(3)誘拐.2
「何だ!今の銃声は!?」
「塔の上の方から聞こえたぞ!」
風穴が空いた窓から、地上の警備兵たちの当惑の声が聞こえてくる。その勇ましい喧騒を小耳に、部屋の中はまるで無関係かのように穏やかな空気が漂っていた。
「大丈夫?ボクちゃん」
泥棒は僕に向かって微笑んだ。さっきまでの恐ろしさが嘘のように、優しくて柔らかで、上機嫌で少し幼さが滲む、そんな微笑みで、そよ風のように僕に近付いて来る。
「驚かせちゃってごめんね」
その声は柔和で余裕げ、耳触りが良く、でもどこが粘り気のある声が僕の鼓膜をくすぐる。
「あ…あ……」
彼女は言葉を失っていた僕に手を差し伸べた。僕は、女神が現れたのだと思った。女神が、こんなにも不遇な僕に救済を与えに来てくれたのだと思った。僕は震えを忘れ、彼女が差し出してくれた手に引き寄せられるように手を伸ばした。
でも、それは女神ではなかった。
「ーーキミがあまりにも可愛い反応するから、お姉さんちょっと意地悪しちゃった」
その言葉に僕の手は止まった。僕は彼女の表情を再び見上げた。そこに優しく微笑む女神はいなかった。それは人を揶揄って楽しむ人間特有の、瞳の奥を見透かすような、挑発的で蠱惑的な微笑みだった。その瞬間に僕の幻は瓦解した。
「怖かったよね?ごめんね」
奴の声色に反省の色は微塵も見えない。悪びれる様子もない。それどころか、表情や仕草や声の節々から、僕を脅かして心底楽しんでいる事が伝わってきた。その為だけに僕に向けて弾丸を放ったのだと伝わってきた。
「いえ……」
僕は奴の差し出した手を握らなかった。そうだ、コイツは泥棒で、怯える僕を見て楽しんで、笑顔で弾丸を飛ばしてくるイカれ野郎だ。救いの女神などでは断じてない。混乱して、おかしな妄想をしていたんだ僕は。希望に変わって湧いてきた嫌悪感が一人で立ち上がる力を僕にくれた。
「あれ?大丈夫なの?」
「はいーー」
僕は立ち上がろうと床に手を突いた。奴に見下ろされている事が屈辱で耐えられなかった。
ーーその時だった。
突如として、何の前触れもなく、激しい痛みが僕の頭を襲い掛かった。脳に直接釘を打たれるような、立っていられない程の痛みが僕を飲み込み咀嚼する。僕は為す術なく倒れ込み、頭を抱えて地べたに蹲った。
僕はその痛みに憶えがあった。それは初めて未来が視えるようになる直前、その時も同じように脳に耐え難い痛みが走り、それが過ぎてから、未来がじんわりと、次第に鮮明に視えるようになったのだ。
「ボクちゃん?どうしたの?大丈夫?」
痛みが脳内を砂嵐のように飛び交う中、泥棒の声が微かに聞こえたが、そんなものに構っている場合ではなかった。僕は歯を食い縛り、全身に目一杯の力を込め痛みが過ぎ去るのを待った。
暫くしてやっと痛みが過ぎ去ると、僕は今まで視えた事のない状況を視た。一瞬一瞬が過ぎる毎に視える運命の姿が次々と変わっていくのだ。運命が多少ズレる事はそれなりにあっても、こんなにも夥しく変わり続けるのは今まで経験した事がない。
未知の状況に唖然としている僕の視界に、奴の顔が入り込む。それも、視界がいっぱいになる程近くに。奴は蹲る僕の顔を暢気な顔で覗き込んでいた。
「突然どうしたの?……もしかして、お姉さんが驚かせちゃったのが悪かったりする?」
奴はやっと僅かに反省の色を見せた。
「……いえ、関係ないです」
僕はそれだけ言って避けるように立ち上がった。正直、こんな奴と会話をしている場合ではない。急な頭痛に疲労が溜まっているし、それに何より問題なのが、僕の未来視が異常を来している事である。今までこんな事は一度もなかった。運命は僕が息絶えるその日まで一本道の明確な筋書きがあって、それが僅かに揺らぐ事はあっても変わる事など決してなかった。それなのに今は、絶えず変わり続けて喫緊の未来しか視えない。僕の未来視は一体どうしてしまったんだ。それで言うと、そもそもあの泥棒と出会う運命すらももとは存在しなかったのだ。それ以前に異常の原因があるのか?いや、それなら寧ろ、奴と出会った事で異常が始まったと解釈する事も出来るのではないか?
その時、僕の脳裏をある思考が掠めた。この泥棒には、運命を覆す“何か”があるのではないか、と。僕は奴に気取られないように、密かに奴の姿を捉えた。
思えばかなり変わった格好をしている。海兵のような白と紺の服に、胸には赤いリボン、見た事のないくらい短い紺のスカートの下に、膝上丈の赤いズボンを穿いて、腰には薄紫の上着と思われる物を袖を結んで巻いている。初めて見る黒い髪は背中に掛かる程度の奇妙な髪型をし、この近辺では見ない子供っぽい顔付き、どう見てもこの国の人間ではない。異国からやって来た奴なのか?
そんな事を考えていると、ふと奴と目が合ってしまって、僕は慌てて視線を逸らした。妙な恥ずかしさが湧いてきて何気ないフリをした。しかし、奴は例の嫌らしい笑顔で僕の視界に押し入る。
「なにぃ?さっきからジロジロ見てーー」
「……見てないです」
僕は咄嗟に嘘を吐いてしまって、罪悪感から再び目を逸らす。それなのに、奴の視線を寧ろより強く感じる。
「ーーふーん。ホントかなぁ?」
「……はい」
出来る限り平然を装ったが無意味な気がしてならなかった。
その時だった。脳内で当分の未来がやっと明確な像を成した。これは、全く以て碌でもない未来だ。
「ねぇ、ボクちゃんーー?」
奴が話を切り出す。その内容が碌でもないのだ。
「お姉さんね、この塔の最上階にある“虛空の欠片”ってのが欲しいんだよね。だから、そこまでお姉さんを案内してくれないかな?あとで甘いのあげるから、ね?」
奴はそう提案した。ピストルを人差し指でくるくると回しながら。
「……部屋を出て、階段を上がればすぐですよ」
僕は非力ながら抗ってみた。が、運命は変わらない。
「知ってるなら案内できるよね。ねっ、お願い!」
お願いと言いつつ、奴の表情には断られる事など有り得ないと言わんばかりの燦然たる自信と余裕があった。
「ーー分かりましたよ」
もういい。どうせ案内する事になるのだ。意地を張ったって無駄なだけだ。
「やったね!ボクちゃんありがとう」
奴は満面の笑みで、僕の頭を褒美でも与えるかのように乱雑に撫でてきた。不快だ。
「それじゃあ早く行こう!お姉さんね、兵隊さんに捕まったらめちゃめちゃに怒られちゃうんだよね〜」
そんな事、わざわざ説明頂かなくても分かっている。
「私の名前は芹沢巴。巴でいいよ。ボクちゃんのお名前は?」
奴は自己紹介と共に手を差し出してきた。この手を握るのは癪だが、もしかしたら運命が変わった原因が分かるかもしれない。僕は奴の手を軽く掴んだ。
「リオネット・リンネ……」
「じゃあリオね。よろしく、リオ!」
奴は混じり気なくそう言って、僕の手を強く握り返してきた。まったく、勘弁してほしい……。
こうして僕は、このイカれた泥棒と不本意ながら運命を共にする事になったのであった。




