彼氏。
改札を通りロータリーに出て、いつもの花壇に腰掛ける。隣にはいつも通り美しい彼女が、いつも通りうんざりした顔でこっちを睨んでいる。
そして彼女は幽霊だから、誰からも認識されていない。どうしてだかはっきりと見えるこの僕だけが、彼女を独り占め出来るのだ。こんなに幸せな事があっていいのだろうか。
ここに通うようになっておよそ一ヶ月が経とうとしていた。季節は梅雨に差し掛かり、今日は雨こそ降っていないものの、生憎の曇天となっている。傘を持ち歩いている人も少なくない。
この駅をよく利用する人にとって、僕はもしかしたらちょっとした有名人になっているんじゃないだろうか。なにしろほぼ毎日のように駅前の花壇に通い、楽しそうに独り言(のように見える)を喋っているのだから。
まぁ僕はちゃんとした常識人で、ただ好きになった人の元に通い、楽しく会話をしているだけなので、人の目なんて気にならないのだけど。
「仮に私が幽霊じゃなくて、ちゃんと認識される形でここに居たとしても、あなたの行為はストーカーそのものだから、誇れるものじゃないわ」
「でも君は幽霊だし、僕から離れようともしていないから、ストーカーにはならないよね」
彼女は睨みながら困ったような、複雑な表情で口をぱくぱくさせた。なんだそれ、可愛いじゃないか。
そもそも幽霊との間にストーカー行為というものが成立するんだろうか。単純に見れば、取り憑かれているのは僕の方だ。まぁ文字通り、彼女の魅力に取り憑かれているんだけど。
「だけど、僕は君が幽霊で良かったと思っているよ。だってきっとこんなに綺麗な人、普通だったら絶対に関わる事なんてない。こうして会話が出来るという事が、そもそも僕にとっては奇跡みたいなものなんだよ」
「幽霊相手に良くそんな事が言えるわね」
なんだかその瞬間、勘違いかもしれないくらい本当に少しだけ、彼女が笑ったような気がした。その可能性だけで僕は、頭上の空とは正反対に心が晴れ渡ったような気がしたのだ。嬉しくて堪らない。
「私の彼氏はそんな事一言も……」
そして彼女はそう続けた直後、停止した。湿気の影響などまるで受けていない絹のような美しい髪が、無表情のまま俯いた顔にサラサラとこぼれ落ちていく。
突然の沈黙。
不意打ちのように襲ってきたその言葉に、僕も僕で言葉が詰まる。にわかに、雑踏のざわめきが大きくなって聞こえてくる。
もちろん頭ではわかっていたのだ。こんなに綺麗な人なら彼氏くらい居てもおかしくないと。だけど触れないようにしていたし、考えないようにしていた。だってきっと僕なんかじゃ敵わない相手なんだ。
こうしてはっきりと存在を肯定されてしまったら、僕はどうすればいいんだろう。もうその事に触れずに居る事は難しいように思えた。
「彼氏……。そっか、そりゃ居るよね」
悔しい事に、とてもショックを受けている。もっと何でも無いような態度で居られたら良いのに。
勝手に好きになっておいて、こうやって勝手に凹んだりするんだから、恋愛感情はいつだって自分勝手だなぁと、我ながら笑えてくる。
「だって」
雑踏のざわめきがまた遠退く。彼女の金属のような凛とした透き通る声は、他のあらゆる雑音を遠ざける不思議な力を秘めている気がする。
「だってまだフラれたりなんかしてないもの」
俯いた彼女の横顔は、流れる綺麗な髪によってほとんど見えない。だけどワガママを言う子供のようなその口調が、大人びた普段の態度と比べて、とても可愛く思えた。
そしてなんだかなんとなく、彼女が死んでしまった事に関係があるような気がした。その彼氏こそが、彼女が今もなお幽霊としてここにいる原因の一つで、未練という概念に関わっているような、そんな気がしたのだ。
感情が理屈を越えた。後先を考えずに、どうしたいのか何も思い付かない内に、僕は行動に出たのだ。
「君の彼氏に会いたい」
まるで初めて彼女に会った時のように、動かずには居られなくなったのだ。