が同時に停車したのだろう。屋根の無いロータリー付近まで来ると、まるでイルミネーションの電飾のように、次々に色とりどりの傘が花開く。そんなカラフルな花壇のような人混みにぼんやりと目を向けていた。
その時。
「あ」
彼女が小さく呟くように言った。
それはほとんど聞こえないようなか細く儚い声だったが、僕は瞬時に心臓が高鳴った。
「居た」
ほんの少し震えているように聞こえた。僕は目を凝らしてその人を探す。
友人や恋人と歩く人、家族や会社員まで様々な人が行き来している。この大勢の中から、しかも傘で顔が隠れている状態でその彼氏を探すのはどうにも難しかった。いや、そもそも顔も知らないし。
「どの人?」
聞いてみるが、彼女の耳には届いていない。周囲の事は上の空で、彼氏にだけ注目している。
まぁそりゃそうなるんだろうけど。
「あの傘……」
「え?」
相変わらず弱々しい泣きそうな声が続いている。らしくないじゃないか。
「あの傘、まだ使ってくれてるんだ。……私が誕生日にプレゼントしたのよ」
シトシトと降る雨が僕の傘を叩く。
「あの人の好きだった淡い紺色の折り畳み傘。色ばっかり気にして、サイズがとても小さかった事に渡してから気付いたのだけど、あの人は喜んで受け取ってくれたわ」
なんとなく複雑な気持ちだ。きっと優しく穏やかな時間だったのだろう。単純にひたすら羨ましかった。
だけどその情報でついに特定した。ほぼ真正面からこっちに向かってくるあいつがそうだろう。
淡い紺色で少し小さめの折り畳み傘。歳は同じくらいか、違っても前後1歳差程度に見える。1人だ。
人波に乗って前からどんどんこっちに向かってくる。恐らく僕らの脇にある横断歩道を直進するのだろう。
彼女も緊張しているのか、俯いて、恐る恐るといった表情で上目遣いに彼を見ている。
彼には、彼女の姿が見えるだろうか。
思い出があるというこの街で、約束をしていたというこの場所で、ただひたすらに待ち続けた彼女の存在を、彼は見付ける事が出来るのだろうか。
そして距離が近づき、心臓の高鳴りを抑えながらずっと凝視していた僕と、目が合う。
そして彼は、僕の前で立ち止まった。