(13)窓から眺めていた世界.3
誤解がないように、決して誤解がないようにしていただきたい。前に運命は強い意志によって打ち破れる的な事を言った気がするが、それは決して絶対ではない。どれほど強い意志を持ってしても、日が沈むのを拒むことなど出来ないように、意思だけではどうにもできない事がこの世には確かに存在する。そう、だからこれは、決して僕が強い意志を貫けなかった結果ではない。まして、望んだ事などでは決してない。もう一度だけ言っておく。これは僕が望んだ未来などではなく、変えることが不可能な類いの絶対の運命だったのだ。だから僕は悪くない。僕はこんな状況を望んだ訳じゃないんだ。
遡る事、五分くらい前。僕らは大浴場の前に立っていた――。
「大丈夫なんですか?僕ら逃亡犯ですけど……」
僕は大空を登る太陽から逃げ隠れるように、トモエさんの陰に隠れていた。
「コソコソしてる方が怪しまれるよ。堂々としてればいいんだよ」
一方のトモエさんは太陽にも増して燦然と立ち聳えている。
「頭の固い大人たちは、まさか私たちが大浴場にいるなんて思いもしないでしょ?」
「それは、そうかもしれませんけど……」
確かに捕まる未来は一切視えないけど、でも、そういう問題じゃない。そういう問題じゃないんだ。
「じゃあ行くよ」
トモエさんは僕を見下ろしてそう言った。何とかならないものかと思うものの、その手立ても言葉も何も出てこなかった。
「はい……」
大浴場。その歴史は実に二〇〇年に及び、古くから帝都デッパリアの人々の疲れと汚れを落としてきた由緒ある公共施設である。全面石造りで太い柱が特徴的な建物であり、各所に彫刻も飾られている。三角屋根の奥からは太い湯気が立ち上り、真っ昼間だというのに出入りする人に絶え間はない。
荘厳な入り口を通り抜けると、そこには大きな広間が広がっていた。正面には受付、その奥には長椅子が並べられた休憩スペースや飲食スペース、入浴に必要な物を販売している売店などがあり、湯上がりと思しき多くの人々が寛いでいる。確かにこんな場所に逃亡犯が訪れるなど夢にも思わないだろう。そうこう観察している内にトモエさんは受付を済まし、僕らは手形を渡されて場内に入った。
「この手形がないと、色んなサービスが受けられないし、ここから出ることも出来なくなっちゃうから、ちゃんと大事に持ってるんだよ」
「分かりました」
まぁ、それくらいは聞かなくたって僕にも分かる。
「あの、それより、昨日から気になっていたんですけど、そのお金はどこから稼いだお金なんですか?」
「え?あー、貴族様の家の金庫から盗んだヤツだよ」
トモエさんは悪びれる様子もなくそう言った。盗む……、僕たちは勿論納税をしている訳でもないし、この大浴場を利用することに急に罪悪感が湧いてきた。
「そうですか……」
「そうだよ。でももうリオも同罪だからね。――あっ、向こうにアメニティーあるよ。買いに行こ」
「あめにてぃー?――何ですか、それ?」
僕はもう、綺麗な人間ではないのかもしれない。
更衣室前――。
僕はそそくさと男子更衣室に向かう。
「リオ、どこ行ってんの?」
だが、すぐにトモエさんに見付かる。
「どこって、男子更衣室ですよ。僕は男ですから……」
「なに言ってんの?リオみたな子供を一人で行かせられる訳ないでしょ?リオはこっち――」
トモエさんは至って平然に女子更衣室を指差す。
「僕はもう九歳ですよ?」
「まだ九歳だよ。ほら、そこの張り紙にも書いてあるでしょ?子供は保護者同伴って」
「でも……」
「いいから。リオ一人だと心配だもん。一緒に行くよ」
手首を掴まれ、引き摺り込まれる。僕は踏ん張って最後の悪足掻きをする。
「嫌です!」
「ワガママ言わないの!」
しかし、僕がトモエさんに力で勝れる筈もなく、僕は女子更衣室に足を踏み入れたのであった。僕の名誉のために再三言っておく。僕は全力で抗ったのだ。だから仕方のない事なのだ。仕方のない事なのだ。
女子更衣室――。
衣服を置いておく棚が整然と並び、死角が多いことがせめてもの救いである。僕は自分の足の甲だけを見詰める。
「こっち見ちゃダメだからね~」
「見ませんよ……」
視界の外でトモエさんが動いている気配がする。僕は、僕は自分の足の甲だけを見詰め続ける。
「なにボケーッとしてんの?リオも早く脱いで、行くよ」
「はい……」
僕は絶対に上を向かないように服を脱ぐ。上の服を脱ぎ、ズボンを下ろす。そして下着も脱ぐ。恥ずかしい……。
「リオ、細いね-」
「あまり見ないでください……」
僕はタオルで股間を隠す。
「うん。髪も長いし、ちんちん隠してたら女の子でイケるよ」
「……」
そういう問題ではないのだ。そういう問題では断じて……。
大浴場――。どうやら屋根はなく、日差しが背中に直に刺さる。吹き抜ける風が全身を撫で去り、にも関わらず呼吸がしづらいくらい高い湿度も同時に感じる。足下は濡れ、石製の床は滑りやすい。歩く度にぴちぴちと音が鳴る。僕から分かる情報はそれくらいだ。視界の端を行き来するトモエさんの腓と脚首を僕は只管に追う。
「はい、リオ。ここ座って。んで、ちょっと待っててね~」
椅子に座らされる。木の板が組み合わせられた椅子で、濡れているのでお尻などが少しひんやりする。トモエさんは僕を置いて何処かへ行ってしまい、暫くすると帰ってくる。
「リオ、水かけるよ。目閉じて――」
「はい……」
言われた通りに目を閉じる。間もなく頭頂部から微温湯を浴びせられる。僕は手の平で顔を拭って滴る水を払う。
「はい次アワアワいくよ~」
「はい……」
さっきから返事しかしていない。もう為れるがままである。勝手に洗剤で頭を洗われる。むず痒い……。
「あれー、泡立たないなぁ。リオ、もっかい流すよ」
再びの微温湯。洗剤が顔に流れ、僕は再度手で払う。
「レッツ・リトライ!」
謎の掛け声の後、トモエさんは再び洗剤で頭を洗い始めた。
「よぉし、アワアワ成功!ちゃんと綺麗にしてあげるから、ちょっと待っててねー」
「はい」
まず頭皮をゴシゴシいかれる。この人、結構力が強くて身体の芯ごと持って行かれる。僕はそれを耐える。次いで髪を洗い始める。髪は過去に一度切ってもらったが、それでも背中に垂れるくらいには伸びている。トモエさんはその髪を撫でるように洗ってくれる。
「――まぁ、大体こんなもんでしょ。じゃ、流すよ~」
「はい~」
あぁ、温かい。流れる微温湯が心地よい。
「はい、もう一回いくよ~」
二回目の微温湯流し。泡がすっかり流され床に広がる。
「うんうん!綺麗になった!満足満足!」
見えないが多分、恐らく背後で腕を組んでいる。
「満足って何ですか?」
「自己満足だよ。いい仕事したなぁってね」
「そうですか……」
自己満足って、僕の髪なんだけど。まぁ、結果的に洗ってもらったし、満足できたならそれでいいか。すると突然、耳元に息が当たる。
「――ついでに身体も洗ってあげようか?」
意地の悪い囁き声に僕は思わず振り向きかける。それで慌てて下を向き直す。
「それは本当にいいですっ!」
見てない……。僕は何も見ていない……。
「あっはっは!そりゃそうだ。はい、これ石鹸にタオルね。さて、私も歴戦の汚れを落とすとしますかぁ」
歴戦って……。その後、トモエさんは全身の生傷に触れる微温湯とアワアワに悲鳴をあげていた。
湯船に浸かる。湯船なんて一体いつ振りだろうか。気持ち良すぎて全身が解けてしまいそうだ。思わず間の抜けた息が漏れる。
「あぁー……」
「リオおっさんみたい」
トモエさんは背中の擦り傷に湯が触れる為、隣で足湯をしている。
「これは全人類共通の生理現象ですぅー」
「確かに言えてる。あ~、私も入りたかったなぁ」
「……何か、僕だけすみません」
「いいのいいの。私のことなんて気にしないで、リオはゆっくり寛いじゃってよ」
「すみません。ありがとうございます」
「もう、リオったら堅っ苦しいんだから」
そこで会話が止まる。空気が冷えるように感じて、僕はトモエさんが今どんな顔をしているのか確かめたい衝動に駆られる。でも、それは出来ない。……いい加減、背中と首が痛い。
「リオってさ――」
トモエさんが話し始めて僕は安心する。その声色はいつになく落ち着いていて、温かい。
「あそこに閉じ込められる前はどこにいたの?」
「……モルトという辺境の小さな村で暮らしてました。僕の家はモルトを統治していた下流貴族の家で、大金持ちという訳ではありませんが、それなりに裕福な暮らしをしていました」
あの頃の景色が蘇る。あの頃の人間関係が蘇る。
「へぇー。リオって貴族の子なんだ」
「下流のですから、そんなアレなんですけど……」
再び会話が止まった。今し方自分が口にした言葉が蒸し返る。謙遜したつもりだったけど、それが却って変な感じになってしまった気がして、自分の発言が何度も脳内で繰り返される。気を悪くはしていないだろうか。嫌われてはいないだろうか。周囲の物音がやけに鮮明に聞こえる。
「それで、あの丸眼鏡野郎に連れ去られたんだ?」
「はい……」
僕は縋るようにすぐさま返事をした。
「連れ去られたと言うより、まぁ、連れ去られたみたいなものなんですけど、半ば強引に、引き取ったという体裁というか――」
「ふーん。そっかー……」
再びの静寂。今、トモエさんはどんな顔をしているのか、どんな事を考えているのか、何とかその欠片を見付けたい。
「リオさ」
「はい」
「私の裸、見た?」
「なっ、なんですか急に……!」
湯が波立つ。
「ちょっと気になって。正直どうよ?チラッと見たり――?」
「見てないですよ!」
「ホントかな~?」
「本当です!断じて!断じて見てないですので!」
「そっかそっか。――見たい?」
何を言い出すんだ、この人は……!逆上せそうになる。
「結構です!もう止めてください!」
「ふふふっ……、分かったよ。いやぁ、リオってホントに面白いなぁ。リオが困ってるの見るのホントに大好き」
「……やっぱり悪魔じゃないですか」
「ああ!また言ったな、このクソガキめっ!」
後頭部がぐりぐり押さえつけられる。あぁもう、誤って見えてしまったらどうするんだよ。僕は目を閉じた。
何とか女子更衣室を脱出し、僕らは広間に戻ってきた。やっと上を向くことを許された世界は、とてもとても広く見えた。
「あぁ……」
僕は長椅子で手を後ろに突いてだらしない姿勢を取っていた。
「疲れたぁ……」
「なんで風呂あがって疲れてんのよ」
トモエさんは両手に牛乳瓶を持ってそう言った。その片方を僕に手渡す。
「ありがとうございます……。――だって、緊張したんですもん」
僕はそう吐き出してから牛乳を喉に流し込む。
「大丈夫だって。なんなら完璧に馴染んでたよ」
トモエさんの表情を久方ぶりに見上げる。どうやらこの発言は大真面目に言っているようだ。それはそれで……。
「それはそれで、何だか悲しいというか……。僕って、そんなに女々しい感じに見えますかね……?」
「うん。見える。だってリオ可愛いもん。ぶら下げるモノぶら下げてなかったら、もう完璧!」
上唇に白髭を作ったトモエさんは、親指を立てた。
「そんな下品なことを……。はぁ……」
僕は背中を丸めた。
「そんな気にすることないよ。子供の頃なんて、みんなそんなに変わんないもんだからさ」
トモエさんの手が僕の背中に優しく触れた。僕は顔を上げる。
「でも僕、九歳ですよ……?」
「――それは、まぁ、成長速度は人それぞれだからね~」
そう言うトモエさんの目はガッツリ泳いでいた。
「……」
「ホントだよ……?」
「……」
「そんなことより!ほら、タオル貸して。お姉さんが頭拭いてあげるね~」
トモエさんはそう言うと、僕の首に掛かっていたタオルを取って僕の頭を勝手に拭き始めた。この野郎、話逸らしやがったな……。
昼食は大浴場の飲食スペースで済ますことになった。僕らは向かい合わせの席でそれぞれ別種類の麺を啜る。
「リオ~。コレ読める?」
トモエさんは食事の最中だというのに新聞を渡してきた。さっき浴場内の売店で購入していた新聞だ。日付には今日が記されている。僕はそれを受け取り、開いて目を通す。
「まぁ、大体は読めますけど……。読めないんですか?」
「うん。会話はできるようにシュレにチューニングしてもらったんだけど、文字は分かんないんだよね~」
ちゅーにんぐ……、何だそれ?
「じゃあさ、ちょっと読んでくれない?どうにも引っ掛かるんだよ」
「読むって、どこを?」
「私たちの記事が無いかをだよ。だってあのお城、国の一番大事な場所なんでしょ?そこに泥棒が入って、序でに子供も一人誘拐されて、その上逃げられたなんて一大事件のハズなのに、それなのに街のどこにもそれを噂する声は聞こえなかったんだよ。まるで、その出来事そのものが無かったみたいにさ。なーんかおかしい気がしてならないんだよねー」
「確かに、言われてみればそうですね」
僕は新聞の紙面を次から次へと、大々的な記事から些細な記事まで目を通したが、デッパリア城に泥棒が入ったなどという記事はどこにも存在しなかった。
「……ありません。どこにも見当たりません」
「やっぱりね~」
トモエさんはそう言うと暢気に麺を啜る。
「でも、なぜ報道されていないのでしょうか?」
「分かんないよ、そんなの。なんか事情があるんでしょ。どっちにしても、逃げる私たちには好都合だし――」
トモエさんは更に麺を啜る。
「まぁ、そうですけど……」
確かにそうかもしれないけれど、でも……。
「――麺、伸びちゃうよ」
「あ、はい……」
僕は兎に角、麺を口に運ぶ。そして咀嚼する。思考も咀嚼する。一体アイツは、マルゲの奴は何を考えているんだろう。何もしないとは考えられない。未来を視る。……駄目だ。半日先じゃ何も分からない。少なからず半日は安全だろうが、それより先が不安で堪らない。
「――それなら、あとでお城見に行こっか」
「えっ?」
咀嚼が止まる。思考も止まる。
「デッパリア城に、ですか……?」
「そうそう。どうせその内に虛空の欠片を取りに行かなきゃいけないしさ、ついでに見に行こ」
「……大丈夫ですかね?見付かって逆に捕まったり――?」
「大丈夫だよ。何回も偵察で入ってたけど、一回もバレなかったし。私の異能があれば捕まったって問題ないし」
「まぁ……」
確かにそうかもだけど……。再度未来を視る。うわ、もう変わってる。何事も起こらない平穏な半日が消えてしまっている。でも、確かに大丈夫だ。問題なく帰ってこられる。デッパリア城も至って平常で、虛空の欠片も難なく回収できる。だが、未来は変わる事がある。些細な差なら問題ないが、大きくブレるとどうなるか分からない。それもデッパリア城でそのブレが起こるとなると、いくらでも恐ろしい想像が出来てしまう。どうしよう、止めた方がいいのか、でも、どうせいつかはあの宝玉を回収する事になるだろうし――。
「心配いらないって」
トモエさんの肩の力の抜けた声が僕の思考を切り裂いた。
「何かあったら私が守るからさ。――はぁぁ、うまかったぁ。リオも早く食べなよ~」
――いつだって運命を乱すのは貴方のくせに、何を偉そうに。
「そうですね」
僕は口一杯に麺を頬張った。




