木の下闇で
「あら、珍しい!」
「そうか?」
娼館『木の下闇』誰に呼ばれたのか、館主からも教えられないままに足を踏み入れた座敷の中。そこで一人手酌を傾けていたのは関口のよく知る、だが、この場所で見るのは稀な男だった。
「そうよ、此処で会うのは四ヵ月振りだわ。お久しぶり、鳴海甲太朗様」
「そりゃ悪かったな」
砕けた会話。顔を合わせるのがどんなに久しぶりだとしても、大袈裟な挨拶は要らない。関口と鳴海ははそんな関係なのだ。
「忙しかったんだ」
くたびれた背広に着古したコート。嗅ぎ慣れた癖のある、だが決して嫌いではない煙草の香りが関口の鼻を刺激する。
「今日は事件解決のお祝い?」
鳴海は刑事だ。真面目な男で、滅多に娼館に足を踏み入れる事は無いが、難解な事件が解決した時などに、稀にこの店に来る事があった。
「否、違う」
「あら。じゃ息抜き?」
「そうだな」
「それはそれは。ようこそいらっしゃいました」
店の礼儀に乗っ取って、三つ指ついて挨拶をしようとする関口を鳴海が強引に引き寄せた。完全に不意をつかれた関口は、鳴海の膝に向かい合わせに乗り上げてしまう。一部に隙もなく着込んだ仕事用の紅色の着物の袷が乱れ、白い肌がのぞく。
「どうしたの」
不意の行動。言葉は疑問の形を取っていたが、関口の声は労りに満ちていた。
「黙ってろ」
その声に甘える様に鳴海は関口の艶やかな長い黒髪をすき、額に、瞼に、耳に、頬に唇を落とす。
「猫みたいね。みーこってば」
拒否はしなくても、決して望んではいない筈の接触。無意識に歪んだ関口の瞳を覗きこみながら、、鳴海は揶揄るように笑った。
「好きだろうが。猫」
「うん、好きかな」
関口の身体には誰のものとも知れぬ痕がある。それに気付かぬ振りをして、鳴海は関口とたっぷり舌を絡めた口付けを交わした。
「お酒は?」
「いらん」
「食事は?」
「いらん」
「ふーん」
やがて、布ごしでも分かる程に鳴海のモノが成長する。鳴海は気まずげに身動ぎしたが、関口は開き直った様に鳴海の首筋に腕を回し、身を寄せた。「じゃ、欲しいのは私?」
艶やかな瞳、行為の先を許す声。普段は鳴海に、こんな態度を取る女じゃない。勿論、関口は娼婦だし何度か身体を重ねた事もある。だが、それは戯れの様な、遊びの様なもの。関口が鳴海に、こんな風にあからさまな艶を見せる事は滅多にない。
そう、鳴海が望まない限りは決して。
「全く妙なもんだな、疲れて食欲はからきしなのに」
「性欲は掻き立てられる?」
からかいの響きに苦笑する。
「ああ」
「別に妙でもないわよ。それって人間の本能らしいし」
「それは、姐さんたちの受け売りか?」
「ううん、差配さんの受け売り」
「そうか」
何を何処まで知っているのか。関口の態度に鳴海は年上の女の掌で遊ばれている少年の様な気分を味わって、少しだけ頬を赤く染めた。
「でも少しは食べた方がいいよ。途中でお腹鳴っても止めてあげないし」
「途中って、お前」
「寧ろ、大声で笑ってあげる」
自分は慰められているんだろうか。暫しの戸惑いの後、鳴海はその慰めに素直に甘える事を決めた。
「酒をくれ」
「はい、直ぐに。美味しいおつまみも用意するね」
言葉の通り、ものの五分で設えられた宴席。その手際の良さにいつもの事ながら鳴海は舌を巻く。
「……美味い」
舐めるように酒を含んだ後、鳴海が発した驚きの声に関口は満足そうに頷いた。
「当たり前。それ、私個人の秘蔵のお酒よ」
「そうなのか?」
「店で出すのとは質が違うわ。味わって呑んでね」
確かに。その酒の、身体を芯から蕩けさせる様な芳香は鳴海が今まで味わった事の無いものだ。食道楽の関口お勧めの酒はお世辞抜きに確かに美味い。用意された吟醸酒の、すっきりした苦味を心地良く舌に感じながら、鳴海は杯を重ねていった。
「ああ、本当に美味いな」
この店に来る前に感じていた、刺々しい気分は大分凪いでいる。今、鳴海が捜査しているのは『連続少女暴行魔事件』この事件を担当してもう数ヶ月がたった。だが、今だに事件の真相が見えてこない。被害者は増え続ける。鳴海にとっては、やりきれない日々が過ぎていた。
『刑事は正義の味方じゃない。』
そんな幼馴染みの言葉が、日々甦っては鳴海を追いつめた。そういえば、彼は正義の味方になる為に、職業に探偵を選んだのだったか。
自己嫌悪の闇の中、さ迷い歩き、たどり着いたのは馴染みのこの店。
「関口、てめぇは優しすぎるぜ」
「あら、今頃気付いたの。私は皆に優しい女神様って呼ばれてるわよ」
「調子に乗るな!」
照れ隠しの鳴海の怒声に、関口が楽しそうに笑う。二人は云わば戦友だ。罵り合いながらも、実は互いに互いを大層気に入っている。
「みーこ、仕事に、世の中に不満を持つ事は悪い事ではないわよ」
「……」
「いけないのは不信に陥る事」
鈴を転がす様な関口の声に無力感や孤独感が淡く溶かされて行くのが分かる。
「説得も相談も諦めて周囲から孤立する事。何もかもを諦めてしまう事」「諦める事か」
「そうでしょう。みーこ」
「ああ、そうだな」
「ありがとう。会いに来てくれて」
「ああ」
女を抱く気分ではなかったが、苛立った神経を鎮める為に、鳴海が足を向けるのは関口の元しかなかった。この少女といる時だけは、己は一人ではないと実感出来た。鳴海を何処までも受け入れる、誰にも見せたくはない己の弱さを受け入れてくれる、只一人の少女。
鳴海は溢れる愛おしさを込めて、今日、幾度目か分からない口付けを関口におくった。
「そういえばこの間、笠原のお坊ちゃまに会ったわ」
だが、二人を包む甘い空気を破ったのは、関口のそんな一言。
「あの馬鹿野郎か」
「酷い言い草ね。友人でしょ」
「あんな馬鹿、知らねえな」
関口を背後から抱き締めながら、気持ち良い酔いに浸っていた鳴海の眉が、厭な名を聞いたとばかりに顰められる。
「まだ根に持ってるの。お坊ちゃまが高校辞めた事」
「当たり前だろ」
くすくすと揶揄う関口を軽く小突きながら、鳴海は吐き捨てるように言う。
「大体な。今、日本に高校がどれだけあるか知ってるか?」
「確か、三五だったかな」
「そう、たった三五校だ」
然程考える事もなく正解を口にした関口に、鳴海は更に勢い込んで語りかける。
「高校に入学出来るのは、中学生全体の一割弱」
「うん。知ってる」
「高校に入るってのは学生にとっては人生最大の難関なんだ。自分から辞めちまうなんて、とんだ大馬鹿野郎だ」
盛大に酒を喉に流し込みながら、鳴海は話し続ける。
「大変さから狂っちまう奴もいるってのに」
「また通り魔? それとも放火?」
その問いに鳴海は苦いものを噛んだ様に顔を顰めると、暫し口を閉ざした。
「いいや」
その態度に、関口も答えを理解した。
子供にとって、その後の人生を決定しかねない中学、高校受験は甚大な重圧をもたらす 。中にはその圧に耐えかねて神経衰弱になる者もいる。夜中に通り魔を繰り返す者もいたし、無差別に放火を繰り返す者もいた。実際、今回の連続少女暴行魔もそうした少年達が犯人として挙がっていた時期もある。
だが、それ以上に多かったのは。
「自殺だ」
周囲の期待と自分の能力との落差に悩み、苦しみ、自ら命を絶ってしまう者。
「自殺はやりきれん」
そのまま鳴海は腕を組み、黙り込んだ。
相変わらずの苦々しげな顔が、鳴海の心情を雄弁に語る。鳴海の苦悩も、聖に対する反発も、関口には良く分かる。だが、此処で聖の話を止めてしまうわけにはいかなかった。
鳴海に真に伝えたい事は、この先にあるのだから。
「今、お坊ちゃまは連続少女暴行魔を追ってるわ」
「なにっ」
「手を貸してあげてって言ったら怒る?」
「そりゃ怒るな」
「やっぱり?」
「当たり前だろうが」
「でも、顔は繋いでおいた方が良いよ。どうせ警察はまだ、被害者に会うことも出来ないでいるんでしょう?」
「それがどうした」
怒り、無造作に酒を呷る鳴海に関口は伝える。
「お坊ちゃまは被害者の一人に会ってる」
「何っ」
不意に鳴海の手が止まった。
「本当か!」
自分の言葉が相手に与えた効果に、満足気に頷いて、関口は続けた。
「ええ。一人だけだけどね」
やっぱり知らなかったんだね。そう言いながら関口は話を続けた。
「その直後に、警察に因縁付けられてた」
「なんだと!」
「直接の担当者であるみーこも知らなかったのに、あの刑事はお坊ちゃまが、この件に手を出したことを知っていた」
「……」
「『関口糖子』と『藤堂伊織』の事も知っていた」
淡々と語るその内容は、鳴海にとっては聞き逃せない事ばかりだった。
「どうしてかしら?」
「どうしてって、そりゃ……」
「とっても、きな臭い気がするんだよね」
「確かに…」
「叩けば埃の一つや二つはでそうな気がするけど」
「下手に動くと危険だな」
「うん、こういうの何て言うんだろう。藪を突付いて蛇を出す感覚?」
どんなに奇妙だと思われる出来事でも、その裏には、必ず理由が潜んでいるものだ。あの刑事も馬鹿ではない。自分の利にならない事であえて動きはしないだろう。だとすれば利とは一体何なのだろうか。
「あまり深入りすると危険。お坊ちゃまには忠告しといた方がいいのかもね。あのお嬢様も気になるし」
其処まで言って、一息つくように関口は今日初めて、酒で喉を潤した。
脳が心地良く痺れていく感覚に身を委ねる。
「そんなに笠原家の奴らが大事か」
「否、どっちかというと嫉ましいな」
もう話は終わりとばかりに呑みだした関口に、鳴海の非難めいた声が掛かる。それに返るのは本気とも冗談ともつかない関口の言葉。
「親は財産家。才能豊かで眉目秀麗。信頼できる友人と家族も。お坊ちゃまは何でも持っているもんね。私なんて一つとして縁がない。どれか一つでも良いからあやかりたいと思うよ」
「なら、どうしてお前はそこまでして聖を守る?」
「嫌がらせよ。義文へのね」
淡々とした声。
「私は義文が嫌い。彼ほど傲慢で冷徹で残酷な人間を私は知らない」
「嫌がらせか。なら、聖をほっときゃいいんじゃないのか」
「あら、冷たいのね。優しいみーこらしくない」
「俺は優しくする人間くらい自分で選ぶ。奴がどうなろうと自業自得だ」
「なるほど。でも悪いけど、私も義文に負けず劣らず傲慢なの」
「はっ?」
関口の声に含まれているのは、誤魔化しようの無い憎悪だった。
「彼が好きな者を、彼が守りたくて守れなかった者を守ってみたい。そうする事で自分が彼より優っていると誇示したい。私を役立たず扱いして無視した相手に思い知らせたい。私が思ってるのはそれだけよ」
醜い言葉。だが、こんな時でも美しい関口の声に鳴海は吐き気を感じた。
「だからね、今お坊ちゃまに傷ついてもらったら私が困るの」
「お前……」
「醜悪で無様な感情よね」
自嘲と共に関口は呟き、其れきり口を噤む。目を反らす様に俯く関口から、鳴海は目を逸らす事が出来ず、それ以上は、関口も無理に何かを語ろうとはしなかった。