第2話 〝夜の存在しない街〟
たとえば道端に野ウサギが一匹いたとして、そいつの目の前に向かってニンジンを投げつけたとしよう。
もちろんそいつはニンジンに向かって一直線にやってくるに違いない。くんくんクンクンとしきりに匂いを嗅いだりしたあと、もうそれは自分の物だと主張するように我が物顔で食らいつく。投げた奴はその様子が面白くなって、もっと投げつけてみたくなるんじゃないだろうか。
いや、何も関係のない話をしているわけじゃないんだ、とシオンはひとり脳内で弁明する。いま自分の置かれている状況を端的に言い表せている比喩だと自負していた。
つまるところ、シオンと先ほどの少女の場合もそういうことだった。
「——」
シオンがコンビニまでひとっ走りして買ってきたメロンパンだのジャムパンだのといった食べ物が吸い込まれるように少女の口元へと消えていく。ぱくぱくパクパクっと豪快な食べっぷりは見ている分にはマジックみたいで面白いが、残念ながら消えたものはそれだけではない。
ありていにいえば、今月の生活費のヨンブンノイチが消えた。まだ月も初めだというのに、である。この先どうやって月末までの生活を凌いでいけば良いのだろうか。
涼しくなるどころか極寒にまで墜ちた財布の軽さに心で涙を流しながらシオンが少女を見つめていると、彼女は何を勘違いしたのかその手を止めて、
「ふぁりふぁとね! ふぉんふぁにふぉふぉってふれふぇ!」
シオンには理解できない言葉で何かを言った。おそらくはハムスター語なんじゃないかと思うが、残念なことにシオンはハムスターじゃないから正確なことはわからない。でもなんとなく感謝されている気がしたから、「……喉に詰まらせんなよ」とだけ告げておいた。すると少女は嬉しそうに微笑んで、また食糧を口に詰め込む作業に戻っていった。
「……はぁ、まったく。腹すかせて倒れるなんて今どきあんのかよ」
またぞろ面倒に巻き込まれたものだと嘆息し、せめてもの安らぎをとシオンは街が奏でる音に耳を澄ませてみた。
月の隠れた深夜。
桜並木は静かだが、完全に音がなくなったわけじゃない。
桜の枝を揺らす風のささやき。流れる川のせせらぎ。
その中に交じるように聞こえてくるのは、荒々しくも調和に彩られた楽器の音。
——〝ロックンロール〟の生きるこの街では、夜なんてものは存在しない。
聞こえてくる旋律に導かれるように、シオンは無意識に口笛を奏で始める。
優しく、どこか力強さを感じさせる音——。
「——ふぇー!!」
「おわっ! な、なんだ——!!」
突然の大声にシオンは驚いて口笛を中断し、その発信源を見る。
少女はあんぱんをペリカンのように丸呑みしかけた状態で、しかし何かに驚愕したように身を乗り出してシオンのことを見ていた。
「ふぉ、ふぉ、ふぉれふぇえ! ふぁんでふぃみふぁふぉっふぇえふの!?」
「……落ち着け。話すのはまずその口の中身を呑み込んでからにしようぜ」
あいかわらずハムスター語を話し続ける少女にシオンは呆れながら伝える。
少女ははごくりと咥えていたあんぱんを飲み込んで、ようやく人語を話し始めた。
「ねえねえ! それって『ロックンロールは種族を選ばない』でしょ! 〝NEVER THE CRY〟の!」
「あん?」
「キミが今口ずさんでた歌! 違う?」
「あ、ああ……そうだけど」
「やっぱり! 良い歌だよね! わたしも大好きっ!!」
食べかすをほっぺたにくっ付けて無邪気に笑う少女。そんな少女からの意外な指摘に、シオンは驚いたように目を丸くする。
「よく知ってたな。結構昔の歌だぜ?」
「ふふん! わたし、これでもたくさんロックンロールを聴いてきたからね! 古今東西なんでもドンとこいだよ!」
「へー、素直に感心するぜ。さすがは〝ロックンローラー〟と言うべきか」
その言葉に今度は少女の目が驚きに染まる。
「え、なんでわたしがロックンロールをやってるってわかったの! もしかして、きみってエスパー?!」
「んなもんその背負ってるもんみたら誰にだって分かるだろ。ましてやこの街じゃあな」
シオンは少女の背後を指し示しながら告げる。
そこには黒い物体が自己を主張していた。
ソフトケース型のギターケース。
眠っていた少女がぎゅっと大事そうに抱えていたその中には、ロックンロールを演奏する者にとっての〝魂〟が詰まっている。
「けどまあ、珍しいよな」
「ん、何が?」
不思議そうに首を傾げる少女に、シオンは少女の持つ特徴的な長い耳と、鮮やかな翡翠色をした瞳を見て言った。
「だってあんたエルフ族だろ? エルフ族がロックンロールをやるなんて……その、なんていうか……」
シオンの声が尻つぼみに萎んでいく。
自分が告げようとしていることの失礼さに途中で気がついたのだ。
しかしその続きを察したらしい少女は屈託のない笑みを浮かべて、
「異端児だー、って?」
「……ま、端的に言うとな」
エルフ族は変化を好まない。
それは文明が発達した現代においても太古から続く森での暮らしを守っていることから明らかだ。
ゆえにエルフ族はこの世界では数少ない〝ロックンロールが嫌いな種族〟として知られている。
もちろん全てのエルフ族たちがそうではないと頭ではわかっていたつもりだったが、咄嗟に偏見が出てきてしまうあたりシオンも常識という名の毒に汚染されていたらしい。
これじゃあ若者失格だなと自嘲しながら、シオンはそっと心で肩をすくめた。
少女は「あはは」と頬をぽりぽりと掻いて、
「わたしもね、最初は苦手だった。あんな大きな音ジャラジャラ鳴らして何が楽しいんだろうーって思ってた。でもね、——出逢っちゃったんだァ!」
恍惚な表情で少女はギターケースのポケットから一枚の写真を取り出してシオンに渡してくる。
「見て。わたしの神様」
そこに映っていたのはひとりの獣人族の女性。マイクスタンドを握って叫んでいる様子が切り取られていた。
シオンはその人を知っていた。
だから思わずその名前を呟いてしまった。
「……マリヤ、ノーザンウィード」
「え、嘘っ! 知ってるの?!」
その瞬間、少女は文字通り飛び上がってシオンを見た。さっきまでの比じゃないくらい距離を詰めてきて、シオンがたじろぐのにも構わずにその手を取った。
「凄い凄い! 初めてだよ! 同い年くらいの子でマリヤを知ってる人に会ったの! ねえねえ、どうして知ってるの?!」
興奮した様子を見せる少女に、シオンはその手を振りほどくのも忘れ、伏し目がちになって答えた。
「……昔、少しだけ歌を聴いたことがあるんだ」
「えー? でも古いから映像だって残ってないでしょ? さっきの〝NEVER THE CRY〟よりもずっと古いよ?」
「ああ、だから祖父ちゃ……祖父が持ってた魔晶石でな」
「えッ!! マリヤの魔晶石があるの?! 見たい!! 貸して!」
シオンの答えを聞いた途端、少女は猛然と襟元に掴みかかってきた。その必死の表情にシオンは気圧されながら、
「い、いや今は持ってねえよ……もう随分昔の話だからな」
「うぅそっかー……残念だなぁ……」
がっくしと項垂れる少女。本当にショックを受けている姿にシオンはなんだか罪悪感とも呼ぶべき感情が胸に去来して、会話を続けるべく言葉を継いだ。
「よっぽど好きなんだな、マリヤ・ノーザンウィードのことが」
彼女はにっこりと微笑んだあと、遠い思い出に眩んだようにその目をすがめた。
「初めて見たのはわたしが十五歳のとき。お父さんがこっそりライブに連れて行ってくれたの。もう圧倒された。綺麗だし、カッコいいし、ギターも上手すぎて訳わかんないし。でも何よりも——わたしもこの人みたいに歌いたいって思ったんだァ!」
マリヤのことを物語る少女の瞳は輝いていた。あるいは星のような瞳という比喩は今の彼女のためにあるのかもしれない。
シオンはその美しい瞳を何か言葉を発することで穢したくはないと思って黙っていた。
喧騒を離れた土手沿い。どこかのライブハウスから、ブルースハープの音が現実を切り離した夢のように星月夜を流れていた。
「——あ! ねえねえ、明日の夜にライブがあるんだけどさ、きみも見に来てよ!」
唐突に、なんの脈略もなく少女は告げる。
「ライブって、あんたが出るのか?」
「そ! わたしの初ライブ! きっと楽しませるからさ! はい、これチケットだから!」
そう言って、少女はスカートのポケットから取り出した紙をぐっとシオンの胸に押し付けてくる。シオンが半ば無意識にそれを受け取ると、少女はギターケースを背負い直して、
「じゃあね! 絶対来てよ! 待ってるからさ!」
「あ、おい……!」
くるりとその場から駆け出していく。
が——。
「あっ! 忘れてた!」
道の半ばで急ブレーキを掛けて立ち止まると、少女は振り返って……、
「——ありがとね! パンいっぱい奢ってくれて! 助かったよ!」
そして今度こそ少女は立ち止まることなく漆黒の中に消えていった。
「騒がしいやつ……。エルフのくせに……」
そうぽつりと呟いて、シオンは渡されたチケットに視線を落とし、名前も知らない少女のことを考えた。
お腹をすかせて眠りこけていた女の子。
エルフなのにロックンロールを演奏するらしい女の子。
マリヤ・ノーザンウィードを神と仰ぐ女の子。
少女に対して得られた情報はたったこれだけしかない。
いや、もう一つ。
分かることがあるとするならば、それは……。
「……同い年くらいだと?」
マリヤ・ノーザンウィードが現役として活動していたのはもう三十年は昔のことだ。その活動をリアルタイムで見ていたのだとすれば、少女はゆうに五十歳を超えていることになる。
時間感覚のズレはエルフが長命種であるがゆえんだ。
もっとも、エルフ族は成熟が遅いため他の種族で言うところの青年時代は五十歳くらいから始まるらしいので、彼女の言葉もあながち間違いというわけではないのだが。
シオンにしてみれば同じこと。
「……祖母ちゃん、か」
シオンはまぶたを閉じて思いを馳せる。
少女と呼んでいいのかは微妙なところであるが、しかし彼女の言動からはロックンロールに対する愛と憧れが滲み出ていた。
それはシオンが失ってしまったもので。
そう思えることを。
ただなんとなく。
羨ましいと思った。




