閑話 甘くて苦い夜
「どうしてこんな」
いけすかない刑事が去った路地裏で、暫し呆然としていた聖がようやく口を開く。義文と一緒の時には、相手が刑事であれ誰であれ決して、こんな扱いは受けなかったのに。言外にそう訴える聖に、糖子は苦笑いをしながら言葉を返した。
「笠原家当主の名が無ければ、こんなものよ」
「名前?」
「うん。笠原家の権力って言い換えてもいいかもしれないわね」
義文は笠原の名を継ぎつつ、探偵をしていた。
聖は笠原から勘当されている。
階級や権力を何より重んじる警察や国にとって、その差は歴然だ。
「でも、同じ探偵さんなのでしょう?」
警察と探偵は協力関係にあるのではないか。やっと普段の自分を取り戻したのか、憤慨しながらも冷静さを保ち、そう言った凛に答えたのは藤堂だ。
「探偵を持ち上げるのは庶民だけですよ。警察から見れば所詮は邪魔者ですからね」
「そうなの?」
「ええ。そうだ聖君、君がこの先も探偵を続けてくのなら……」
「続けるさ、勿論」
言葉途中で勢い込んで答える聖を、藤堂は微笑ましげに見つめる。
「ならば、もう少し周りを良く見た方が良い。そしてもう少し上手く立ち回った方が良い」
藤堂の目には常にない労わりの光が宿っていた。
「さっきの刑事さんの言葉、全てが偽りと言うわけでもない。老婆心ながら忠告させていただきますよ」
「分かった。覚えておく」
即答する聖は藤堂の言葉の本質を、おそらくは半分も理解してはいないのだろう。だが、素直にそう答えた彼を藤堂も糖子もからかうこと無く見つめていた。
「……今日は悪かったな」
助かったよ。
「本当よ。今日はまあ、不可抗力だけど、次からは自分から危険に飛び込んだとみなして、絶っ対に助けてあげないからね」
「次はない」
「そう願うわ。本当に」
襲われた衝撃と、罵倒された衝撃。それは思ったよりも聖に傷を与えたらしい。糖子にまで素直に詫びと礼を言う態度は、正直少々気味が悪い。わざとらしい軽口にも乗ってこず、目を合わそうともしない悪友。そんな聖に、全く仕方ない子供ねとばかりに糖子は肩を竦めた
「あー、もう。疲れたー」
凛と聖を順番に自宅に送り届けた後、糖子と藤堂は夜更けの街を歩いていた。強い夜風に煽られて糖子の長い髪がばさばさと揺れる。
「そういえば、差配さんはどうして此処にいるの?。取材旅行は?」
「ああ」
包帯代わりの手拭いで頬を巻かれた糖子が、話し辛そうにくぐもった声を出した。手持ち無沙汰に煙草をふかしていた藤堂は、少女の今更な質問に呆れる程に呑気な答えを返す。
「今日帰ってきたんだ。早く土産を渡したくてね。探してた」
「お土産?」
「ああ。ほら」
放り投げるように渡されたのは大きな白い紙袋。中に入っていたのは、糖子の顔よりも大きくまん丸な茶色い物体。
「これ……座布団? 枕?」
「見て分かるだろ、三笠焼だ」
「……おっきいね。こんなの初めて」
「そうか」
「まるでお月さまみたいだよ」
漂う甘い香りに、袋の中身は菓子だと予想をつけていた。だがその予想外の大きさに、ついまじまじと凝視してしまう。
「好きだろう?」
見てないで早く食べろ。優しげな声でそう促がされる。
「うん。大好き」
本当は見た瞬間からかぶりつきたくてたまらなかった。立ち食いのお許しが出たなら遠慮は要らない。
「ありがとう」
食べようとして大口を開ければ、包帯代わりの手拭いが邪魔になる。糖子は片手で少し乱暴に頬の手拭いを外した。血痕は残っているが、血は止まっているので問題は無い。
「いただきます」
そして改めて大きく口を開け、思いっきりそのまん丸に齧り付いた。
「美味しい」
「そうか」
一口頬張り、思わず叫んだ糖子に、藤堂は満足そうに微笑んだ。
「凄いよ、これ」
甘い餡にふわふわな生地。大きいが決して大味ではない。繊細な和菓子の風味が口いっぱいに広がる。
「君の眼鏡に適って良かったよ」
「本当に美味しい」
並ぶ影は長身の男と小柄な少女。
先程の荒事の余韻など微塵も見せず、糖子は自分の顔より大きな三笠焼に齧り付く。そんな糖子の仕草は父に甘える幼子の様にも、飢えた獣の様にも見えた。
「本当に嬉しそうだな」
「美味しいからね」
「それだけか?」
「差配さんが、わざわざ探しに来てくれたのも嬉しいよ。たとえそれが美桜さんのお願いだったとしても」
「……」
ぽんぽんと交わされる会話。別に嫌味のつもりではなかったが、糖子の言葉に藤堂が声を呑んだ。
「差配さん?」
意外な反応。糖子は不審そうに藤堂を見上げ首を傾げた。
「嬉しそうだな。糖子」
足を止め、藤堂も糖子を見下ろす。ただでさえ身長差のある藤堂に、意味有り気に見下ろされては、流石の糖子も多少の威圧感を感じる。視線の意味の分からない、こんな場面では尚更だ。
「……そりゃ、嬉しいよ。やっと行動を開始してくれたんだから」
仕方なく、糖子は早々に口を割る。
「私を騙して壊した人達がね」
「そうか」
三笠焼を頬張りながら、笑みさえ浮かべて呟いた糖子の言葉。そしてそれなりの覚悟の元で発したそんな言葉を、藤堂はやはりそうかと当然のように受け止めた。
「あの頃とは違う。今の私には何の柵も足枷も無い。自由に思う存分動ける」
「自由に動いて何をする?」
「とりあえず会いたいかな」
「会ってどうする?」
「さあ?」
「分からないなら、会うべきではないのかもしれない」
「やる事は決まってる。許すか、もしくは殺すか、どっちかしかない」
「どっちか、決めてないんだろう」
「会えば。相手が目の前に現れれば。その場で決まる」
「そうか」
「うん。そう」
聖や凛が聞けば、それなりに衝撃を受けるだろう糖子の言葉。それを藤堂は驚く事も聞き返す事も無く聞いていた。胸の内にほんの少しの失望はあったかも知れないが、彼はそれを表に出すような失態もしなかった。
「破傷風には気をつけろ。怪我や病気で相手に会えなくなったら、つまらないだろ」
「うん、そうだね。あのね」
「何だ?」
「ありがとね。感謝してる。藤堂さん」
糖子は何かを真剣に伝えたい時にだけ、藤堂を本名で呼ぶ。その言葉に込められた想いに気付き、藤堂はようやく歩き出していた足を再び止めて、無言で糖子を見つめた。
「お前」
言葉に詰まったのは困ったからではない。胸を衝かれたのだ。
「差配さん?」
「そのくらいのお土産くらい、礼を言われる程の事では無いと思うが。どういたしまして」
「うん。お礼は素直に受けるものだよ」
言うだけ言って気が済んだのか、糖子は再び三笠焼に齧り付く。
「これから満月を見たら、この大きくて美味しい三笠焼を思い出すのかもね」
そっと、独り言の様に呟く。藤堂はそんな糖子から視線をそらし、皮肉気な笑みを浮かべる。
「お前は時々可愛いな」
「何よ、その似合わない言葉。気持ち悪い」
糖子もそれを受け、照れもせずに即答で皮肉を返す。
「何だ、つれないな」
「差配さんに素直に褒められると、何だか死にたくなるよ」
「そうか」
「そうよ」
二人きりの賑やかな帰り道。
「折角の夜だ。今日は死ぬには勿体無い」
「それは同感。それにまだ会いたい人に会っていない」
「違いない」
酷く甘くてちょっとだけ苦い夜。糖子と藤堂にとって、それは日常でもあり特別でもあった。