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螺旋迷宮 標的はひとり  作者: 葉月
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閑話 冷たい愛情

藤堂と美桜のお話です。

少しだけ大人な恋愛をしています

 聖と凛が暴漢に襲われた夜から二日後。

 その日、井原美桜は神楽坂の外れにある、二階建ての一軒家の前に立っていた。此処は、聖にも知られていない関口糖子と藤堂伊織の本宅。

 だが、此処に来たのは関口に会い礼を言うためでも為でも、仕事の助力を頼む為でもない。

「こんにちは」

「ああ、君か」

 住人の在宅を確認する美桜の声。それに家の主、藤堂伊織が答える。

「良かったわ。此処に居て下さって」

 ほっとした声を出す美桜の態度は、一見大袈裟にも見える。だが一応、在宅家業である筈の作家として生計を立てている藤堂を自宅で捕まえる事は、実はとても難しいのだ。なぜなら彼は取材旅行と称して、常に全国を飛び回っているから。藤堂と暮らしている関口でさえ、彼の行動を完全に把握しきれてはいない。

「そろそろ君が来る頃だと思ったからね」

「そう? ありがとう」

 しかし、こうして美桜が藤堂に会いたいと思いこの家を訊ねる時、彼が留守だった時は少ない。

 理由は分からない。だが、美桜は其れを、恋人同士の以心伝心だと思う事にしていた。そう思う事で、彼女は藤堂と暮らす関口に対する嫉妬を抑え、微かな優越感に浸る事が出来る。

「結局、私の策略は成功したのかしら?」

「策略も何も、君は何もしていないだろう」

 座敷に腰を落ち着け、香り高い煎茶で喉を潤しながら言った美桜の言葉を、藤堂は一言の元に否定する。

「でも、貴方も糖子ちゃんも動いてくれた」

「馬鹿を言うんじゃないよ。僕もアレも、君なんかに動かされる程、落ちちゃいない」

 憎まれ口を叩きながら、藤堂は実に楽しそうに美桜の相手をしていた。

「そう? でも助かったのは本当よ」

「少し、危なかったがね」

「でも、無事だった。流石よね」

 あの日、糖子と藤堂が聖が襲われた現場に居合わせたのは偶然ではない。2人はそれぞれ別々に美桜から聖の危機を聞いていた。尤も藤堂に関しては話を聞いたのが直前すぎて、かなり危なかったのは本当の事だ。

「次は、もう少し早く話をしてもらいたいものだがね」

 間に合ったのは糖子が本気で粘ってくれたおかげ。間に合わない可能性だって充分あったのだ。

「ありがとう。頼りになる弟を持って幸せだわ」

 立て板に水の苦言を受けて、美桜は探る様な上目遣いで視線を送る。それはどこか、からかう様な甘える様な仕草。

「やめてくれ。君を姉だと思ったことなどないよ」

「……冷たい。腹違いだけれど、私達れっきとした姉弟じゃない」

 真剣に見つめる美桜に、藤堂は器用に片眉をひそめて見せた。

「こんな事をしていてもか」

 大分短くなった紙巻煙草を手元の灰皿に押し付けると、藤堂はため息を吐きながら美桜を手招く。

「全く、君は」

 畳に正座をしていた藤堂に美桜が近づき、そっと寄り添う。そんな素直な態度に、藤堂は優しげな顔を向けて微笑んだ。

「僕らは恋人同士だろ」

「そうだったかしら」

「つれないね」

 とぼけた口調の美桜に、投げ遣りに返す藤堂。二人は顔を見合わせて少し笑うと、同時に湯飲みに手を伸ばして静かに茶をすすった。

「糖子ちゃんは?」

「アレがどうした?」

「糖子ちゃんは伊織の婚約者なんでしょ?」

「形だけだ」

 それは、肉親でもない少女を傍に置く為の只の方便。美桜も、藤堂も、関口でさえ了解の上での便利な嘘だ。

「糖子ちゃんを側に置くのは助けた者の責任?」

「いいや、大体僕はアレを助けてなどいない」

「どういう事?。所長が消えた後、自暴自棄になってた糖子ちゃんを救ったのは貴方でしょう?」

「助けてなどいない。救われてなどいないんだよ。アレは」

 藤堂は自分が器用な生き方をしてきた自負があった。理知的な頭脳も、丈夫な身体も持っていた。だがそれは、『関口糖子』を救うのに何の役にも立ちはしなかった。義文からの唯一の頼みを叶える事が出来なかった。

 もし、美桜の言うように、藤堂に関口に対してとらなくてはいけない責任があるとするならば、それは『助けられなかった責任』だろう。

「ねえ、私と糖子ちゃんどっちが大事?」

 思い出したくも無い過去。現在進行形の無力感。そんな思いに苛まれ、藤堂の心が関口に寄せられたのに気付いたのだろうか。

美桜の問いは突然だった。

「そうだな。君は莫迦で、どうしようもない程に弱く、面倒な女だ」

 だが藤堂は自己の迷いを感じさせる事も無く、途惑う事も淀みもなく美桜に答える。

「ふーん。で、糖子ちゃんは?」

「アレの行動力は義文に匹敵するだろうし、知性もその辺の男共が束になっても敵わない。凄い子だ。アレの事は好きだよ」

 これは本心。

 たとえ関口が藤堂を厭うていても、藤堂は関口を気に入っている。

「なら、どうして?」

 『彼女じゃなく自分を恋人に?』言葉にならない美桜の質問に対する答えは藤堂にとっては簡単だった。

「君が美桜だからだ。だからこそ、僕は君の手が離せない」

「伊織…」

「世の中には出来の悪い子程可愛いという言葉があるが、案外アレは真実なのかもしれないな」

 腹違いとはいえ、姉弟である美桜と藤堂の関係は決して安泰なものではなく、褒められたものでもない。寧ろ、十中八九の人間が彼等を非難するだろう。それでも藤堂は関口ではなく、美桜を選んだ。

 美桜も聖ではなく紫条でもなく、藤堂を選んだ。

「僕はアレに女としての魅力を感じた事は無い」

「なら、私と一緒にいるのは性的魅力を感じるから?」

 『愛しているからじゃないの?』そう問いかけてしまいたいが、複雑に絡み合う感情が邪魔をする。

「男女関係を表すものとしては強力だろ」

「そうかしら?」

「人間にとっては結構大切なものだと思うが?」

「そうなの? 分からないわ」

「僕とあの子は契約をしたんだ」

「契約?」

「そう仲間としてのね。そして僕と君は、互いに互いを求め合う恋人同士。

今までそうして暮らしてきたんだ。これからも同じだ」

 独白の響きを持つ藤堂の言葉に、何も言えずに美桜が頭を垂れれば、手首を捕まれ強く引かれた。姿勢を崩して藤堂にもたれ掛かかった美桜は、そのまま強く抱きしめられる。

「何?」

「黙って」

 いつの間にか繰り返されていた、二人にとってはもう慣れた行為。当初、微かにあった嫌悪感は既に無い。表情一つ変えることなく、美桜は藤堂の唇を受け止めていた。


 間違いに気付けぬほどに互いに子供ではない。だが、それでも尚『美桜を見捨ててはおけない』『伊織と共に居なければいけない』互いの胸に湧き上がるその感情は、いったいどこから生まれているのだろうか。

いつものように、交わす吐息と伝わる熱を心底、心地良いと感じながら、美桜は胸の奥に冷え冷えとした氷塊を抱いている。

藤堂に名を呼ばれるたびに、見つめられるたびに、そして口付けられるたびに、嬉しさと共に胸に湧き上がる不安が、その氷塊を徐々に大きくする。

「どうして」

 美桜を抱き締める藤堂の腕の強さが、その時は酷く遠いものに感じられた。後頭部に手が回されて、抱き寄せられる。重なる唇は徐々に深くなり、美桜はその形の良い眉を少し顰めた。

「……」

 それは普段から美桜を良く知る人物で無いと気付かない程の、ほんの僅かな変化。しかし、その中の筆頭である義文が、美桜の変化に気付かないはずが無い。だが、藤堂は行為を止めはしなかった。美桜もあえて止めて欲しいとは言わない。

 無駄な事はしない。

 二人共たとえ何があっても互いの手を放す事など出来はしないのだから。

「伊織?」

「口を開けて」

「口?」

 突然、藤堂が幼い子供にするような優しい口調で語りかけてくる。それに疑問がないわけではなかったが、内心嬉しくないわけでもなかったので、美桜は素直に口を開けた。すると直ぐに口の中に小さな塊が放り込まれた。

「甘い」

 少し冷たい刺々した感触のそれは。

「金平糖?」

「お土産だ」

 不思議そうに首を傾げ、自分を見上げる美桜の髪を、藤堂は優しく撫で、少しだけ節張った指が唇をなぞる。

そうして自然と開いた美桜の口の中に、藤堂は新たな金平糖を入れた。

「美味しい?」

「ええ、とても」

 その答えに、藤堂はひどく満足気に笑って、そのまま美桜に口付けた。

「甘い。まるで少女小説の口付けみたいね」

 藤堂の腕の中は暖かく、その口付けは蕩ける程に甘い。美桜は無意識の内に身体の力を抜き、全身で藤堂に縋り付く。藤堂は己の腕の中に収まる美桜を見て微笑んだ。

 他の誰にも、関口にすら見せた事の無い優しい表情で。

「これからも私を助けてくれる?」

「勿論。君が望むならいつまででもね」

「糖子ちゃんも助けてくれるかしら」

「僕は君の頼みを断れない。そしてアレは僕の頼みを断らないだろう」

「ありがとう」

「礼はいらない」

「結局、私は誰かに縋らなければ生きてはいけないのね」

「かもね」

「ごめんなさい」

「気にするな。人間は皆、自分以外の者に縋りつき、利用しながらしか生きられない生き物だよ」

 もたれる身体を抱き寄せると、緊張で固まっていた美桜がやっと全身の力を抜いた。

「無論、僕も例外ではない」

「貴方が?」

「ああ」

「嘘吐きね」

 人は基本的には善人だ。そしておそらく藤堂や関口の様な人間はどんな状況に置かれても、善人であろうとするだろう。周りに流されず、正しい事と間違った事を自分の中でしっかりと見極めて行動するだろう。

 他人に流されたり、縋ったりせずに。

 己との違いを自覚して、自嘲の笑みを浮かべるしかない美桜に、藤堂はただ優しかった。

「嘘ではないよ」

 自己主張の薄い、持ち主を選ばない傀儡の様な女。名は体を表すとは良く言ったものだ。出合った頃から変わらない、桜の花の様な美桜の儚さは藤堂の慈愛と欲をかき立てる。それを自覚し、美桜を抱く腕に力を込めると、己の気に入りの一つである、柔らかい美桜の髪の香りが優しく藤堂を包み込んだ。

「僕は君を愛おしく思っている。利用されても構わない程にね」

「伊織」

「良いんだよ。君はそのままで」

 いつの間にか日が落ちた薄暗い部屋の中。ほんの少しの胸の痛みを憶えながら、それでも藤堂と美桜はいつまでも抱きしめあっていた。


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