幽霊。
彼女には彼女の歴史があり、彼女の哲学があり、彼女の起承転結がある。そんな事はもちろん分かっている。そこに僕が介入していいのか、それを彼女が許してくれるかどうかが、いわゆる交流の始まりなんだ。
理由はまだ聞いていないけど、彼女は死んでしまって、歴史はそこで止まってしまうはずだった。大きな意味での起承転結の『結』を迎えてしまっていた。彼女の哲学だってそこで霧散して、きっと僕と出会う事なんて無かったんだ。
ところがどういうわけか、彼女はいつもあの駅に居る。
僕がいつものように駅を出て、目が合うと相変わらず怪訝な表情をして、だけど僕が隣に座っても絶対に立ち去ろうとしない彼女。
まぁ、霊的な理由で動けないだけらしいけど。
彼女の歴史は続いてる。哲学だって生きている。これはまだ、起承転結の『転』に過ぎないのかもしれない。
そう思うと僕は堪らなく嬉しいのだ。だってまだ介入出来る余地がある。彼女が消えてしまわないで本当に良かった。
ただ一つ懸念があるとすれば、彼女はいつまで居てくれるのかという事。だって幽霊なんだ。いつの間にか居なくなってしまう事だってあり得るかもしれない。心残りが無くなったら成仏してしまうかもしれない。その辺のルールは良く分からない。音楽サークルなんかじゃなく、オカルト研究会にでも入っていれば良かった。
だからひとまず今日も僕は、彼女に会いに行く。
タイムリミットが分からないなら、少しでも早く認められたい。
だって僕は、本当に誰よりも彼女を愛している。
先日用意したクレープは、掴めるかどうか以前の問題だった。彼女は頑なに受け取らなかったからだ。まだ僕に心を許していないらしい。当たり前か。
こんな事で嫌われたくなかったし、僕はあっさり引き下がったけど、内心かなり残念だった。幽霊というものを理解する一つの手段でもあったのに、結局答えを先延ばしにされてしまったからだ。
今日も僕は改札を抜けて花壇の方を目指す。視線の先にはやっぱり彼女が居て、やっぱりすごく目立っている。幽霊じゃなければ、きっとナンパする連中がたくさん居て、僕なんかが話しかけに行ける状況じゃなかったかもしれない。そういう意味では彼女が幽霊で良かった。
ふと、彼女の表情に目を奪われて立ち止まる。とても悲しそうな顔をしている。僕がどんなに必死に話しかけても素っ気なくややイライラした口調で返答する彼女が、ひどく寂しそうな顔で目を伏せている。
やっぱり、そういう顔もするんだな。
事情は何もわかっていない僕だけど、何となく感じる時だってある。だって彼女は幽霊なんだ。そして何らかの理由でここに留まっている。きっと何か未練がある。
彼女にとっての最良はなんだろう。
僕はどうすればいいんだろう。
彼女が不意に顔を上げて、僕と目が合った。その途端不機嫌な顔になって目を逸らす。なんだかその一連の動作が可愛くて、僕は速足で彼女の元に向かう。僕の存在が彼女の機嫌を損ねたとしても、それで憂鬱が取り払えたのなら、こんなに嬉しい事は無い。
「やぁ、元気?」
「死んでる人間に元気か聞くのってどうなの」
確かに。だけど元気そうだ。彼女は頬杖をついてそっぽを向く。
毎日この場所に足を運んで、そろそろ1週間になる。その間僕は、例えば大学でこんな事があっただの、こういう講義であれこれがつまらなかっただの、大した話をしていない。彼女は基本無視で、ごくまれに相槌とか突っ込みを入れてきたり。そのささいな返答が嬉しかったりしたのだが、そろそろ本題に入ろうと思ったりもしていた。その時。
「ねぇ」
彼女の方から声をかけてきた。少しだけ出鼻をくじかれた気分だが、こんな事は今まで一度も無かった。これは進歩だ。嬉しい。
「本当に今更なんだけど、どうしてあなた私が見えるの? 私、幽霊のはずなんだけど」
ふむ。
「実は幽霊じゃないんじゃない?」
「そんな事ないわ。だって見てみなさいよ、まわりを。歩いてる人たち皆あなたに視線を向けてるわ。独り言を楽しそうに話す不審なあなたに」
多少の期待も含めて言ってみたけど、確かにそれは最初に会った時から思っていた。
彼女は誰にも見られていない。こんなに綺麗な人を差し置いて、注目を浴びるのはいつも僕だ。
「どうして見えるんだろう」
「私が聞いてるのよ」
霊感みたいなものは、特別ない。と思う。まぁ見えるんだから仕方ない。
薄暗くなってきた駅前ロータリーは、絶え間無く流れる人混みで溢れている。沈んでいく夕日を背に、改札に向かって伸びていた僕の影は少しずつ縮んで行くけど、そこに彼女の影は無い。隣を見ると、彼女の姿は確かにあるのになんとなく稀薄で、黄昏と共に消えてしまうんじゃないかと一抹の不安を覚える。
無言で横顔を眺めていた僕に気付き、彼女が睨んできた。
「ねぇ、次は僕が聞いてもいいかな?」
「私の質問はどうなったのよ」
「それはだって、わからないんだよ」
彼女が溜め息をつく。なんとなくこの感じは、最初からまっとうな答えなんて期待していなかったように思える。
「君はどういう音楽が好きなの?」
僕がそう聞いた途端、彼女が面食らったように驚いた顔で僕を見た。あれ、何か変な事を聞いたのかな。
「最初からずーっと思っていたのだけど、あなたって相当変な人よね。今までずっとどうでもいいくだらない話をしていて、いざ改まって聞いてみたい事が、好きな音楽?」
「うん。僕はこう見えて音楽サークルに入ってるし、ちょっとギターも弾けるんだよ」
「いやいや、そうでなく」
彼女が呆れている。サラサラの長い黒髪がすっかり暗くなった空の下で街灯に照らされて、どんな表情でも絵になるなぁと見惚れてしまう。
「なんだろう。例えばその、私の名前とか、死んじゃった理由とか。そういう事には興味ないわけ?」
まぁいいんだけど、と付け加え下を向いて頭を掻いた。口がすべった事を後悔しているのだろうか。
彼女の方からそんな事を言ってくれるとは思ってなかった。確かに名前は知りたい。これはちょっとでも彼女が僕に心を許してくれたって事になるだろうか。嬉しい。
でも生憎僕の興味は全然そんなところには無い。少なくとも死んじゃった理由なんてどうだっていい。
彼女が今ここに居る。それがすべてじゃないか。