道化は臆病を愛するか
「んじゃ、片付けよろしく~」
部員たちは、瞬を残してテニスコートを去った。
春休み中の部活はコーチが不在のことが多いため、基本的に生徒たちが自由に行なっていた。メニューや練習時間も、部長を中心に緩く設定されている。
そんな中、終盤の練習試合で、その日の片付け係を決めるのが恒例となっていた。
試合で負けた瞬は、今日も一人で三面ものコートを整備しなくてはならない。遠くから聞こえる「ファミレスに寄ろう」なんて言葉と、沈みかけている夕日が追い打ちをかける。
瞬はため息を吐き、慣れた様子で散乱したボールを拾い集めた。
「楽しそうなことをしていますねぇ。私も混ぜてください」
今日も奴はやってきた。
フェンスの向こう側に、腕を組んで立つ男の姿を見つける。黒い長髪を高い位置で一つにくくり、切れ長の目が自信気にこちらを貫いている。
初対面では思わず女を疑ってしまったほどの美人だが、かろうじて低い声色が、奴を男と判別した。
「また来たのか?」
「はぁい! 今日も私とプレイしましょう!」
奴は数日前、一人でコート整備に励む瞬のもとへやってきた。名前も学年も知らない。けれど、特徴的な言動や容貌が瞬の頭に印象を刻んだ。何せ奴は初対面で、語調を弾ませ笑いながら、瞬を「下手くそ」と罵ったのだ。
腹を立てた瞬は試合の申し出を受け入れた。しかし、結果は惨敗。
奴は天才だ。
瞬の得意を封じ込めるように、コートの前後左右に振り回し、体力消耗を見込んだ後、駄目押しと言わんばかりにスマッシュを放って、圧倒的な実力差を見せつけた。
「さぁ、今日も私を“大嫌いな奴”と思ってぼこぼこにしてください」
両手を大きく開いた奴は、陽気に言う。いつも同じ笑顔、同じ声色、同じテンション。出会って数日経つが、人間らしいところが少しも滲んでこない。まるで道化師だ。
瞬は拾い集めたボールが入った籠を、コートの隅に置いた。立てかけておいたラケットを握ると、しみ込んだ汗が冷たくなっている。
「おや、すっかり素直になりましたねぇ」
「相手するまで帰らないだろ」
「んふふ。私がわかってきました?」
「わかりたくもないけどな」
文句を垂れながらコートに足を踏み入れ、右側の後方に立つ。その対角線上に奴はいる。腰を下げ、隙のない構えをとった。
奴のテニス歴は一、二年らしい。対して瞬は中学の三年間、そして高校での一年間の、合わせて四年。今年で五年目に入る。
歴では負けていないのに、一向に勝てる気配がない。道化の笑みにはきっと、瞬が自分には勝てないという確証が含まれている。
奴のサーブで試合が始まった。瞬は奴の足元にレシーブを返し、自分は後ろに下がった。すると、見計らっていたかのように回転のきいたボールが、コートの前方へ放たれる。オプション付きのボールは控えめにバウンドし、曲折した。
瞬はなんとか前進して、コートの表面を削るようにして玉を掬いあげると、相手のコートへ返却する。
けれど、落とした先はすでに奴の領域だ。
奴はその場から大して動く必要もなく腕を引くと、狙い通り前方に誘い出された瞬をあざ笑うかのように、高いボールをあげた。
ボールは綺麗な弧を描き、瞬の頭上を過ぎ去ると、コートのアウトラインすれすれに落ちて転がった。
息を乱す瞬に対し、奴は汗ひとつかいていない。
その後も試合は続くが、遊ばれるばかりで、結局一点も取れずに敗れた。
瞬がベンチに腰を掛けると、その横に奴も座った。奴が自販機で買ってきたらしいペットボトルの水を差しだすと、瞬は豪快に飲み干した。
ようやく呼吸が落ち着いてくると、すっかりあたりが暗くなっていることに気付いた。コートを鈍く照らす照明に、蛾が群がって嫌な音を立てている。
「どうでしたか、今日の試合は?」
「どうにもこうにも。到底勝てる気がしないよ、君には」
「そうですかね」
常に自信気な奴の返事を、瞬は意外に感じた。てっきり、笑うか、自慢するかを想定していたのだ。薄気味悪さを感じて、奴の横顔を凝視する。
すっと通った鼻筋が、顔の凹凸を作り出している。のっぺり顔の自分と比較して、少しだけ嫉妬した。
薄い唇が、ゆっくり開かれる。
「瞬くん。君は、才能があるんですよ」
「才能?」
「人を見抜く才能です」
はじめて自分のために使われた「才能」という語に、むず痒さを覚えた。奴からの評価に顔がにやけそうになるのを、ぐっとこらえる。
「君は、人の痛いトコロがわかるんです。ここにボールを出したら苦しいだろうな、とか。ここなら拾われないだろう、とか。見抜く力も、そこを突く実力もあるんですよ。ただ、臆病故に相手の取りやすいところにパスを出すんです」
「臆病……?」
まただ。道化は「下手くそ」と罵ったあの日と同じ目をしている。言葉では蔑んでいるのに、表情がおかしい。笑顔だ。
恐ろしいほど明るく人を嘲る。挑発だろうか。憤怒した瞬を見て楽しんでいるのだろうか。瞬は今にも踊りだしそうだった心に、ピリオドを打たれた気になった。
「どういう意味だよ」
「そう怒らないでください。ただ少し、もったいないと思っただけです。いつも試合に負けて、片付けを押し付けられているじゃないですか」
「それは……押し付けられたって言うか。ルールだし。負けたならしょうがないだろ」
「一日ならそうでしょうが、君は毎回でしょう」
瞬は言葉に詰まった。諭す言い方が、なんとなく責められているように感じる。視線が鋭い。張り付けた笑顔の奥に、嫌悪がある気がする。
「俺は楽しければいいんだよ」
「そう思っている人は、下手くそ、と言われて怒ったりしません」
瞬はついに黙った。人を見抜く才があるのは、奴の方ではないのか。でなければ、こんなに心を抉るようにして苦しいところをいたぶったりしない。遠慮のない物言いなのに、笑顔のせいで真意が読めない。
「怒るのは、君がまだ才を諦めていない証拠です」
隠していた自分だけが次々に暴かれる。道化は本音を見せないというのに。
「――勝つのが、そんなに怖いですか?」
ストレートな言葉に、中学生の頃の記憶がフラッシュバックする。
当時、部内で一番を決める試合が行なわれた。先輩後輩関係なくトーナメント制で行われたもので、瞬は見事一位を勝ち取った。
けれど、「先輩に勝ちを譲らなかった」、という理由で周囲は瞬に悪態をつき、次第に勝利することに恐怖を覚えるようになったのだ。
瞬は思わず立ち上がり、拳を震わせた。
「うるさいな!お前だってそうやってへらへらして逃げてるじゃないか!臆病はお前のほうだろ!?」
奴は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた。沈黙が流れ、感情的になってしまった自分にたちまち後悔が押し寄せる。頼むからいつもの調子で、陽気に笑いとばしてほしい。
もういっそ謝罪をして、楽になってしまおうか。
そう考えた時。奴は俯き加減のまま、口を割った。
「たしかに、そうかもしれませんね」
ぽつり。一粒目の雨のように、静かに降り落ちた。瞬は返答に悩み、立ち尽くす。
「君と私は似ています。だから私は、思わず声をかけてしまったんでしょう」
「似てる……?」
どこか客観的な道化に、オウム返しする。似ているところなんてないだろう。彼は天才で、自分はプライドだけ一人前の凡才だ。共通点なんておこがましくて、探したこともない。
「私、過去にハブられたことがあるんですよ。なんでも器用にこなしますからね。妬まれてしまったんです」
「自分で言うのかよ」
「私は自分が好きですからね。ただ、うじうじ悩んでいる自分は嫌いです。だから仮面を被りました」
道化は笑った。その心傷を隠すように。
「君は力があるのに、それを使おうとしない。きっとそれは、私と同じく何かを恐れているからでしょう?」
「だとしても、お前と似ては……」
「わかっていますよ。私と一緒は嫌でしょう。君のそういうところに惹かれたんですから」
瞬は、訳がわからない様子で押し黙る。道化は続けた。
「君は私が嫌いでしょう? そうやってわかりやすく、直接的に感情をぶつけてくれるのがとっても嬉しかったんです」
奴の人間味を見た。心臓の部分に手を置き、感傷に浸っている。
道化は人間だった。
瞬の頭からはもう、怒りなどすっぽ抜けていた。手が届かないはずだった目の前の人間が、自分と重なる。不条理に傷ついた、いわば同胞に心が共鳴した。
「話を最後まで聞けよ。俺はお前と似てないって言ったけど、嫌いだからじゃない」
「というと?」
「もしお前が俺と同じく臆病なら、その才を隠すだろ。それに、君はわかりづらいけど一つだけ確信したことがある」
瞬は奴の眼前にびしっと指をさして、得意げに白い歯をみせた。
「お前は人が好きなんだよ。だから、関わりたいのに嫌われたくなくて本音を隠すんだ」
奴はきょとん、として動きを止めた。そうして、ぷっと吹き出した。口元に手をやり、背中を丸めて肩を震わせている。強烈なスマッシュを放つとは思えない線の細い身体に、今更ながら気付く。
「全く君の洞察力にはかないませんねぇ」
「その洞察力確かめたいからさぁ。もう一戦しないか?」
「もちろんです! では、私を大嫌いで死ぬほど憎たらしい、親の敵だと思って、ぼっこぼこにしてくださ~い!」
調子を取り戻した彼は、嬉々としてそんなことを言う。瞬は唸った。
「悪いけど、それはできない相談だな」
「おや?何か気に食いませんでした?」
「うん、だってもう俺、お前のこと好きになっちゃったもん」
さらり、というと、奴は時間差で頬を真っ赤にした。風が吹き立ち、彼のポニーテールを揺らす。男は満面の笑みで言った。
「ならステップアップしましょう! 好きな奴を倒す練習です! 遠慮はいりませんよぉ!!」
背を向けてコートネットの向こうへ走り出した奴に、思わず破顔した。
道化が臆病を愛すなら、臆病は仮面を外したその先に愛を手向けたいと思った。