母
私は一度たりとも、自分の思いを 我慢した記憶がなかった。
それは、母の力が大きかったのかも知れない。
「さっきのプレゼン、良かったよ。ご苦労だったね」
課長が、私の肩を叩きながら、そう言った。
「ありがとうございます」
私は席を立ち、課長に頭を下げて、そう応えた。
「また今度、一杯やろう。あまり無理するなよ」
そう言うと、課長は右手を挙げながら立ち去っていった。
私は椅子に座り直し、デスクの上に置かれた資料を手に取った。つい先程終わった、新製薬の発表会の資料だ。この薬には、世界中の人々を救う力がある。私は、そう信じている。
私は、製薬会社の開発部で働いている。様々な植物を調べ、その植物が人体に与える治癒力を研究している。世界中の人々が病気にならず、健康になってほしい。そう思っている。
仕事が終わり、同僚に挨拶をして職場を出た。帰りにスーパーに寄り、お総菜と缶ビールを2本買った。
家に着き、郵便受けを見ると、1通の封筒が入っていた。母からだった。
家に入り、リビングにある椅子に私は腰をかけた。そして、パキラの置かれたテーブルの上に、買い物袋と封筒を置いた。私は、封筒を眺めた。見慣れた文字で、私の名前が大きく丁寧に書かれていた。懐かしい文字だった。
私は、封筒の綴じたの部分を指でちぎって、中身を見た。1枚の手紙が、3つ折りにされて入っていた。私はその手紙を丁寧に開いた。
お元気ですか。
お仕事は、順調ですか。
今度、ブルーベリーの苗木を送ります。
あなた、好きだったでしょう。
体に気を付けてください。
手紙の内容は、淡々としていた。いつもそうだった。
思い返せば、母は、自分の意志をしっかり持っている人だった。強い人だった。幼い頃にそう感じたある出来事を、私は思い出した。
*
私は、小さい頃から植物が好きだった。暇さえあれば母に公園に連れてってもらい、葉っぱや花を見つけては家に持って帰り、よくそれを絵に描いていた。
私が小学生の時、保護者懇談に呼ばれた。母と私の前で、担任の先生が言った。
「お母さん。りょうた君、授業中いつも何かの葉っぱの絵ばかり描いているんですよ。お家の方でも、注意してほしいんです」
すると、母は言った。
「この子は、植物が好きなんです。だから、いつも葉っぱや花の絵を描いているんです。それで良いんです」
「いや、お母さん。授業をしっかり受けずに、絵ばかり描いていては、この子のためになりませんよ。大人になって困るのは、この子なんですから。絵が上手くなってほしいのなら、絵の先生に教わったら良いと思いますよ」
「そうすると、先生と同じ絵になってしまいます。この子には、自由にのびのびと描いてほしいんです。今だって、誰にも教わらずに、こんなに色々と描いているんですから。それで良いんです」
母は、担任の先生にそう返した。私は母の方を向いた。夕日に照らされた横顔は、毅然と前を見つめていた。
*
私の母は、いつもどんなときも、変わらなかった。そして、そんな姿に私はいつも助けられていた。
私は一度たりとも、草花を見たい、触りたい、描きたいといった自分の中からわき出てくる思いを、 我慢した記憶がなかった。
今まで、 一度たりともこの植物好きを、自分自身で恥ずかしいとか、変だと思うことがなかったのは、母の力が大きかったのかも知れない。
私は、母からの手紙を封筒に戻した。そして、テーブルの上に置かれたパキラを見つめた。パキラは葉を青々とさせ、幹をまっすぐ上に、凛々(りり)しく伸ばしていた。
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