選択
「何でも良かった、誰でも良かった、どうでも良かった」という言説は文字通り、どのような選択をしようとも変わりないということを示している。これに疑義を挟む気は1ミリたりともない。実際その通りだと思う。何故ならば、大事なのは納得感、とどのつまりただの気持ちであり、選択肢の良し悪しで決めているのではないからだ。我々に選択をする機会など訪れることは無いに決まっている。選択をした気分になっているだけで、何か意味のあることを行った訳ではない。気持ちが現実に如実に反映されているために、その跡をなぞっているに過ぎないのだ。思いは頭の中だけでなく、もちろん外にも溢れ出ているだろう。富士山麓に鬱蒼と立ち籠める朝霧のように。狭い頭の中だけに住んでいると考えているのは、巣穴にエサを運び入れるアリぐらいなものだ。もはや気持ち以外の誰もがそうではないことをうすぼんやりと分かっている。認識を歪ませるのだ。不可逆的に。よって「選択」は、いわば確認作業であり、何か新しいことをやる助けになる訳でない。
選択に意味があると思えるのは、それを信じている限りのことである。だから毎度毎度繰り返されるように、これは「信仰」の問題なのであり、内容の問題ではない。問題に直面した時に、いつも頓珍漢なことを言っていて、歯車が噛み合っていないように感じられるのはこれが故なのだ。アンパンマンの話をしているのに、いつしかクレヨンの話になっていた。いつ変わったのか定かではないし、どうしてそうなったかも分からないが、とりあえずそうなったのだからそうなのだろう。そう! まさしくこれなのだ。事前に見ようが事後に見ようが変わりはないはず。それなのに何故か変わって見える。なら変わったのは? 事物が変わったのではない。関わり方が変化したのだ。連関の仕方が移ろいゆくのだ。ゆっくりとしかし着実に。なめらかに。これは濃淡の推移を表しているだけなのだ。座標。ベクトル。軌跡。これが結論であると誰が分かろう。
私は選択のうちに組み込まれている。選択が私を規定しているように思えたがもはやそうではない。私は択を呑み込んでしまったのだ。択が私を占有しているとも言える。まるで網に絡みついているアサガオのツタのようだ。キノコの菌糸。だから意味がないのだ。どれを選んだところで同じなのだから。とはいえ無数の選択を非難したいのではない。これは街角の掲示板の端っこに例のごとく提示されているバランスの問題である。