(6)反抗.1
鼻腔にツンと満ちる、仄かな黴の匂い。肌に触れるシーツの、小川のような触り心地。日の光が入る角度と、それによって残される影の配置。順応し、僕の体を包むベッドの沈み込み具合。そして、どれだけの時間見つめ続けたかも分からない、不変の天井。いつもと違うのは、足に残る激烈な筋肉痛の痛みだけ。僕はその痛みに目を覚まして、ベッドから起き上がる。
どうやら僕は振り出しに戻ったようだ。運命は再び僕をこの部屋に閉じ込め、部屋での心中をご希望だ。だが、変わったこともある。昨夜トモエさんの盗みが失敗に終わったことで未来は変わり、約一週間後に再びトモエさんはこの塔に盗みに入ることになった。脱獄は容易なようである。だが問題がある。一週間後の盗みは僕の告げ口がないので難なく成功するのだが、だがしかし、どうやら僕はトモエさんと巡り会えないようなのである。そして、それを期に塔の警備は強化され、僕の部屋の窓は弾丸を通さない鉄板で覆われしまう。そうなったら本当におしまいだ。何としてでも一週間後、トモエさんと巡り会わなければ。その為に、この一週間で部屋を脱出する手段を用意する。もう運命の気まぐれを待つのは嫌だ。僕が動いて運命を乱す。
手始めにドアを開けようと試みた。……開かない。どうやら鍵は昨夜の内に修理されているらしい。仕事の早いことだ。だが、一晩で可能な修理など高が知れている。何度か思い切り体当たりすれば――!
窓の外を眺める。……駄目だった。何度やってもビクともしなかった。どうやら修理屋は相当優秀なようだ。っていうか、そもそも未来視で知ってたし。一応確かめただけだし。それだけだ、それだけ……。――よし、次だ。
ドア以外で脱出できそうな場所は、入って正面と左手側の二つの窓しかない。正面の窓ガラスにはトモエさんの放った弾丸の空けた穴と放射状に広がるひびが刻まれている。流石に窓ガラスまでは修理できなかったようだ。これなら難なく割る事は出来るだろう。だが、窓ガラスを割ったとしても、窓の外には鉄柵があって生身の人間では到底通り抜けることはできない。仮に鉄柵を何とか出来たとしても、地上三階からどう降りるかという問題もある。窓からも現実的じゃないかもしれない。だが、だとすると他にはもう……。どうしよう。本当に脱出できるのか?そもそも不可能な事をしようとしているんじゃないのか?だとすれば、あらゆる努力も無意味な徒労に終わってしまうが、――いやいや、まだ何かある筈だ。
僕は窓ガラスに開いた穴を見詰めた。昨夜、トモエさんの弾丸が開けた穴だ。穴を中心に蜘蛛の巣のようなヒビが広がり、城下町の景色はもう真面に見られない。唯一、穴からのみ世界は鮮明に見える。
僕は穴に人差し指を差し込んでみた。ガラスを抜けた指の先が風に触れる。これが自由の感触なんだなと思う。指を引き抜く時、ガラスのヒビで指の腹を切ってしまった。傷口から溢れる血がまんまるに膨らむ。僕はそれを舐めて、他に部屋にある物を確認しに向かう。
――駄目だ。あれから暫く粘ったが、何にも無い。何も思い付かない。どうにかしたいが、どうすればどうにか出来るのか、皆目見当も付かない。僕は投げ遣りに、自分の身をベッドに投げた。身を捩って仰向けになり、天井を見上げる。この見飽きた景色から脱出するには、脱出するには、脱出するには……。答えはこれっぽっちも出なかった。あぁ、筋肉痛が痛い……。
ふと、その時、コインのことを思い出した。僕は寝転がったまま右手でポケットを弄り、冷たくて固い感触を掴んだ。左手は頭の後ろに回して、コインを目の前に掲げてみる。このコインはトモエさんが最上階の戦闘時に使ったもので、目の前に落ちていたので勿体ないから拾っておいたやつである。正面には兜を被った女性の横顔が描かれている。僕もよく知っている有り触れた銅色の硬貨だ。縁は歯車のように細かいギザギザがあり、傾けると光を反射してチラチラと光る。僕は頭が空っぽになって、コインを傾けると光が移動する現象で暫く遊んだ。
トモエさんの術が僕も使えたらな。そんな馬鹿みたいな考えがぽんと浮かんだ。僕は試しに、トモエさんの真似をしてコインを親指で弾いてみた。全く何も思考してないただの遊びで暇潰しだった。
――その瞬間に未来は変わった。
コインは残像で球体に見えるほど速く縦回転しながら、まっすぐ真上に飛び上がった。コインは天井近くまで高く飛び上がり、最高到達点で僅かに停滞した。その瞬間であった。
「え?」
その瞬間、突然コインが消失すると同時に、その地点にトモエさんが現れたのだ。そして、トモエさんは天井近くの高さから僕の上に落下してきた。
「よーし、やっとどこかに飛べたぞ――。って、あれ?」
僕は悶絶した。
痛みが多少マシになった頃――。
「ごめんね~、リオ~。まさかリオの上に入れ替わるとは思ってもなかったからさぁ~」
トモエさんは未だに当たり前のように僕のベッドに居座り、というか大部分を占拠し、そして手首に手錠を付けたまま、顔の前で両手を合わせて謝る。だが、合掌に隠れた顔はどう見てもニヤついている。
「それは、まぁ、仕方ない事ですから。トモエさんが無事に着地できたのなら、まぁ良かったですよ」
僕はトモエさんに背を向けて蹲っている。腹には未だ痛みの残滓が多分に残り、向け所のない不平を腹の痛みと共に持て余している。
「痛かったでしょ?痛いの痛いの飛んでいけー」
トモエさんは僕の脇腹に手で触れたあと、そう唱えて何かを放り投げるように手を高く上げた。
「何ですか、それ?」
「知らないの?って、そりゃそうか……。私の故郷の文化で、早く痛みが消えますようにって感じのおまじない。私もよく生傷作ってたから、ママによくやってもらってたんだよね~。どう?何だか大丈夫な気がしてこない?」
「……いや、痛いですけど」
「そういうことじゃなくて!気持ちだよ、気・持・ち!」
「そうですか……」
ママ……、この人の母親って、何だか想像ができないな。本当に人の子なのかな、この人って……。なんて、我ながら相当失礼だな。
「――あの、そう言えば身体の方は大丈夫なんですか?昨夜、思い切り吹き飛ばされてましたけど……」
僕はその場で寝返りを打って起き上がり、トモエさんの姿を見上げる。トモエさんは手首の手錠をどこかのコインと入れ替えて外したところで、手錠の代わりに現れたコインを自由になった手で拾うと、僕の言葉にそう言えばと言わんばかりに答えた。
「あぁー、それね~。今もめちゃ痛いよ、この辺とか――。あの馬鹿騎士に柄の先で打たれたトコ。ここチョー痛い……」
トモエさんはそう言って自分の右脇腹を左手で摩る。
「あと背中も何かヒリヒリするんだよ。たぶん擦り傷だと思うんだけど、ちょっと見てくれない?」
そう言うとトモエさんは僕に背を向け、背中側の衣服を捲し上げた。僕は一瞬身構えたが、トモエさんの背中に刻まれた赤黒い傷をこの目で見て、すぐに動揺は消え失せた。
「……はい。擦り傷ですね。皮が所々剥けて、痛そう……」
「やっぱり?何かに触れるたびに痛いんだもん。あの野郎め、次あったら覚えてやがれよ……!」
トモエさんは握り拳を作って顔を顰めさせた。僕は、僕の身体は無傷なのに、背中がヒリヒリと痛む気がして、それがあまりにも辛くて、恐ろしくて、心細くて、僕は居ても立ってもいられずにトモエさんの背中に手を翳した。
「痛いの痛いの飛んでけー……」
僕はさっきトモエさんがしたようにしてみた。
「――でしたっけ?あってますかね……?」
僕はトモエさんの振り返った横顔を見上げる。
「うん。ありがと。お陰で大丈夫な気がしてきた」
そう言うトモエさんの表情は柔らかで、少し弱々しくて、でも頼もしくて、そんな表情をしていた。
「そう…ですか……」
僕はそれがどうしようもなく嬉しくて、顔が解けてしまって、それが何故か小っ恥ずかしくて、俯いて顔を隠して、声色も抑えた。けれど、自分でも分かるほど溢れていて、余計に恥ずかしくなった。
すると突然、トモエさんは僕を抱き寄せてきた。
「もうリオ可愛いすぎる!」
背中側から回された腕に僕の身体は押し付けられ、包まれる。
「な、何なんですか!?急に……?」
こんな未来はさっきまでなかったのに、未来視に反して謎の呪文を唱えたせいだ。恥ずかしさから逃げ出したいものの、トモエさんの怪我の事を考えると大した抵抗ができない。
「こーら、暴れないの……」
いつになく消え入りそうな囁き声が僕の鼓膜にのみ届く。僕はその解けるような声色と、僕を拘束する体温にすっかり懐柔されてしまう。
「一体どうしたんですか?」
「だってリオが可愛すぎるんだもん。いじらしくて独り占めしたくなっちゃった」
「そ、そうですか……」
“可愛い”“いじらしい”と言われるのは未熟者と言われているみたいで心外だが、もう僕に抵抗する気力は残されていない。
「リオって、手は冷たかったのに、体は温かいんだね」
「そりゃ、生きてますので……」
「ふっ……、なにそれ」
「……」
そんなこと言われたって、……何て返せば良かったんだ。
「あ、顔が少し熱くなった」
僕は慌てて顔をトモエさんの身体から引き剥がす。だが、するとトモエさんと目が合ってしまった。トモエさんの瞳に見詰められ、心の奥深くまで見透かされているような気がして、でも吸い寄せられているかのように目を逸らす事ができない。
「何その顔?ふふっ……、可愛い」
「放してください!」
僕は耐えられずに到頭音を上げた。少し乱暴に抜け出そうと藻掻き、何とか解放してもらう。
「あーあ。もっとぎゅーしてたかったけど、もう限界っぽいね」
僕はトモエさんを睨み付ける。トモエさんは憎ったらしく嫌らしい顔で僕を上から見下ろした。
「お姉さんにドキドキしちゃったんだもんね~?」
「してないですよ!違います!」
「あっはははは!そっかそっか。そうだよね~。違うもんね~」
トモエさんは馬鹿笑いしながら僕の頭をぽんぽんと二度撫でた。この野郎め、僕の身体が小さくて非力なのをいい事に好き勝手しやがって……!この人は心底素晴らしい性格をしてやがる。
「あー、腹痛い……。もうリオ可愛すぎる。もっと虐めたくなっちゃうよ」
僕は噛み付くように再度睨み付ける。
「分かった分かった。もう勘弁したげるから。もうしない」
どうにも怪しい顔をしているが、まぁいいか。僕は溜め息を吐く。
「リオ」
「なんですか?」
「もう絶対誘拐するからね」
「……はい」
この人は本当に僕の心を翻弄する。僕は再び俯き、顔を隠す。
「――ていうかリオ、何で私のコイン持ってるの?私あげたっけ?」
「いえ、昨日の最上階での戦闘の時に、目の前に落ちていたので拾ったんです。なんとなく」
「なるほどねー。お陰で脱獄直行で盗み&誘拐コースだよ!でかしたぞ~!リオ~!」
トモエさんはご機嫌で僕の頭を撫でる。本当に調子の良い人だ。
「そう言えば、僕、気になる事が一つあるんですけど――」
「ん?なに?」
「僕、あのコインをずっとポケットに仕舞ってあったんです。昨夜からずっと。つまりですよ、昨夜から今朝までの長い時間がある訳で、その間に入れ替われる機会もそれだけあった筈なんです。その長い長い時間の中で、なぜ選りにも選ってコインを高く弾いた瞬間、示し合わせたかのように入れ替わられたのか、僕は甚だ疑問でして、――如何ですか?」
「……リオ、根に持ってる?」
「いえ別に」
「……」
「……」
「――まぁいいや。それで、タイミングの理由だっけ?」
「はい」
「それね、実は私もよく分かってないんだけど、置換させる対象の大きさによって、ある程度周囲に空間がないと発動しないみたいなんだよね~」
トモエさんはふんわりとした説明を続ける。
「だから私、牢獄の中でずっと現場に落ちているコインと置換できないかやってたんだけど、他のコインは回収されちゃってるのか全然出来なくてね〜。そしたら偶々リオがコインを投げた瞬間に条件が揃っちゃった、ってことだと思うんだけど……。だから、別に狙った訳じゃないからね?」
トモエさんは強調してそう言った。初めと思えば反省しているようだから、まぁいいか。
「成る程。分かりました。納得しましょう」
「ホントに納得してる……?――まぁでも、思えばリオがコインを投げてくれたお陰で私はここに居れるわけだし、リオの犠牲も無駄じゃなかったってことだよ」
トモエさんは笑いながら僕の肩を何度も叩く。実に調子の良いことで虫唾が走るが、結果的にその通りなのでぐうの音も出ない。この人が現れたことで、視える未来も再びあらゆる可能性をはらんだものになっている。偶然によって最悪は回避できたということか。
――いや、待てよ……。この人と関わる事で未来が変わる理由が今、解ったかもしれない。
昨夜は僕が気まぐれに窓の外を見ていた事で未来が変わったが、もし泥棒がトモエさんじゃなければ、撃ち殺されていた可能性はあるが鉄柵を越える事は不可能で、僕が部屋を出る未来は有り得なかった。今も同じだ。偶然に僕がコインを飛ばした事で入れ替わりが可能になり、それによってトモエさんが目の前に現れ、僕の未来も変質している。つまり、それだけでは取るに足らない僕の運命との些細なズレが、トモエさんの奇妙な術によって本来では有り得ない規模感のズレを引き起こすことを可能にし、結果として僕の未来も変わる。
ーー見付けた。この人こそが僕の運命を変える鍵なんだ。
「それじゃあ早速、虛空の欠片を戴きに行こ~う!」
トモエさんは異様に上機嫌に片腕を突き上げた。
「まったく……」
僕は半分呆れて一人そう呟いた。
ーーその瞬間である。扉の向こうから金属音が聞こえる。丁度、鍵穴に鍵を差し込む籠もったような音だ。
「……来た」
僕は一瞬扉の方を見てから、トモエさんの方を見る。トモエさんの顔には危機感と共に、悪戯がバレないかヒリついている子供のようにニヤついている。
「やばい……!誰か来ちゃったよ……!どうしようか……?」
トモエさんは小声で実に楽しそうに僕に問い掛けた。
「何処かと入れ替われないんですか……?」
僕は呆れていた。こんな危機的状況を楽しめてしまうトモエさんの強心臓に。その感じがあまりにも態度に出てしまっていたのだろう。
「えぇー、リオつまんなーい」
トモエさんはとんでもないことを言い始める。これは、僕の視た未来には無い展開だ。当初の未来では、トモエさんは自ら入れ替わりで部屋から退場していたのに、僕の態度一つで今後の展開が変わってしまうなんて、この人はどれだけ気分屋なんだ。兎に角、僕は新たに変わった未来から逃れようと、筋肉痛で重い足をベッドから下ろそうとしたが、どうやら時既に遅しのようだ。僕はトモエさんによってベッドに引き摺り込まれた。




