小さなお菓子屋さん
日本海の荒波が打ち寄せる、いわゆる「陸の孤島」にあるそのお菓子屋さんは、かつては地元密着の小さなお店に過ぎませんでした。
しかし、看板商品がふとしたきっかけで全国区の人気となり、今では工場を併設した本社として、それなりの忙しさを見せています。
「それなりの組織」にはなりましたが、中身は家族経営の延長線上です。社長の末の妹であるミヨコさんと、その幼馴染のミチコさんが事務所の空気を支配していました。
私――この物語の語り手――は、これまで「仕事の一環」として、ミヨコさんのフォローを続けてきました。社長夫人のマキさんがミヨコさんに渡すメモの指示を、さりげなく横から確認し、彼女が忘れていること、落としていることを先回りして片付ける。それが私の日常でした。
けれど、あの日を境に、私はその「無償の奉仕」をやめることに決めたのです。
「ミヨコさん、価格表の数字が間違っているわよ」
被害が出る前にと思って指摘した私に、ミヨコさんは泣き出しそうな声で叫びました。
「私のせいじゃない! いつもそうやって、私を攻撃するんだから!」
……攻撃? 明らかな間違いを指摘することが?
彼女の涙に同情する周囲の視線を感じながら、私は冷めた頭で思いました。
ああ、もういいわ。この役割は、今日で返上させてもらう。
私は法事用の引き出物を包装するため、準備を整えて戻ってきました。そういった仕事のための、共有の作業台はミヨコさんとミチコさんの私物で埋め尽くされています。注意すればまた「言いがかりだ」と泣かれるのは目に見えています。
仕方なく自分の机を片付け、引き出物と、包装紙を台車に乗せて戻ってくると、今度は私のデスクに試作品の菓子が山積みにされていました。
「邪魔よ。片付けて」
「えー? 今、急ぎなんだから。ちょっとくらいいいじゃない」
悪びれる様子もないミヨコさんに、私は静かに、しかし断固として言いました。
「なんのために自分の机があるの? 返して」
渋々スペースを空けさせた私は、初めて周囲に指示を出しました。
「手が空いている人、手伝って」
少しはお仕事しなさいよ。
そして、今日、マキさんは社長との古希旅行を控え、浮足立った様子でミヨコさんに一枚のメモを渡しました。きちんと説明もしているようです。
「これ、大事な件だからお願いね」
以前、私が「メモを失くさないで」と口酸っぱく言ったせいで、この事務所のメモは小さなメモ用紙から大きなコピー用紙へと変わっています。ミヨコさんはその大きな紙を、机の引き出しに仕舞い込みます。
私はそれを見ていましたが、何も言いませんでした。
そして翌日、私は「足をくじいた」と連絡を入れ、一週間の休暇を取りました。この年齢で無理をすれば冬に響きます。
一週間後、私が出社すると、事務所はまるでお通夜のような空気でした。
北関東にある、長年お世話になっている百貨店の催事。
全国区になる前からうちを贔屓にしてくれていた大切な取引先のイベントに、あろうことか、商品が一点も届かなかったというのです。
前日に百貨店から確認の電話があった際、電話を受けたスタッフはミヨコさんに「明日ですよ」と伝えていました。けれど、ミヨコさんは「明日出せば間に合う」と自分に都合よく解釈し、そのまま忘却の彼方へ追いやったのでした。
旅行から戻ったばかりのマキさんは、百貨店の社長からの直電でその事実を知りました。大々的にチラシに載せてもらっているのに……言い訳のしようもありません。
「本当に、申し訳ありません……!」
マキさんは、すぐに謝罪に向かいました。新幹線も飛行場も遠い、この陸の孤島から、北関東まで。
「私のせいじゃないよ。メモがどこかに行ったんだから」
この声を背中に聞きながら、マキさんは出かけていきました。
私は自分の席に座り、パソコンを立ち上げました。
もう、誰も私を非難するような目では見ていません。ただ、淀んだ空気の中で、私のキーボードを叩く音だけが、規則正しく響いていました。
◇◆◇◆◇
主人との古希旅行から戻った私を待っていたのは、これまで積み上げてきた信頼が崩れ落ちる音でした。
うちのような、地方の小さなお菓子屋さんが全国区になれたのは、偏に、まだ無名だった頃から目をかけてくださった北関東のデパートの社長さんのような方々のおかげです 。
それなのに、チラシにまで大きく載せていただいた催事の発送を忘れるなんて。経営に携わる者として、そして社長の妻として、血の気が引く思いでした。
私が旅行に出る前、ミヨコさんには確かにメモを渡して説明しました 。
うちは、なくさない様に、コピー用紙にメモを書いています。
いつの頃から、こうするようになりました。小さな菓子店だけど業務改革をしたと自負しています。
それをなくしたと言い訳をする義妹に失望しました。ほんと、これ何回目の失望だろう。
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