沈黙の意味
その朝、雌鹿は、自分の反応が遅いことを分かっていた。
冬毛が重く、体が思うように前に出ない。草の匂いも、遠くの音も、いつもより遅れて届く。
具合が悪いわけではない。
ただ、判断する力が、群れの奥に沈んでいた。
木立の向こうから、雄鹿が声をかけた。
今日は谷を越えるか、と。
それは気遣いだった。
分かっていた。だが、首を上げるまで、足を動かすまで、その一つひとつが今日は遠い。
雌鹿は黙ったまま、地面の霜を見ていた。
考えていなかったわけではない。ただ、合図にする力がなかった。
雄鹿は、それ以上、鳴かなかった。
昼を過ぎて、雌鹿は知る。
自分が何も示さなかったから、今日は移動しないと、雄鹿が決めたことを。
怒りはなかった。
代わりに、群れを止めた自分への申し訳なさが先に立った。
――ちゃんと合図を出せなかった私が悪い。
そう思えば、群れは乱れない。雌鹿は、ずっとそうやって耐えてきた。
だが、その日は違った。
胸の奥に、置き去りにされた感覚が残った。
私の沈黙は、拒みだったのか。
それとも、ただ冬をやり過ごすための、停止だったのか。
もし逆だったら。
雄鹿が黙り、動かなかったら。
私はそれを、拒絶だと思うだろうか。
たぶん、違う。
ただ、寄り添って待つ。
そのとき、雌鹿は気づいた。
私は「合図を出さなかったこと」を悔いているのではない。
「合図を出せない状態が、想定されていなかったこと」に、傷ついていたのだ。
―――
雄鹿の側では、別の思考が流れていた。
雌鹿の動きが鈍いことには、朝から気づいていた。
だからこそ、無理に群れを動かすべきではないと思った。
谷越えの提案も、深い意味はない。
外に出たほうが、風向きが変わるかもしれない。それだけだ。
反応がなかったとき、雄鹿は迷った。
もう一度鳴くか。
それとも、引くか。
雄鹿は引いた。
沈黙を尊重したつもりだった。
それ以上踏み込むのは、相手の領域に入る気がした。
だから決めた。
今日は動かない。
沈黙の向こうで、雌鹿が合図を探す力すら失っていたことを、雄鹿は知らなかった。
―――
夕方、体が少し戻ったとき、雌鹿は短く首を振った。
今日は、合図が出せなかっただけだ、と。
動きたくなかったわけではない、と。
次に判断するときは、一度だけ、確かめてほしい、と。
雄鹿はすぐには鳴かなかった。
だが、否定もしなかった。
それで十分だった。
沈黙は、拒みでも承諾でもない。
群れの中で、確認を待つ状態だ。
派手な変化はない。
ただ、沈黙の意味が、群れの中で少し更新された。
それだけで、森の空気は、わずかに通りやすくなった。




