(12)窓から眺めていた世界.2
僕は慌てて起き上がった。日は沈んでいる。
「あっ、リオ起きたね。おはよー、ってもう夜だけどね~」
トモエさんは暢気にベッドで寝転がっていた。
「あ、えと、今は何時ですか?」
「知らな~い。お腹空いてきたし、六時とか?七時とか?」
なんて雑な。でも、確かに僕もお腹空いたし、その辺だろうけど……。それより、僕とした事が寝落ちするなんて、横になった時点で頭がふわふわして、寝落ちする未来を視逃してしまったのか。未来視が聞いて呆れる。
「――ていうか、トモエさんは何をしていたんですか?」
「えぇー?」
トモエさんは明らかに此方を向いて、肘をマットレスに突き立て、手の平を枕にゴロゴロしていた。そこはかとなく嫌な予感がする。
「リオの寝顔を見てた。リオのほっぺた、ぷにぷにだね」
トモエさんは悪戯っぽく笑い、人差し指を突き立てて、抓むような仕草をみせた。
「なっ――!」
僕は思わずベッドから立ち上がった。
「何やってるんですか!?」
「何だよその反応~。減るもんじゃないんだし、いいじゃん。ほら、もっと触らせてよ~。いい子だから、お姉さんのもとに戻っておいで~」
トモエさんはだらだらとした口調で両手を広げ僕を招く。
「嫌です」
「なんでぇ~」
何なんださっきから、トモエさんのだらけっぷりは……。酒でも呑んでいるのか?……まぁ、元気そうならいいんだけど。
「そんなことより、夜ご飯はどうするんですか?」
「えぇー、そこに食料がまだあると思うけど――」
トモエさんは寝転がったまま机の足に立て掛けられた紙袋を指差した。まずい、その中の食べ物は半分くらい僕が昼に食べてしまった。どうしよう、怒られるかも……。
「――それを食べるか、それか、どっか食べに行くか――」
「食べに行きましょう!」
「う、うん。リオ、そんなにお腹空いてたんだ……」
僕らは部屋を後にした。
宿屋を出て暫く歩くと、そこには人の光りが集まっていた。
狭い道の端を沢山の露店が並び、人々はその間を側溝を流れる雨粒のように入り乱れながら進んでいく。空は星の僅かな光りしかない暗闇なのに、この通りは明かりで満ちていて、まるで僕らの為だけの世界のような気がした。
その人の流れに踏み入る前、人混みに気圧されている僕に、トモエさんは手を差し伸べてきた。
「――ほら」
「え……?」
「え?じゃないよ。手ぇ繋いでないと迷子になっちゃうよ」
トモエさんはごく当たり前のように改めて手を僕の目の前に差し出した。――そっか、そりゃそうだよな。僕は差し出された手の平に自分の手を置く。するとトモエさんの手は僕の手を包み、僕の腕を引っ張って進み出した。前も見えないような人混みの中に潜っているというのに、ちっとも平気だったのは、手の感触の先にトモエさんの背中があるからに他ならなかった。僕はトモエさんの手が身体の割に小さくて、僕の手とそう違わない事に妙な親近感を覚えていた。それなのに僕の手をちゃんと掴んで固定し、僕をぐんぐんと引っ張って導く力強さに、同時に疎外感を感じた。やっぱりこの人は強い人なんだ。
「リオ、鶏の串焼き、どう?」
唐突にトモエさんは立ち止まり、串焼きの屋台を指差した。僕は急激に現実に引き戻された気がした。
「いいんじゃないですか?」
「だよね!――おっちゃん、それ二つちょうだい」
「あいよ!」
捻り鉢巻をした店主さんは活気良く返事をすると、汗で光の膜を纏ったかのような太い腕で細い櫛を器用にくるくると裏返し、調味料を手早く振り掛けた。その無駄のない動きと、清潔感なけれど嫌悪感も湧かない皺の濃い手と、何より立ち上る香ばしい香りが食欲を刺激し、興味をそそられる。食べたい。口元が油で汚れようが齧り付きたい。だが、いいのだろうか。御馳走になってしまって。まぁ、今更の話ではあるのだが……。
「毎度ありぃ!」
店主さんはトモエさんに串焼きを二本手渡す。
「うまそ~!リオ、コレちょっと持ってて――」
「あ、はい」
トモエさんはその二本の串焼きを僕に預けると、ポケットから財布を取り出し、代金を店主さんに手渡した。
「どっか落ち着いたトコ行こっか」
トモエさんは串焼きを一本僕から受け取ると、空いた手を再び差し伸べ、僕は相も変わらず躊躇してから手を重ね、トモエさんに握ってもらうのを待った。
喧騒から一枚離れた脇道の壁を背に座る。隣では、トモエさんが壁にもたれ掛かっている。
「いただきまーす!」
トモエさんは串焼きに齧り付き、串を横に引き抜いた。
「――ほら、リオも食べな」
僕がその様子を見上げていると、横目のトモエさんと目が合って、トモエさんは咀嚼しながらの籠もった声でそう言った。
「では、いただきます……」
勧められたのなら食べない方が失礼だなどと小賢しい事を心の中で呟きながら僕は串焼きに齧り付く。……おいしい。僕は急いで飲み込んで、次の一口に繰り出す。その瞬間視線を感じ、僕は串を引き抜く間もなく見上げた。トモエさんはくすぐったくなるような表情を浮かべている。僕は急いで串を引き抜くと、口元を手で隠す。
「……何ですか?」
「いいや別に。お口に合ったみたいで良かったなって思ってね」
「……そうですか」
僕は何を言えばいいか分からず、それだけ言って視線を逸らし、まだ残っているのにも関わらず次の一口を頬張った。
宿の部屋――。
「いやぁ~、食った食った~」
トモエさんはベッドに身を投げる。ベッドの脇から埃が吹き出る。
「本当によく食べましたね」
あの後、僕らは彼方此方の屋台を回り、色々なものを食べた。が、僕は前半戦で満腹になり、殆どはトモエさんが食べ尽くしていた。後半に骨付き肉を喰らい始めた時には正直引いた。
「まだイケるけどね」
「……本気ですか?」
「うん、まだ入る」
「えぇー……」
凄いな、この人……。
「さ、お腹も満たされたことだし、もう寝よっか」
「そうですね。でも――!」
「さぁおいで!」
トモエさんは僕の言葉を先読みしたようにそう言った。横向きに寝転がり、ベッドの余白をぽんぽんと叩く。
「でも……」
まぁ既に一度寝てるから今更ではあるんだけど、とは言え誰かと寝るのは抵抗がある。
「遠慮しなくていいのに。じゃあ地べたで寝る?」
「それは……」
それは嫌だ。歩く度キーキー鳴るような床で寝るのは絶対に嫌だ。
「じゃあおいでよ」
「……」
「ほら」
「――、……分かりました」
僕はしたり顔のトモエさんを乗せたベッドに近付く。床は歩く度にキーキーと音を立てる。恐る恐るベッドに片膝を乗せて、一瞬トモエさんの表情を見る。トモエさんは相変わらずしたり顔を浮かべていて、僕はすぐに目を逸らした。俯いたままベッドの端に乗り上がり、出来る限り隅っこで、トモエさんに背を向けて僕は寝転った。
「そこじゃ落ちちゃうよ?」
「いいんです」
「ああそう。じゃ、布団掛けるよー」
身体に布団が掛けられる。次いでランタンの火が消され、辺りには闇が広がる。
「寒くない?」
「大丈夫です」
――寒い。僕とトモエさんの間の空間に外気が入り込む。これでは布団の意味がまるで無い。最近は朝晩は冷えるようになってきている上、この部屋は隙間風が吹き込み、冷たい外気が身体に堪える。僕は布団を掴んで首まで潜った。すると布団が引っ張られ、僕の手から逃げていく。僕の身体は外気に晒される。寒い。僕は軽く寝返りを打ってトモエさんの方を向くと、トモエさんの背中は布団に包まっていた。
「あっ、ごめん。引っ張っちゃったね」
「いえ……」
トモエさんは再び僕に布団を掛ける。再び僕らの間に空間ができる。冷えた外気がまた僕らの間に流れ込んでくる。寒い。僕はトモエさんの方をこっそりと覗いた。トモエさんも首まで布団に埋めて縮こまっている。トモエさんも寒いんだ。このままでは二人揃って身体を冷やしてしまう。恥ずかしがっている場合ではない。
「あの、トモエさん……」
「ん?どうしたの?」
トモエさんは閉じていた瞳を開き、首をこちらに傾けて僕を見た。僕は目を逸らす。
「そっち向いてください」
「えぇー、なんで?」
「いいから」
「……?分かったよ」
トモエさんは寝返りを打って僕に背を向けた。顔だけがこちらの様子を覗っている。
「これでいい?」
「はい……」
僕はトモエさんの背中に自分の背中をくっつけた。僕らの間の空間は押し潰された。
「これで、落ちる心配はないですよね?」
なんとくだらない虚勢を張るのかと自分でも恥ずかしくなりつつ、今更そう言わずには恥ずかしくて居られなかった。
「そうだね。これで落ちる心配はないね」
トモエさんの声色はどこか弾んでいて、僕は虚勢の裏側がバレている気がしてならなかったが、それでも別にいいと思えた。僕らを包む布団の内側は二人の体温で徐々に温まり、背中は熱いくらいだったから、それだけで恥ずかしさを受け入れた成果はあったように思えた。
――暗闇の中、永遠にも一瞬にも思える時間が流れる。一人僕は闇夜の海原その只中を揺蕩う。時間の流れという名の揺り籠に揺られながら、しかし視界だけは時が凍り付いたかのように微動だにしない。古びた壁と床が永遠とそこにある。そして僕は、永遠の中にある。永遠と、流れ続ける時の、その相対するものが混在する所に僕はある。
要するに眠れないだけである。夕方まで寝落ちしていたせいで、今ちっとも眠くない。これでは翌朝が辛いだろうに、瞼を閉じていられない。本当に未来視が聞いて呆れる。
僕は同じ体勢が辛くなり、仰向けになる。いつもと違う天井。息を吸う。肺を新鮮な空気で満たす。空気を肺で味わい、そして息を吐く。少し気が紛れる。ちらりと横を覗く。トモエさんの背中。トモエさんの後頭部。トモエさんの後ろ髪。黒い髪。初めて見た黒い髪。ふわっとした長い黒髪。綺麗な黒い髪。少し触れてみたい。どんな感触がするのか、少し気になる。普段は、起きている時は触れられない所。今なら触っても誰にもバレない。でも、それはあまりに不誠実だ。勝手は良くない。首筋。首筋から肩。肩から背中。肩甲骨。人の身体。僕と同じ構造。この人も僕と同じ人。何もかも違うけど、僕と同じ人間なんだ。それなのに、なぜ僕とこの人はこんなにも違うのか。何故この人はこんなにも魅力的で、かっこいいのか。後ろ姿でさえ惹き付けられるのか。それなのに何故僕は、こんなにもつまらない人間なのか。そう感じてしまうのか。この人と一緒に居たい。でも一緒に居ると、僕は僕がどんどん嫌になる。恥ずかしくなる。僕はどうすればいい。僕はどうしたい。トモエさんの肩が膨らみ萎む。膨らんで、また萎む。――ていうか、この人寝過ぎだろ。昼頃から夕方まで寝て、いったい何時間寝れば気が済むんだろう。まぁ、それだけ疲れているという事なのだろうけど。ふと口角が上がる。ふと気が軽くなる。僕はやっぱりこの人と共に居たい。軽くなった心は淀みなくそう呟く。毛先。黒い髪の毛の先。ベッドに根のように広がる黒い髪の、弧を描いた黒い毛先。それが手の届く所まで広がっている事に僕は気付く。少し触れてみる。人差し指を回し、親指で束を転がす。軽い。軽くて冷たい。スベスベする。触っていて心地がいい。……背徳感も少し心地いい。
「……いーけないんだ」
突然の声。僕はベッドから危うく落ちかける。まずい、トモエさんが寝返りを打ち始める。……バレた。勝手に触った事がバレていた。
「寝ている人の髪を勝手に触るなんて、リオは悪い子だね」
こちら向きに寝返ったトモエさんの顔に眠気は微塵もなかった。やっぱりトモエさんも眠れなかったのか。
「あ――、その……」
僕はパニックに陥り、何を言えばいいのか何も分からなくなる。暗闇の中のトモエさんの表情に何が表れているのか分からない事が余計に僕を恐れさせた。
「ご、ごめんなさい!」
僕はベッドの上で座り、頭を下げる。
「別にそんなに謝らなくても。触りたくなっちゃったの?」
トモエさんの声色に怒気はない。
「……はい」
なんだか欲に負けた惨めな奴だと自供しているみたいで恥ずかしい。
「それなら普通に言えばいいのに。少しくらいなら触らせてあげるよ?あっ、それとも、イケナイことしてる感じが良かったのかな?」
「……」
不本意ながらあまりに図星過ぎて、僕は言葉を失う。
「やっぱり~。リオも悪い子だね~。もうしちゃダメだよ?」
「はい、すみません……」
バレたのは恥ずかしいけど、怒ってなくてよかった。
「でもでも、私だけ触られるのは不公平じゃない?」
「え?まぁ、はい……」
「だよね?ということでリオ君。こっちに来なさい」
トモエさんは横になったまま手招きをする。
「こっち、って……?」
「はい、ここで横になって。もちろん、私の方を向いてね」
「は、はい……」
僕は恥ずかしさを押し殺してトモエさんの隣で横になった。トモエさんと真正面に向き合い、耐えられずに目を逸らす。
「動いちゃダメだよ~」
するとトモエさんは、僕の頬に掛かる髪を持ち上げた。
「おお~。リオの髪、線が細ーい。ひらひらする。実はね、私も触ってみたかったんだよね。リオの髪――」
「……!」
どうして、髪には触覚なんてない筈なのに、凄くくすぐったい。むずむずして、もう耐えられない。僕は強く目を瞑る。
「なに?髪触られてるだけなのに、くすぐったいの?」
「いえ……、別に……ッ」
「ふふっ、そっか」
トモエさんの指は僕の髪の内側に潜り込み、なぞるように指で梳かした。
「――透き通るみたいな綺麗な黄緑色してさ、動く度に可愛く揺れるんだもん。男の子なのにズルいなぁ……」
頬にトモエさんの指の輪郭が触れる。全身に電気が走るみたい力む。
「でも、何か少しペタペタしてるね。汗かな?」
「……あの塔だと、水浴びとか、出来なかったですから――」
わざわざそんなこと言わなくていいじゃないか。恥ずかしい……。
「そっかぁ。じゃあ、明日は銭湯行こ」
「セントウ?」
「あ、いや、大浴場に行こ。ね?」
「大浴場――…」
その時、とてもまずい未来が視えた。この未来は、とてもまずい。
「いや…です……」
僕は布団で口元を隠す。
「えぇー、何でー?ちゃんと洗ったらもっと綺麗になると思うんだけどな~」
「別に今のままでいいです」
「よくないよ。明日は一緒に大浴場。決まりね!」
「はい……」
未来は変わらなかった。この人を説得するのは運命を変えるよりも厄介に思えた。はぁ、どうしよう……。




