誰が高遠玲司に毒を飲ませたのか ― 有馬刑事の検証録 ―
この短編からでも十分お楽しみいただけますが、シリーズ1作目からお読みいただけますと、もっとお楽しみいただけます。
「えっ、福さんと森本刑事、今回不在ですか!?」
事件現場に間抜けな声が響いた。遅れてきた本田だ。
「お前、まさか忘れたのか。春の交通安全運動があるだろ?交通課に協力して、毎年小学校を持ち回るだろうが」
呆れているのは、係長。2週間くらい前に、交通課からメールが来ていた。自分でないことを確認した後、誰が参加するのかまでは、見ていなかった。
「えー!!じゃあ、今回は、俺と高梨、係長。それに……ママ」
順番に指した指が、最後に僕で止まった。有馬真尋、まの字が2つ並ぶから、あだ名はママ。福さんに半ば嫌がらせでつけられたあだ名だが、今や西池上署の誰もが知っている。
「そうだ。いつも以上に人員がいないんだから、プラプラしてないでとっとと仕事しろ」
バンっと背中を叩かれた本田は、ぎくしゃくとロボットのように歩き出した。いつもならベテランの福さん&喧嘩っ早い森本刑事がぐいぐい引っ張っているが、今回は違う。
「有馬、どうだ。何かわかったか」
「いえ。これと言ってまだ」
2021年4月2日15時前後。多摩川沿いの収録スタジオ「スタジオ・リプル」内にて、人が死んでいると通報があり、西池上署 刑事課 強行犯係が臨場した。スタジオ内は、ほのかにコーヒーの香りが立ち込め、遺体はまだフレッシュだった。
「自殺ですか?」
周辺の聞き込みを行っていた高梨が、遺体の状況をみて一言そう言った。窓にも入り口にも施錠がされ、さらに警報装置も作動していたとあって、状況だけ見れば確かに自殺に見える。
「まだなんとも」
ドリップバッグのコーヒーを入れ、それを飲んでの自殺にも見えるし、心臓発作のような病死にも見える。どちらにしろ、死ぬ直前にコーヒーを入れたのは確かだ。中身の零れたマグカップは、まだ温かい。
「え!高遠玲司じゃないですか!」
本田が頓狂な声をあげた。
「なんだ、本田の知り合いか」
「係長知らないんですか?ドラマとかCMにもよく出てるじゃないですか。最近だと……ほら、これ」
差し出されたスマホを係長と一緒に覗き込むと、コーヒー特集と題した、被害者の高遠玲司のコラムが表示されていた。数年前から様々な店を飲み比べ、おすすめ10選と評して、店が紹介されていた。
「有馬、お前知ってたか」
「いえ、特に。妙に顔の整った被害者だな、としか」
本田が呆れたように鼻を鳴らした。
「いやいやいやいや、芸能人ですよ?顔が整ったって……そんな感想あります?そりゃまぁ、ママよりはアレのソレですけど」
意味が分からなくて首を傾げていると、大きくため息をつかれてしまった。ボサボサ頭で無精ひげの自分がどうしたというのだろう。
「いいですけど。その無自覚な感じ、マジで嫌味ですよ」
「もういいだろ、本田。それよりも状況説明しろ」
高梨に取りなされて、ゴホンと咳払いし、本田が手帳をぺらりとめくった。
「えー、被害者は高遠玲司。本名も……本名も高遠玲司なんですね。へぇ。……じゃなくて、本日は、仮歌収録のため、マネージャーと共にこのスタジオに訪れていたようです。マネージャーは、途中別件があったとかで、1時間ほど外出しております」
「別件?」
「ええ。なんでも、被害者のコーヒーを買いに行かされたとかで」
「そんな遠くの店まで行ってたのか?たかがコーヒーで?」
係長は理解できないとばかりに首を振った。
「まぁ、係長的には、目を覚ますための茶色い飲み物って感じですもんね」
チラッと横目で見た本田の眼差しには、ちょっとした軽蔑が滲んでいる。
「否定はできないな」
うんうんと頷いている係長は、それに気づかなかったらしい。
「続けます。で、マネージャーが戻った時には、すでに被害者が倒れ、脈がなかったために通報したとのことでした」
「ふぅん……普通は救急に電話しそうなもんだけどな。死にたてだったら素人に判断つかないだろうし」
高梨が腕組みして呟いた。
「まぁ、そこは後で事情聴取して聞いてみましょう。マネージャーは白川奈緒。小柄でかわいらしい感じの女性でしたよ」
「それ、お前の主観入りまくってるだろ」
「まぁ、タイプなんで。僕。」
高梨がまた始まった、という顔をしている。この二人はいつもこうなのだろうか。
「本田、お前のそういうのは今はいらん。他に情報はないのか?」
係長が顎を揉みながら渋い顔だ。
「そうですね。ここは多摩川沿いなので、ジョギングとか犬の散歩とかで人通りはまずまずなんですけど、監視カメラはダミーが多くて。映像は手に入りにくそうです。それから……今回も遺体は司法解剖コースです。なので……また南邦大学送りです」
一瞬静まり返った。また南邦大学か、と言いたげな空気。榊原教授の後任とは、西池上署の面々はどうにも反りが合わない。いい意味ではさっぱりしているのだろうが、悪く言うと、敬意がない。
「それって、北池上総合病院じゃダメか」
「反りが合わないで病院変更できないの、高梨もわかってるでしょ」
呻きそうな様子の高梨に、本田が無理無理というジェスチャー付きで伝えた。
「……聞くだけタダだろ」
殺人事件が起こるのはもちろん嫌だ。が、あの先生に会うのも嫌なのだ。
「いいさ、今回は俺と有馬で行ってくる。その代わり、お前達はそのマネージャーに話を聞いておけ。……俺だって、あの先生は苦手なんだからな」
途端に嬉し気な顔をする本田と高梨ペアに、係長はとても弱かった。というか、係長は部下にとても甘い一面がある。俺がいる間くらいは、と面倒見がとてもいいのだ。
「細井さん、鑑識で何か気になることはありますか」
鑑識作業が落ち着いたころを見計らって声をかけた。
「ああ、ママさんか。お疲れさん。ここな、スタジオだから指紋塗れでな。古い体液の跡なんかもあって、鑑別が大変だよ。見ろ、これを」
そう言って指を指したのは、証拠袋の山。毛髪や何かの欠片なんかがいつもの現場の3倍ほど見て取れた。
「……時間かかりますよね」
「当たり前だろ。聞いてくれるなよ、ママさん」
苦笑いを浮かべた細井さんは、頭をポリポリと掻いた。
「遺体で気になることは何かありますか?」
「そうさな、口から泡を吹いているから、毒のようにも心臓発作にも見える。胸を掻き毟ってるのも、どっちにも取れるしなぁ。ただ、ちょっと……」
「ちょっと、なんですか?」
珍しく引っかかる物言いだ。
「なんか、このコーヒー。臭くないか?」
「コーヒーですか」
周りに漂う匂いを再度嗅いでみても、いい匂いにしか思えなかった。
「青臭いというか。うーん。うまくは言えないんだが。なんか臭い」
歯切れの悪い発言も珍しい気がする。いつもならもっと具体的なのに、抽象的な表現で本人も気持ちが悪そうにしている。
「なんか臭い、ですか。僕には違いがよくわからなくて」
「まぁ、このコーヒーも調べるから、そのうち真偽はわかるはずだ。俺の勘違いの可能性もあるしな」
細井さんの発言で、ドリップされたコーヒーを改めて確認することにした。益子焼のマグカップにドリップバッグが乗せられ、銅のヤカンのお湯を注いで入れただけ、なんの変哲もないように見える。パッケージも特にこれと言って何かがあるようには見えない。益子焼やヤカンが変色しているわけでもない。現場に到着した際も、一通り確認したが、同じ認識だ。
「……これは」
ドリップバッグの縁に、何かの欠片のようなものがついている。豆を挽いた時にでるカスではない。何かの植物片のような、異物。
「細井さん、これ見てください」
やってきた細井さんは、目を細めると、黙ってピンセットで慎重にその欠片を回収した。また証拠袋が増えた。
「分析に回してみる。結果は後でな。やっぱりよく見える目を持ってるな、ママさんは」
「いえ。でもこれ、自殺の線は薄まりました。おそらく、殺しですね」
細井さんは黙って頷いた。他のドリップバッグに異変がないか確認してもらわねばならない。カウンターの上に置かれたドリップバッグは、まだ10個以上ある。細井さんの仕事がまた増えてしまった。
「係長、これは殺しの線が濃厚です」
「何か見つけたか」
本田と高梨もこちらを振り返った。
「はい。細井さんに分析してもらいますが、コーヒーの中に、コーヒー豆ではない植物片が混じっていました。おそらくそれが死因ではないかと。自殺ならこんな小細工はしないと思います」
「よし。なら、そのつもりで動こう。現状一番怪しいのはマネージャーだ。本田、高梨。気を引き締めてかかれよ。何度も言うが、福も森本もいないんだ。わかるな?」
黙って頷いた二人を横目に、また面倒くさそうな事件だな、と係長が呟いた。
実際、とんでもなく面倒だった。高遠玲司死亡のニュースが流れるや否や、翌日未明から、西池上署にはマスコミやファンで溢れかえり、署に出入りするのも困難になった。
「一言コメントを!」「玲ちゃんはなんで死んじゃったの―!」 など、声をかけられることも多い。どこの局も他の局を出し抜こうと必死なのだ。
「マスコミ対応はこっちでやるから、お前らは事件に注力しろ」
との署長の言葉に大いに甘えることにした強行犯係は、ひとまず安堵した。いつもより人員が足りない中でマスコミ対応までやれなどと言われたら、係長がひっくり返ってしまう。
・発生日時:2021年4月2日 15時
・被害者:高遠玲司(52歳)
・発生場所:スタジオ・リプル
・死因:コーヒーに混入された植物片により死亡か? (他殺疑い)
・前科なし。※軽微な交通違反1回
・特記事項
①コーヒーに一家言あり
ホワイトボードにまとめ終わると、係長がしげしげと眺めた。
「一家言ねぇ。そんなに被害者はこだわってたのか」
「そうらしいですよ。ロケなんかで地方に行ったときには、いろいろ個人的に出向いていたらしいです。その評価が辛口すぎて、ちょっと批判が起きたこともありましたね」
そう言いながら、本田が炎上をまとめた記事を見せてくれた。SNSの切り抜きをまとめた記事だった。
「高遠玲司の評価で店の売り上げが左右されるから来ないで欲しいとか、逆に自信がある店は来てほしいとか、論争になったこともありました。本当は味音痴なんじゃないか?なんていう投稿もあったりして。あの時はかなり炎上しましたよ」
「味音痴?」
一家言ある人間が味音痴とは、ずいぶん矛盾した投稿だ。
「ええ。いつも同じ商品を買いに来るので、内緒で変えたら気づくかチャレンジした、なんてのが、どっかにありましたけど。それは店側が批判されてましたねぇ」
いくつか調べて、目当ての投稿が見つからず、本田は諦めたらしい。あれーと言っている。
「お前、ただのミーハー野郎じゃなかったんだな」
「失礼すぎるだろ、高梨。僕はいつだって本気ですよ」
ふんっと胸を張った本田に、
「だからお前はめんどくさいんだ」
と高梨が漏らした。
「まぁ、それはいいが。他に何かわかったことはないのか?」
係長が二人に問いかけた。
「ええ。かなりセクハラパワハラが多かったらしいです。人前で怒鳴ったり、無理難題を突き付けたりして、反応を楽しむ悪癖があったとか。一番被害を受けているのは、マネージャーの白川だ、というのが事務所からの情報でした」
高梨から報告があった。コンプラがなんだのと言っても、裏の実態は結局そんなものなのだろうか。
「えっ僕の白川ちゃんセクハラされてたの?」
「……お前のじゃないだろ」
ぺしんと頭を叩かれた本田は、大袈裟に痛い痛いと騒いでいる。本田はいつもこんな感じだったろうか。
「なら、やはり白川が第一容疑者だろう。午後聞き込みに二人で行ってこい。念のために言うが、失礼のないように」
「はーい」
間の抜けた返事を寄越す本田に、係長は頭を抱えた。
「本田、お前に言ってるんだぞ、俺は」
「係長、俺が監視します」
コクリと頷いた高梨を不安そうに見つめている。
「頼んだぞ高梨。まったく、福と森本がいないと、お前はこんなに自由なんだな。頭が痛い。早く戻らんかな、二人とも」
天を仰いだ係長は、ややしばらくそのままだった。
「お前は元々二人がいても自由だから、まぁ、そのままでいてくれ。午後、俺と南邦大に行くぞ。検視をやるそうだからな」
僕の方をみた係長は、すでに疲れたように微笑んだ。
***
午後、南邦大学を訪れた。榊原教授がいた頃の面影はすでになく、死臭が漂う陰気な場所となっている。
「後藤先生、ご無沙汰しています」
「ええ。死体がでなければ、会うこともありませんからな」
係長がピクッとしたのが分かるが、僕にはどうしようもない。せいぜい後で愚痴を聞く程度だ。
「……そうですね。では、検視をお願いします」
「言われずともそうします」
これが苦手とされる所以だ。言った言葉すべてをこんな感じで返してくる。1回ならまだしも、会うたびにこれだと、嫌な気持ちになるのだ。
「被害者の死亡時刻は、おそらく14時前後から15時前後。呼吸器に異常がありますな。おそらく、アルカロイド系の毒物。呼吸困難からの心臓麻痺で死に至ったのでしょう。瞳孔は死後開いてしまいますが、もしかしたら死亡前から散瞳していたかもしれませんな」
助手の学生たちが淡々と記録をつけていく。
「胃の内容物は……茶色い液体のみ。話を聞くに、コーヒーでしょうな。これは科捜研に回します。胸を掻いているのは、毒物で苦しんだからでしょう。口の周りの泡もその特徴に当てはまりますな。これも検査に回します。……ほかに気になるようなものは……ないですな。手足の傷は、床でのたうち回って付いたものでしょう。圧迫痕などの所見はありませんな」
後藤先生はそこまで一気に話すと、もう終わったとばかりに手袋をとり、無造作にゴミ箱へと放り込んだ。
「では、殺しの線が濃厚ということでしょうか」
「さぁ?それはそちらが考えることでしょう」
何を言っているんだとばかりの態度。決して間違いではない。結果を淡々と伝えてくれるのが、検視官の役目である。だが、そこに一緒に仕事をする仲間だという気遣いがない。
「……そうですね。あの、伺いたいことがあるのですが」
「必要なことは書類に記載しますので、それをご覧いただければ、無駄な時間を消費することもないでしょう。あとは助手に任せますので、多目的ルームでお待ちください」
それだけを言い残し、後藤先生はさっさと教授室へと引き上げて行った。
「今日も質問させてもらえなかったな。……有馬、俺って、そんなに嫌われる要素があるか?」
二人で多目的ルームで待機していると、係長が自嘲気味に話しだした。
「いえ、僕はそんなことないと思いますけど」
「けど、なんだ?」
ジロリとみられ、居心地が悪い。今日はどこか様子がおかしい。
「特に意味はありませんよ」
「あの先生、なんでいつもああなんだろうな。あんまり言いたくないが、本当に、北池上総合病院に変更したい。……無理だけどな」
係長がこんなことを口にするのは、珍しい。特に、部下の前では。たいてい余裕そうに後ろから見守ることが多い人であるのに。
「何かありましたか?」
「いや。ちょっと気になっただけだ。……有馬、お前は俺の虎の子だからな。俺の引退前には、どうにかしておいてやる」
いよいよどうかしてしまったのだろうか。
「縁起でもないこと言わないでください。係長は死ぬまで係長やってますよ」
「お前、どれだけ俺を働かせる気だ。悪いな、ちょっと疲れてるみたいだ」
ふっと係長が笑ったタイミングで、書類を持った学生が部屋へとやってきた。
***
「お前、福さんと森本刑事がいないとなんでそんな自由なんだ?係長を困らせるなよ」
「だって。二人がいたら、僕がでしゃばったらボコられるじゃない。おとなしくするしかないんだよ。それにさ、ちょっと今回、気に喰わないかも」
高遠玲司の事務所へ行く道中、本田に問いかけると、なんとも間抜けな回答が返ってきた。
「ボコられるって、物理的にか?それに、気に喰わないってなんだよ」
本田は、ふんと鼻を鳴らした。
「まさか。精神的にだよ。コンプラコンプラ。物理的って、高梨は物騒だなぁ。あのさ、係長、なんで有馬の見立てを全面的に信じちゃってるわけ?具体的にこれだって証拠は出てないのにさ」
やれやれと言わんばかりに肩を竦める本田に、係長の心痛を思い浮かべた。俺がしっかりしなければ。本田はどう思っているか知らないが、あの人は稀にみるいい上司だ。怒鳴らないし、理不尽でもない。現場の部下たちの目線で物事を考えてくれる。
「そりゃ、あの人の見立てだからだろ。ほら、着いたぞ。余計なこと言うなよ、お前」
「ちぇっ。お前もあいつの味方かよ。はいはーい」
本当にわかってるのか?と言いたいところをぐっと我慢し、事務所へと入った。当然入口にはマスコミやファンがうじゃうじゃおり、かき分けるのが大変だった。
「刑事さん、お待たせしました。マネージャーの白川奈緒です」
受付で要件を告げるとすぐに応接に通され、白川本人が現れた。連日の対応で疲れているのか、目の下に隈が浮かび、化粧も少しよれている。本田が言った通り、小柄でかわいらしい感じの女性だった。差し出された名刺を受け取ると、そこにはチーフと肩書が書かれていた。
「お忙しいところお時間ありがとうございます。西池上署の高梨と本田です。高遠さんの件で少々お話を伺いたく」
「ええ。存じております。この度はご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません」
深々と頭を下げた彼女からは、今のところ不審な点は見受けられなかった。
「では早速ですが…」
「白川ちゃん、今回は大変な目に合いましたね」
「えぇ?……えぇ、まぁ。そうですね」
心配していた通り、本田が割り込んできた。本当に困ったやつだ。
「本田、俺がしゃべってる。失礼しました。早速ですが、高遠さんについてお聞かせください。どのような方だったのでしょうか」
困惑した様子をすぐに取り繕う様子に、慣れている、と感じた。
「そうですね、高遠は、タレントとしてはかなり優秀でした。見た目がいいのはもちろんですが、ファンとの距離感も適切で、今まで女性問題で炎上したこともなく。交友関係はクリーンでしたし、自己管理も徹底しておりましたので、遅刻や病欠で穴を開けるようなこともなく、弊社としては、大事な人材でした」
事前に本田から聞いていたイメージともそう変わらない。だが……
「パワハラセクハラが多い人物だったって情報があるんですけど、それについてはどう思われますか?白川ちゃん」
またもや本田が横やりを入れてきた。肘で脇を小突いても、動じる様子は見られない。顔に胡散臭い笑みを貼り付けている。
「えぇと……それはどこからお知りになったのでしょうか。そのような事実はなく……」
明らかに動揺した様子で、これは事実なのだろうと察した。
「後でわかったら、白川ちゃん、不利になるけど。ここでゲロったほうが得策ですよ」
「あの……ええと……」
白川がチラリと俺の顔を見た。明らかに困っているが、ここで助け舟を出すわけにはいかない。聞き方はまずいが、ここで話したほうが明らかに心証はよくなるからだ。目で話すように促すと、諦めたように目を伏せた。膝の上で拳をぎゅっと握りしめている。
「……そうですか。確かに、そのような事実があります。人前での恫喝や、無理を押し付け、どう反応するか楽しんだり。プライベートを探るようなセクハラ発言があったのは事実です」
「一番の被害者がご自身であることも、ついでにお認めになりますか?」
これも聞き方は大変まずいが、切り込み方は悪くない。
「……ええ。おそらく。マネージャーで一番傍にいる時間が長いですから。無茶を言われたことは数えきれないです。身体的接触はないですが、かなり性的な発言をされたことも多々ありました」
「憎さで殺しちゃいましたか?」
にやっと笑った本田が、さらに畳みかけた。強めに脇腹を小突くと、本田は痛そうに、今度は前かがみになった。
「そんなことは!私個人の問題と、高遠のタレントとしての能力は切り離して考えるのがマネージャーです。裏でいくらクズなことをしていても、彼のブランドとしての価値は計り知れません。それをむざむざドブに捨てるような真似、私は絶対にしません。表向きのことだけを見れば、得難い人材ですから」
「なるほど。では、アリバイを確認させていただいてもいいでしょうか。14時から15時の間、貴女はどこにいましたか」
もう本田に主導権は握らせない。奴は冷汗をかきながら腹を抑えている。
「その時間なら、高遠にいつもの店でコーヒーを買うように言われて、タクシーで洗足池に移動してました。高遠は普段、このお店のスペシャリテしか飲まないんです。お店に聞いていただければわかりますよ」
コーヒー好きなのに、気に入った店だけを好むのは、少々意外だ。いろんな店のものを購入して飲み比べなければ、コーヒーのコラムなど書けないのではないだろうか。
「高遠さんは、大変コーヒーにお詳しかったそうですね。それなのにそのお店の物しかお飲みにならないのは、少々意外でした」
気まずそうな顔をした白川は、おずおずといった風に口を開いた。
「ええ。ここだけの話、高遠は味音痴なところがあって。以前にそれで一度だけ揉め事を起こしたことがあるんです。星1の評価を付けた店が潰れてしまって。いろんな店のものを飲むよりも、普段は固定したものを飲むほうが味の違いがわかるから、と、洗足池の店の物だけを好むようになりました」
味音痴。そういえば、本田がそんなようなことを言っていたが、まさか事実だったとは。
「は、ほら、僕の言ってたこと、合ってたでしょ」
得意げに口を挟んだ本田の足を、無意識に靴で踏みつけた。腹と足を痛そうにし、恨みがましく俺を見ている。
「その店の名前を教えていただけますか」
「珈琲工房 洗足です。いつも小林さんという店員さんにお世話になっています」
「小林さんですね」
手帳に店の名前と小林、とメモをした。
「それで、コーヒーを買って戻ったら、すでに高遠さんは亡くなっていた、ということでよろしいでしょうか」
「はい。戻った時には、もう事切れていましたので、警察へ連絡を」
しかし、そこまで死んでいると断定できる理由はなんなのだろうか。元救命士とか?
「普通なら救急に通報しそうなものですが、なぜ警察へ連絡されたんでしょうか。戻られた時にはまだ、表現はあれですが、死にたてだったはずですが」
フレッシュと言っても死にたてほやほやと言っても大差がないが、俺は後者を選んだ。
「私、前職が看護師だったので、もう救急搬送しても手遅れなのは、見てわかりましたから」
「なるほど、そういうことですか」
ここまでの白川の話に矛盾点はない。店に裏取りができれば、アリバイの証明はできそうだ。
「では最後に、高遠さんを個人的に恨んでいるような人物にお心当たりは?」
白川はそこで初めて腕組みをして考え込んだ。思い当たる人間がいれば、一人くらいはポンと出てくるものだ。それがこんな様子ということは
「申し訳ありません。思いつく方がいなくて……。スタッフの中には、パワハラセクハラで恨んでいる人間はいるでしょうけど、殺すほどかと言われると……そこまでではないかと思います」
「ええ、でしたら結構です。もし、何か思い出したことがありましたら、こちらへご連絡ください。本日は、これで失礼いたします。……最後に、本田の非礼を私から謝罪させていただきます。申し訳ございませんでした」
名刺を渡しつつ、謝罪を述べる。名刺を受け取った白川は、高梨さん、と小さく呟いた。
「ええ。大丈夫です。では、お気をつけて」
廊下で白川に見送られ、二人で事務所を後にした。
***
「お前、俺が失礼のないようにって言ったの、聞いてなかったのか?」
署に戻ってから、本田はすぐに係長に締め上げられた。高梨が、詳細に報告したせいで、すぐに白川への物言いがバレたのだ。
「いやいやいやいや。僕だって高梨からものすごい暴力受けましたよ。痛かったですよ」
ココとココ、と言いながら指さしている。
「それはそれ、これはこれだ。失礼な物言いをしなければ、そもそもそんなことされなかっただろ」
ぐっと詰まった本田は、何も言わずに下を向いた。正論すぎて何も言い返すことができない。白川への謝罪も本人でなく、高梨がしているし。
「まったく。二人欠員がいるんだから、面倒事は起こさないでくれよ。次は口頭注意じゃなく、反省文だからな。それと高梨」
びくっと身体を縮めた高梨は、恐る恐る係長のデスク前に立った。手を出したのは当たり前に悪いから、どう叱られるか怯えている。普段はそつなくこなすのに、珍しい。
「お前は……ほどほどにしろ」
「わかりました。すみません」
軽く頭をさげ、すぐに自分のデスクへと戻った。大きい体を小さくし、反省しているように見える。
「えっえっそれだけですか?贔屓じゃないですか?僕は暴力受けているのに。コンプラ違反ですよ」
身振り手振りで抗議しているが、そもそも自分が先に始めたのがいけないと思うのだ。
「うるさい、仕事に戻れ。そもそもお前が先にコンプラ違反だろ」
係長にも同じことを言われ、手でしっしっと追い払われた本田は、納得がいかない顔をしている。
「ママだって自由なのに、なんで俺だけ……」
ぶつぶつ言っているのを、係長が耳聡く拾い上げた。
「有馬は、俺の言うことは聞く。お前は、聞かない。以上だ」
ふんっと言いながら立ち上がり、係長はどこぞへと消えた。係長がこんな行動に出るのは、本当に珍しい。自分の中で自制して、消化できるタイプだと思っていた。
「お前、あれ、たぶんやばいぞ」
高梨が、本田にこそこそと話している。
「何が?」
「今にわかる。俺にはわかる」
完全にハテナ顔の本田と、訳知り顔の高梨。なにがやばいのか、僕にはさっぱりわからなかった。
「あれ、係長は?声が聞こえてたと思ったけど」
そこへ細井さんがひょっこりとやってきた。両手に資料を抱えている。例の証拠の調査資料だろうか。
「あ……ちょっと席を外してますけど。どうしました?」
資料を受け取りながら、細井さんに尋ねた。見た目以上にずっしりとした重みで、取り落としそうになった。
「報告したいことがあったんだけど。この後捜査会議やるのか?」
「係長が戻ったらやりますよ」
いつもの会議室は押さえてある。そもそも本田が怒らせなければ、そのまま始める予定だった。
「なら、その時に声かけてくれ。いったん席に戻るから」
資料は僕が受け取ったまま、細井さんが戻って行った。パラパラと内容を見ると、やはり書類はあの押収した証拠の件のようだ。いつもよりも微物が多かったのに、翌日にはまとめてくるあたり、やはり細井さんは仕事ができる。
ややしばらくして、係長が戻ってきた。やけに嬉しそうな顔をして、この短時間に何があったのだろう。
「よし、じゃあ会議始めるか」
会議室にて、本田、高梨と報告をし、続けて僕が報告した。まずは共有からだ。
「味音痴ねぇ。じゃあ、明日は本当にその店まで1時間でコーヒーを購入して帰ってこれるのか実験してみろ。まぁ、3往復もすれば十分だろ」
係長が本田と高梨に指示を出した。もっと早く帰れるのであれば、コーヒーを飲ませて殺害することも可能だろうし、もっと遅くなるのであれば、白川が嘘を言っていることになる。
「俺と有馬でその小林ってやつの聴取を取ることにしよう。で、細井さん、なにか報告があるとか」
頷いた細井さんは、先ほどの資料を各々に配ってくれた。
「まず、見てもらえればわかるが、今回は証拠なのか鑑別できない微物が多すぎる。指紋は50人分以上あったし、毛髪や体液なんかも40人以上分あって、どれが犯人につながる証拠なのか判断不能だ」
この時点ですでに通常の事件と大きくかけ離れている。係長は眉間に皺を寄せた。
「被害者とマネージャーの白川の分も当然採取したが、だからどうした状態だな。唯一、100パーセント関係のありそうな被害者が飲んだと思われるコーヒーについての報告は最終ページを見てくれ」
最終ページには、鑑別不能の文字があった。
「なんですか、これ」
「鑑別不能だ」
すんとした顔で淡々と述べる細井さんは、もう開き直っているように見える。
「そうじゃなくて。未知の毒物ってことですか?」
本田が焦れたように問い直した。
「いや、基本のスクリーニングセットにひっかかるものがなかったんだ。アルカロイド系の毒物以上のことが、科捜研でもわからなかった。ピンポイントでこれ!と指定したら比較検査は可能なんだがな。さすがに世の中のすべてのデータがそろっているわけじゃない」
頭をぐしゃぐしゃとした細井さんは、かなり色々調べたのだろう。作業服は皺が寄り、背中が丸くなっていた。
「じゃあ、手がかりのために手がかりを探すんですか?」
高梨が遠い目をしている。その気持ちはよくわかる。
「面目ないが……そういうわけだ。引き続き検査はするさ。1つ目で当たるかもしれないし、100個目であたりを引くかもしれない。そもそも科捜研にデータがなければ永遠に合致することがないかもしれない」
先ほどまでご機嫌だった係長が沈痛な面持ちになった。手がかりのために手がかりを探す、しかも、芸能人絡みで。早急な幕引きを求められる中、最悪の知らせだった。
「ちょっと細井さん悪いが来てくれ。署長に報告に行く」
「おやじさんのとこにですか。……わかりました。」
二人でシュンとした様子でとぼとぼ歩いていく姿は、とても見ていられない。どう絞られて戻ってくるか、想像に難くないからだ。
案の定、1時間ほど経ってから、1滴の水も出ないほどにカラカラに絞られて戻ってきた。
「大丈夫ですか」
応接のソファにどっかり座り込んだ二人は、明らかに疲れた顔をしている。お茶を淹れて出すと、美味しそうに一息で飲み干した。
「すまんな、有馬。生き返ったよ」
「ありがとう。おやじさん、えらい剣幕で怒っててな。生きた心地がしなかった」
ふーっと大きくため息をついた細井さんは、固まった肩をほぐしにかかった。バリトンボイスの署長は、普段ならこんなことで怒る人でもない。部下思いの強面だ。だが、連日の慣れないマスコミ対応で、調子をおかしくしているような気がする。署長もまた、本庁から叱られる立場にある。署内全体が、なんとなく落ち着かない、浮ついた雰囲気だ。
湯呑が空になった二人に、もう一杯お茶を入れてやった。僕にできるのはせいぜいこの程度だ。
「お前が茶を淹れてくれるなんて、珍しいな」
僕もおかしくなっている内の一人なのだろうか。それとも、福さんと森本刑事の不在が僕にも影響を与えているのか。
「たまには、まぁ、これくらい」
「明日は、槍が降りそうだ」
「係長、それはまた、言い過ぎです」
ふっと笑った細井さんは、ずりずりとソファに沈んで行った。
***
翌日、係長と二人、洗足池の珈琲工房 洗足を訪れていた。池の周りには桜が植えられ、桜の鑑賞スポットとして有名だ。この店の敷地内にも、遅咲きの桜とそれを引き立てるようにイチイの木が植えられていた。時期が時期なら華やかな店先になることが容易に察せられる。
「いらっしゃいませ」
店内は明るく、コーヒーのふくよかな香で満たされている。ところ狭しと観葉植物が飾られ、瑞々しい雰囲気だ。無音ではなく、薄くジャズが流れ、心地よい。
「西池上署の加藤と有馬です。少々お伺いしたいことが」
警察手帳を見せると、店員の表情が一段険しいものになった。誰だって警察の訪問は歓迎しない。
「刑事さんですか。うちの店で何か問題でもありましたか」
柔和そうなこの人物が小林だろうか。40代半ばの細身の小柄な男性だ。
「いえいえ。高遠さんの事件で捜査をしておりまして。小林さんは貴方でお間違いないでしょうか」
「ええ、そうですけど。小林修です。高遠さん、ニュースで見ましたよ。いつもうちのコーヒーを大量にお買い上げいただいて、上顧客でしたから、残念です」
コーヒーの機器を磨く腕を止め、こちらの方に近寄り、ひそひそと声を潜めた。
「そうでしたか。いつもご本人が購入に来ていたんでしょうか」
「いえいえ。マネージャーの白川さんがいらしてます。ご本人にはもう数年お会いしてませんね。いつもスペシャリテのドリップバッグを100個ずつと、バラまき用のを400個購入していかれるので、こちらも準備が大変ですよ。残りが10個前後になると、高遠さん、在庫魔なのですぐに補充したがりますから」
「そんなに大量購入されてるんですね。その、バラまき用っていうのは、なんですか?」
あまり聞きなれない単語で、思わず口をはさんでしまった。普段からそんなに他人にあげる習慣があるのだろうか。
「ああ。それならこちらです」
小林が奥から取り出したのは、高遠のイラスト入りの特別仕様の商品だった。わざわざデザインさせて作らせていたらしい。
「これ、地方とかに持っていくと評判がいいんですって。高遠さんのイラストが入ってるので」
1つ受け取り、しげしげと見てみたが、中身はほかのスペシャリテと同じで、パッケージが違うだけだ。
「ほう。そういうものなんですねぇ」
係長も観察しながら、イラストが似てますね、なんて言っている。
「まぁ、味より見た目ってやつですよ。悲しいですけど」
ふふふと笑った小林は、よくあることなので、と呟いた。
「ところで、4/2の14時から15時の間に、白川さんはこちらに来てますか」
「ええ。いらしてますよ。レジの記録がありますから。ちょっとお待ちください」
そう言って見せてくれたのは、14時22分の購入履歴だった。さきほど言った通り、スペシャリテのドリップバッグを100個とバラまき用を400個購入していた。
「ありがとうございます。とても助かります」
レジの画面を写真に撮らせてもらい、すぐに本田と高梨に共有した。
「いえいえ。犯人捕まえてくださいね。お願いしますよ、刑事さん」
「わかりました。あの、我々はこれでお暇します。後で、本田と高梨という刑事がここに立ち寄ると思います。ちょっと検証をさせてまして。やつらが来たら、これでコーヒーを飲ませてやってください」
そういうと、係長が札を2枚だして、カウンターに置いた。
「うちのコーヒー3杯は飲めますけど」
「それじゃ、このバラまき用のをいくつかください。ちょっと調べたいこともあるので」
そう言って、ドリップバッグをいくつか手に入れ、店を後にした。
「有馬、お前、何かひっかかかっただろ」
池の周りの遊歩道を歩いていると、係長が口を開いた。春の日差しが降り注ぎ、気持ちがよい気候だ。
「ええ。まぁ。上顧客だったから残念なのだな、と。いい人だったから、とか殺されるなんて残念、とかではなく、売り上げのほうで残念なのだな、と思いました」
「俺もな。芸能人ってテレビで見てるから、なんとなく勝手にいつも会ってる人みたいに好感度高かったりするだろ。店の商品を大量購入してくれてるし、もっと好感度高そうなのに、なんかトゲがあるよな。」
砂利道で足が滑る。池ではスワンボートに乗った親子が歓声を上げていた。
「そうなんです。それに、売り上げにつながるのに用意するのが大変っていうのも、なんだか、迷惑そうな感じがして。気になりましたね」
「一人で回してる個人の店だからかって俺は思ったけどな」
「そうとも言えるんですけど。なんか、うまく言えないんですよね」
頭の中がごちゃごちゃしている。筋道は見えているような気がするのに、一本にうまくつながらない。
「お前がそんな調子なのは珍しいな。やっぱりみんな浮ついてるんだよなぁ」
係長の言葉に頷きつつ、先ほどの小林の様子がしばらく目の裏から離れなかった。
***
「なんで俺たちがこんなことやらされてんの?」
朝から文句しか言わない本田の面倒を見るのが、段々嫌になってきた。
「うるさいぞ、お前。また係長の命令に違反したら、反省文って言われたばっかりだろ」
署から運転しているのは俺なのに、助手席に座ってるだけの奴に文句を言われる筋合いはない。こいつに運転させるのは危なくて仕方がないから、代わりにやっているだけだ。
「気に入らないもんは、気に入らないの。俺、情報はちゃんと取ってきてるのにさ。ママばっかり贔屓されてるじゃん」
贔屓、というか、あの人はおかしなところに目をつけるし、妙な立ち回りをすることもあって、不気味がられることも多い。見た目にも気を遣わずボサボサだし、無精ひげだ。だからと言って
「仕事ができないわけじゃないだろ」
「高梨もあいつの肩を持つんだね。へぇ。検挙率最下位のあいつの肩をねぇ」
それだって、福さんや森本刑事が横取りしているからであって、本来ならトップの座にいる人だ。なぜ横取りを許すのか、俺には理解できないが。
「はいはい。肩を持ってるよ。それでいいな」
ちっと舌打ちをし、本田はようやく黙り込んだ。このところ、妙にあの人に対抗心を燃やしている節がある。しかし、向こうはこっちのことをなんとも思っていないのが、本田の勘にひどく触るのだ。せめて同じ土俵に上がってくれれば、ここまで荒れることもないのだろうが。
「あいつ、基本だんまりなのに、最後の美味しいところだけ持っていくんだもん。係長が最初に意見聞くのも、基本あいつにだし。俺だってあいつに負けないくらいの実力、あるだろ、高梨」
「お前、かまってちゃんかよ」
また始まった。こういうところを係長に見抜かれてるんだと言ったら、また拗ねるんだろう。結局、今日は検証が終わるまで、ずっとこいつの愚痴に付き合わされる羽目になった。係長にごちそうになったコーヒーがなければ、とっくに心折れていた。早く、福さんと森本刑事に戻ってきてもらいたい。切実に。
***
西池上署に戻ると、さっそく係長がコーヒーを入れはじめた。
「さっきのですか」
「まぁな。普段は署にある安いインスタントしか飲まないから、どれだけ違うのかと思ってな」
湯が注がれると、先ほど店先で嗅いだのと同じふくよかな香りが漂い、贅沢な気持ちになった。冷蔵庫からいそいそと係長の好物のゴマ屋のおはぎを出し、一緒に食べるつもりのようだ。
「おおー。うまいぞ、有馬。香りが全然違うな」
そうだろうと思う。一瓶300円の安いインスタント商品とは比べ物にならないだろう。係長には言えないが、自分も行きつけの店があり、そこで豆を買って挽いている。
「よかったですね」
「あぁ。それでな、さっき俺は思ったんだが、これってどうやって作るもんなんだ」
そう言って、指を指したのは、ドリップバッグの入っていたパッケージと、フィルターバッグだ。
「どうやって……たぶん、粉をフィルターバッグに入れて閉じるんですが、僕にもわかりません。細井さんならわかるかもしれないので、ちょっと聞いてきます」
「おお。頼むぞ有馬」
係長は幸せそうな顔をしながら、次のおはぎを頬張った。
「なぁ、ドリップバッグの作り方を俺に聞くのか?」
先ほど小林に聞けばよかったのを後悔しながら、細井さんに聞きに行った。昨日見た時よりもさらにヨレヨレになった細井さんが、無数の証拠袋に囲まれてデスクに座っていた。
「すみません、大変なときに。細井さん、コーヒーお好きでしょう?詳しいかと思って」
「詳しいよ、詳しいけど、この状況で俺に聞くな……」
はぁーと大きくため息を吐きながら、それでも教えてくれる気になったらしい。
「あれはな、ざっくりいえば、熱圧着だ。」
「熱圧着?」
そうそう、と言いながらデスクの机をガラッと開けて、布切れと、なにかのパッケージの切れ端、そしてアイロンを取り出した。
「ここにな、このシールを貼るだろ、で、その上を熱く熱したもので抑える」
透明なシールを布切れに貼り、それに合わせるように二つ折りにした。その上から、熱したアイロンを押し当てる。
「こうすると、ほら、くっついただろ?パッケージも同じだよ」
そう言いながら、実演してくれた。先ほどの布切れを入れたパッケージの口に、透明なシールを貼り、同じようにアイロンを押し当てると、こちらも綺麗にくっついた。
「うまいもんですね」
接着した部分を指で引っ張っても、しっかりとくっついている。
「まぁな。今はわかりやすく透明なシールを使ったけど、普通はこんなの貼らずに熱で溶けるようになってるから、熱したアイロンとか、専用のシール機械で抑えればもっと簡単に綺麗にくっつくぞ」
ゴミ箱に先ほどのテストしたパッケージをポイと捨てると、細井さんは肩を回した。
「そうなんですか」
「ああ。今はアイロン使ったけど、100円均一にもシーラーが売ってたり、女性が髪の毛を巻くこてでもできたりするし、やけどにさえ気を付ければ、お手軽だよ。もし失敗したら、また熱くすれば開けられるしな」
「……開けられる?」
「うん。開けられるぞ?」
細井さんは、訳が分からないといった顔でポカンとしている。
「なるほど。細井さん、ありがとうございます。筋道が見えたような気がします。忙しいところ、ありがとうございました」
***
「係長、ドリップバッグの件ですが……」
「ただいま戻りましたー」
係長に報告しようとしたタイミングで、本田と高梨が戻ってきた。手には、各々係長からごちそうされたコーヒーを持っている。
「係長、ありがとうございました」
高梨が手に持ったカップを軽く持ち上げて礼を述べる一方で、本田は自分のデスクにさっさと座った。荷物を整理し、そそくさと手洗いへと消えていく。
「いや。気にするな。お疲れさん」
本田をチラリとみた係長は、高梨に微笑んだ。高梨は、そのまま係長へと報告を続けた。
「検証してみましたが、1時間かからずに往復できました。平均にはなりますが、だいたい片道で20分前後、コーヒーの購入に3分、また20分程度でギリギリですが、時間内に戻れました」
「じゃあ、白川の犯行は可能ってことだな。レジの記録では、14時22分だった。検証の結果、ほぼその通りと言って間違いない。二人とも、戻ってきたばかりのところ悪いが、白川を引っ張れ。どう考えても、白川は第一容疑者だ。ただ、マスコミに気取られないように、慎重にな」
手洗いから戻って本田は、係長のデスクへと近寄ってきた。
「係長、報告が……」
「ああ。高梨から聞いたところだ。白川を引っ張ってこい。絶対にマスコミに嗅ぎ付けられるなよ」
「え?高梨?え?え?」
「いいから来い」
襟首をつかまれた本田が、高梨に引きずられるようにして、また出て行った。最後まで手足を振り回してじたばたとしていた。
「で、有馬、なんだ?」
こちらに向き直った係長に、一瞬なんだったか忘れてしまった。
「えーと。あ。ドリップバッグの件ですが、熱圧着というもので作られるそうです。高温で袋の口を押えると、くっつく仕組みだそうです。しかも、また高温で押さえると、開けられるんだそうです。」
「開けられる?」
やはり係長も同じところで引っかかった。
「はい。それで、再接着も可能だそうです。細井さんが実演してくれました」
「毒物をいれてまた封ができるってことだな」
「ええ」
顎を揉みながら、係長は何かを考え始めた。
「……じゃあこういうことか。白川は、日ごろのストレスで、高遠を殺そうと思った。よく飲んでいるドリップバッグの口を何らかの方法で熱して開封し、毒物を入れてまた封をした。それで、毒物の入ったドリップバッグでコーヒーを入れ、被害者に飲ませて殺害した。と」
「僕も同じことを考えていました」
ふむ、と呟いた係長は、満足げに微笑んだ。
***
「だから、私じゃないって、何度も何度も言ってるじゃないですか」
連行された、白川は、一貫して無罪を主張した。私がチーフに出世できたのは、高遠のおかげであるし、彼が問題を起こさないのは、自分の管理が行き届いているからだと、評価もされている。担当を外されたら待遇が下がるのに、そんなことをするはずがない、と何度聞かれても強固に主張を続けたのだ。
「……白川ちゃん、頑固ですねぇ」
本田がぼやくほど、彼女は取り付く島もなかった。本田は、人の懐に入り込んで話を聞きだすのがうまい。おそらく、福さんと同じくらいに。それが苦戦するというのは、やはり珍しい。
「まぁ、認めたら終わりだしな」
ぼそっと高梨も呟いた。虚空を見つめている。ドリップバッグの作り方については、白川を引っ張った後、二人にもしっかり共有されている。係長からの説明で、二人も白川がホシだと意気込んで取り調べにかかったのだが。この有様だ。
「細井さんの分析、まだ当たりは出ないんですか?」
「ああ。もうローラー作戦だって言ってやってるくらいだよ。あたりが出たら駆け込んでくるだろ」
自分のデスクに力なく座り、二人とも疲れている。
「まぁまぁ。二人とも、これでも食え」
そう言って係長が差し出したのは、ゴマ屋のおはぎだった。
「お好きですねぇ、コレ」
と言いながら、遠慮なく口に運ぶ本田と、ぺこりとしながら1つ貰った高梨を、係長はじっと見つめた。
「これも飲むか?」
そう言って取り出したのは、先日、小林の店からもらったドリップバッグのコーヒーだった。
「ありがとうございます」
「係長もコーヒーに目覚めたんですね」
それぞれ受けとり、コーヒーを淹れだすと、いい香りに包まれる。何気なく、破かれるパッケージとフィルターバッグを見ていると、ゴミ箱にそれらが捨てられる寸前、閃きが降りてきた。
「それ、捨てますよね」
二人がほぼ同時に振り向いた。何の用だと言いたげだ。
「もう使いましたし、捨てちゃいます」
「それ、もらえませんか、僕に」
使用済みを欲しがる僕に、二人はぎょっとした顔をした。
「え、ママ、こんなの何に使うの?別にいいですけど」
驚いた様子の二人から、ゴミをもらうと細井さんのところへと急いだ。ほんの些細な閃きだが、試さずにはいられない。本当に再び熱を加えると、元のようにきれいに圧着できるのか。
「で、なんで俺のとこに来ちゃうの、ママさん」
先日行ったときよりもさらにヨレヨレくちゃくちゃになっている細井さんは、げっそりとしていた。目の下が真っ黒だ。ローラー作戦でだいぶやられている。
「アイロンを貸してくれませんか」
「アイロン?いいけど、何に使うんだ?」
先日のアイロンを借り受けると、そのまま鑑識の空いているテーブルを使わせてもらうことにした。
「それ、使用済みのやつだよな」
「そうです」
「なら乾かしてからのほうがいいだろ」
引き出しからドライヤーを取り出した細井さんが、濡れたコーヒーかすをカラカラに乾かしてくれた。
「お忙しいのに本当にすみません。いつもありがたいです」
「まったく。ママさんはそういうところはちゃんとお礼が言えるから、俺も甘いよなぁ」
自分がヘロヘロでもなんやかんや助けてくれる。本当に頼りになる、得がたい人だ。
「で、なんか思いついたんだろ?」
「ええ」
十分に温まったアイロンで、パッケージを圧着してみる。ジュっと音がし、アイロンを持ち上げると、シワが寄り、キレイな仕上がりとは言えない出来だ。
もう一度押し当て、きれいに剝がし、もう一度。今度は角がずれて不格好になった。別の辺を剥がして再接着してみるも、今度はパッケージの表面が溶けて、質感が異なって見える。もう一回、もう一回。
「綺麗に戻らない」
合計6回やってみたが、1つも綺麗に再圧着できなかった。細井さんから適当なパッケージをもらって数回やってみるも、表面が焦げたり縮んだりして、やはり綺麗にはできない。
「そりゃ、元のように綺麗になんて無理だよ。俺たち、素人だもんな。封ができるってだけでさ」
あの日の現場を思い出してみる。コーヒーのパッケージも、フィルターバッグも、何の異常もなかった。そう、異常が、ない。
「細井さん!ありがとうございました!大変参考になりました」
「なんだなんだ?」
借りたアイロンを細井さんに手渡し、熱圧着の残骸を握りしめると、僕は急いで係長のもとへと向かった。
ちょうど休憩を終えて、本田と高梨が再度取り調べに向かうところだった。強行犯係に飛び込んできた僕を、不審な目で見つめている。
「係長、白川じゃありません」
「なんだ、藪から棒に」
係長も驚いた様子を隠せない。先ほどまで、白川だろうと僕も本気で思っていた。
「これを見てください」
先ほど、何度やっても失敗した残骸を手渡した。どう見てもゴミだ。
「これが何だって言うんだ?」
残骸を手に取ってしげしげと見ているが、ピンとこないらしい。
「これこそが証拠ですよ、係長」
「有馬、さすがにそれじゃわからん。順番に説明してくれ」
いったん残骸をデスクに置くと、腕を組んで、先を促された。
「わかりました。係長、現場に飲みかけのコーヒーがあったのを覚えてますよね」
「ああ。まだマグカップが温かくて、現場もいい匂いがしていたな」
思い出したのか、うんうんと頷いた。
「あのドリップバッグのゴミがどうだったかも、覚えてますか?」
「ああ。別に普通だったぞ。特に汚くもないし、賞味期限内だったし、歪みも皺もなかったな」
デスクをダンっと叩いてしまい、係長がビクッとした。
「それですよ、係長。それこそが証拠なんです」
「だから、それがわからんと言ってるだろうが」
「これを見てください。これは、先ほど僕が、再圧着したらどうなるかの実験結果です」
先ほどの残骸を手渡し、一つずつ説明した。シワ、ズレ、それに溶けたり縮んだりしたことを1つずつ。
「わかりますか、素人が再圧着しようとすると、うまくいかないんです。僕は指先が器用な方ですが、それでもこの有様です。何しろ、約10回もトライして1回もうまくいきませんでした」
本田と高梨が戻ってきて、黙って残骸を確認している。
「細井さんも、素人に綺麗に再圧着するのは無理だと言ってました。それで、考えてみたんです」
興奮して、息が浅くなるのを抑え、ゆっくりと一呼吸した。
「僕はずっと、毒は売られた後に混入されたと思っていました」
強行犯係だけでなく、フロア全体がしんと静まり返っている。他の係も耳を澄ませているのではないか、そんな錯覚に囚われた。
「でも、製造の段階で入れられたのであれば、どうでしょうか。普通の製品と同じように、一回だけで熱圧着できます。それに、被害者がこの店のスペシャリテしか飲まないことは、もうわかっていることです。ドリップバッグに毒を入れられれば、犯人が直接手を下さずとも、被害者を殺害することが可能となります。何しろ、被害者が自分でお湯を注ぎ、自分で毒入りのコーヒーを作るのですから」
残骸が出すカサカサという音しか耳に入らない。
「でもそれじゃ、あの日なぜ高遠は死んだんだ」
高梨がゆっくりと口を開いた。本田は、残骸をぎゅっと握りしめ細かく震えている。
「自分で勝手に毒入りを選んで飲んだからです。この殺害方法は、いずれ高遠を殺すことができるが、いつ、という日時を選べないんですよ。その代わり、直接手を下さずに、仕留めることができる」
「でも、毒物が入ってるなら、味でわかるんじゃないの?」
本田が震える小さな声を絞り出すように呟いた。
「味音痴なんです、高遠は。細井さんは、現場のコーヒーの香りを、臭いと言っていました。青臭いような、なんか臭いと。毎日飲んでいなくとも、わかる人間にはわかるのに、毎日飲んでいる人間が気づけない。味音痴なんですよ。正確には鼻音痴というべきでしょうか。違いが分かれば、飲まずに回避できた。やはり、高遠の舌は当てにならなかったということでしょう」
「それ、俺が取ってきた情報じゃん」
小さく呟いた本田の肩を、高梨がポンと叩いた。
「じゃあ、動機はなんだよ。それはまだわからないだろう」
高梨の腕を払いのけた本田が、僕に詰め寄ってきた。
「ええ。正確なところはわかりません。でも、仮説なら。やはり味音痴が関係あるんじゃないでしょうか。例えば、高遠が星1を付けた店が潰れた、という情報がありましたね。もしそれが小林の店であったなら……強力な動機になります。こればっかりは、本人に聞いてみないとわかりませんが」
ずっと僕の話を黙って聞いていた係長は、いつものように顎を揉んでいた。
「小林を引っ張ってもいいでしょうか、係長」
僕の目をまっすぐに見つめた係長は、ゆっくりと頷いた。
「ああ。行ってこい、有馬」
コクリと頷き、震えて動かない本田をそのままに、高梨と小林の元へと急いだ。
***
「これはどういったことですか、刑事さん」
初めて会った時と同じ柔和な笑顔を浮かべたままの小林は、不気味だ。どうして連れてこられたのか、なぜなのか、何も言わない。静かに、笑っているだけなのだ。
「高遠さんのドリップバッグに毒を仕込んだのは、貴方ですよね。小林さん。僕は、すっかり騙されてしまいました」
ピクリとした小林は、まだ笑顔を貼り付けている。
「ドリップバッグが熱で開封可能だと知って、容疑者を間違えてしまったんです。盲点でした。熱で開封可能ならば、貴方だって開封可能です。当たり前すぎて、見落としてしまいました」
うっすら笑ったままの小林は、どこか遠くを見つめている。
「それで言うと、私でなくても可能なのではないでしょうか。熱で開封可能なのですから」
「ええ。最初はそう考えていました。でも、素人が再圧着するのは、至難の業です。小林さんならよくお分かりなのではないですか?」
首を傾げ、何を言ってるかわからないといった雰囲気だ。
「さぁ。私にはわかりかねますね。とにかく、何か証拠を出していただかないと。まさか、ドリップバッグに再圧着の痕跡がないから、犯人は作った僕だろう、なんてことではないですよね」
小林が黒なのに、決定的な証拠がない。まだなんの毒を使って殺害したのかさえ、わからないのだ。
「ええ。実は、そうなんです。大丈夫ですよ。48時間以内に必ず証拠を見つけて、貴方の前にもってきます。お約束しますよ」
「楽しみにしていますよ、刑事さん」
微笑んだ小林は、なにを考えているのか、まったくわからなかった。
***
「有馬、あんなこと言って大丈夫なのか」
取り調べ室から出た僕を、係長が待っていた。隣で聞いていたのだろう。
「はい。小林の店の家宅捜索を行わせてください。必ず証拠をつかんで見せます。今回は自信があるので」
はーと大きく息を吐いた係長は、僕の目を見つめた。真意を探っているように見える。
「わかった。小林本人の立ち会いでいいな」
「はい。その方が都合がいいので」
「令状が出次第、行ってこい。すぐに出してもらう。本田と高梨も連れていけ。もちろん細井さんもな」
ここ数日で随分萎びた細井さんを気の毒に思ったが、ここは、しょうがない。諦めてついてきてもらおう。
翌朝、令状が出たため、早朝から珈琲工房 洗足を訪れていた。小林へ令状の原則を告知し、捜索に着手した。
「ママ、なんにも出てこないんだけど」
店内をくまなく捜索し終わるころ、本田がぶつぶつと文句を言い始めた。観葉植物の植わっている土まで見たが、怪しいものは何1つ出なかった。小林は、来た時から外をずっと見ている。
「そんなはずはないんですよ。どこかにあるはずなんです」
とはいえ、何も出ない。おかしい。毒物の痕跡1つないなんて。
「お前の早とちりだったんじゃないの?」
はんっと鼻で笑われ、ほんの少し、焦りが滲んだ。
「気が済みましたか?私の店には何もありませんよ」
ずっと外を見ていた小林は、静かに笑った。なんでこんなに余裕があるのだろう。この人が犯人であるのは、間違いないことなのに。何か見落としているのだろうか。
「何を見ているんですか」
今更ながら小林が何を見ているのか気になり、同じ窓から外を見た。そこからは、洗足池の畔が見えた。それに、植わっている桜の木も。その近くを、親子連れが楽しそうに歩いている。
「もしかしたら、もう見れないのかも、と思いまして。目に焼き付けているんですよ」
視線を動かした先にあるのは、イチイの木。桜の隣に、ひっそりと植わっている。
「犯人じゃないと主張しながら、随分と矛盾したことを言うんですね」
「まぁ、誤認逮捕っていうのは、よくあるそうじゃないですか」
ふっと笑った小林は、イチイの木を見ている。桜に比べたら存在感の薄い木だ。……イチイの木?どうして僕はこの木を見逃してしまったのだろう。
「……ああ。そういうことでしたか。僕は、見るべきところをまたもや間違えてしまいました。答えは目の前にありましたね。……最初にここに伺ったときから」
「おや、気づいてしまったんですか」
ゆっくり僕の顔を見た小林は、どこか寂しそうに微笑んだ。
「ええ。答えは店の外にありました。細井さん、あのイチイの木を採取してください」
「イチイの木か……。わかった。そういうことか。今回は正解にたどり着くのに、随分遠回りをしたな、ママさん」
充血した目を擦りながら、細井さんは外へと出て行った。葉を数枚採取し、証拠袋へとしまっていく細井さんを、小林と二人で窓から眺めた。
「え。ちょっと待ってよ。なんであの木が当たりだってわかるんだよ」
本田が指をさして騒いだ。
「あの木には、毒があるんです。アルカロイド系の。遺伝子配列も1本ずつ違います。クローンでなければね。比較検査してもらえば、すぐに結果がでますよ」
「は……?」
何を言ってるんだ?と言いたげに、僕の顔を見ている。
「昔、中毒で亡くなった人もいましたね。今の今まで、すっかり忘れていました。最初にここを訪れたときに、気づくべきでした。視界にはしっかりと入っていたのに」
桜の隣にひっそりと植わっているのを、確かに認識したのに、植生の一部と捉えてしまった。
「……刑事さん、アイツはね。僕の店を潰したんですよ」
小林が、外を見ながら静かにしゃべり始めた。その口調は平坦で、まるで他人事のようだった。
「あぁ。星1で潰れた店は、やはり貴方のお店でしたか」
頷いた小林の横顔からは、なんの感情も読み取れない。
「ええ。店が潰れても諦めきれずに、このお店のオーナーに雇ってもらって、雇われ店長をしてきました。私の入れる珈琲は、昔と何1つ変わっていませんよ。そんな中、ある日、アイツはやってきました」
小林のぼんやりとした瞳に、強い光が浮かんだ。
「アイツは私の入れる珈琲をうまいと言って飲んだんですよ。昔星1を付けて自分が潰した店の店主が入れた、同じ味の珈琲をね。それだけじゃない。うまいと言ったんです。私のスペシャリテしか飲まないなどと宣って。許せなかったんですよね、私」
ふっと笑った小林は、何も抵抗することなく、そのまま自供を続けた。毒物は、あのイチイの木の葉を細かく砕いたもので、ドリップバッグを製造する際に、混ぜ入れて封をした。匂いと味にさえ気づけば、死ぬこともなかっただろうと、自嘲気味に小林は笑った。コーヒーの香しい匂いに満ちた。この場所で。
「この度は、大変申し訳ございませんでした」
白川には、丁寧に謝罪した。あの時は、間違いなく犯人だと思っていたとはいえ、謝って引っ張ってきてしまったのは、僕の誤りだ。
「ええ。大丈夫、とは言えませんけど。真犯人が逮捕されたそうなので、それでいいです」
疲れたように微笑んだ白川に、再度、深く頭を下げた。
「有馬さんでしたよね。もし警察の仕事が嫌になったら、いつでもうちの事務所をお尋ねください。貴方なら、いつでも歓迎いたします。これ、私の名刺です。では」
白川の名刺を受け取ると、颯爽と立ち去った彼女の後ろ姿を黙って見送った。
「え?なにそれ」
それを見ていた本田が、首を伸ばして名刺を覗き込む。そこには、こう書かれていた。
「隠していてもプロの目は誤魔化せませんよ」と。
その後、高梨に八つ当たりしている本田がいつまでもうるさく、とても仕事にならなかった。
***
数日後、福さんと森本刑事が、戻ってきた。
「本田。お前、俺たちが留守の間に、ずいぶんと係長を困らせたらしいじゃねぇか」
「えっ?なんで知ってるんですか?」
びくりと肩を震わせた本田が、ゆっくりと振り返って福さんを見つめた。
「電話があったんだよ、係長から。お前が命令を聞かずに暴走してるってな」
チラリと係長を見ると、プイと横を向いた。あの時か。どこぞへ行って、戻ってきたときにはご機嫌だった、あの時。まさか福さんに電話していたとは思わなかった。
「いや、でも、ママもかなり自由にしてて」
しどろもどろでじりじりと後退した本田は、後ろに立っていた森本刑事にドンッとぶつかった。ガタイのいい森本刑事は、その程度のことではびくともしない。
「今はお前の話をしてんだよ。話をすり替えるな。それにな、あいつは係長の言うことは聞く。以上だ」
腕組みした二人に挟まれ、本田はダラダラと汗を流している。
「お前はどうだ?ん?係長に言われても暴走して、高梨に止められても暴走して?ん?どこがママと同じなんだ?え?言ってみろ本田」
口をパクパクとしながら、高梨に助けを求めた本田は、高梨からもスッと視線をそらされた。
「高梨!?僕を見捨てるの?」
「今はおとなしく反省しろ、本田」
「そうだな、余計なことしないで反省しろ」
福&森本コンビからボコボコに精神的に殴られた本田は、その後数日は、借りてきた猫のようにとても静かだった。
***
「なぁ、倉木。高遠の事件の報告書と調書、お前、読んだか」
西池上署から例の事件の書類が上がって来ていたのを、興味本位で目を通し、気になる人間を見つけてしまった。
「ええ。読みましたよ。何か気になる点でもございましたか」
本庁のとある会議室。二人の男がいた。
「まぁな。この有馬ってやつがちょっと気になった」
西池上署の中で万年最下位の検挙率のこの男、今までなぜ指導も受けずに見逃されてきたのか。所轄はなぜ野放しにしているのか。
「あぁ。それは私も気になりましたね。でもそこまで気にするほどのことではないような気がしたしますが」
丁寧な方が、倉木玲一郎。白髪で眼鏡の55歳。端正な顔立ちに高身長で物腰が柔らかく、人気が高い。白髭を蓄え、常に丁寧だ。
「馬鹿言え。俺の担当エリアじゃねぇか」
乱暴な方が、不破恭一郎。グレイヘアを整えた55歳の倉木の同期だ。ワイルドな顔立ちの大柄な高身長。こちらも倉木に劣らない人気がある。グレイの髭を綺麗に整え、常に洒落っ気がある。本庁で一番人気を常に争う二人だ。
「あぁ、そういえばそうでしたね」
口元を緩ませて笑う倉木に対し、こちらは笑ってもいられない。
「笑うな。俺が出向く」
「貴方がですか」
「そんなに意外か」
「まぁ、少々そうですね」
驚く様子の倉木に対し、俺は内心怒っている。俺の行く道の足を引っ張る無様な兵隊はいらない。
「ちっ。お前、ムカつくな」
「まぁ、いつものことでしょう」
お互いふっと笑ったが、このまま見逃すことはできない。機会をみて、その根性を叩きなおしてやる。有馬か……。覚えたぞ。
To be continued.




