第1話 〝星月夜の邂逅〟
居酒屋でのバイトを終えたシオンは、酔っぱらいを相手にして疲れた身体を引きずって帰途を歩いていた。
月のない夜。
道端を流れる川のせせらぎを感じながら、慣れ親しんだ道を進んでいく。
花盛りの桜並木といえども、深夜ともなれば人気はなく、柔らかな春風がようよう目覚め始めた星たちのためにそっと花吹雪を舞わせていた。
穏やかな道程。
いつもと変わらない道筋。
……のはずだったのだが。
「——。さて、どうしたもんかな……」
この日はちょっとばかり勝手が違ったらしい。
桜並木の半ばまで来たところで、常ならざる異変に遭遇し、シオンはその足をぴたりと止めた。
いったい何が起こったのか。
状況を端的に言い表すと次のようになる。
——女の子がひとり、桜の幹にもたれて眠り込んでいる。
シオンと同年代くらいであろうか。
わずかに幼さが残る顔立ち。
肩を流れる髪は星あかりに照らされて金色に輝いている。
その瞳はまぶたの裏に隠れて杳として知れないが、きっとその髪と同様の美しさを秘めているのだと想像できた。
美少女、なのだろう。
誰もが振り返るくらいの。
しかしシオンの目を奪ったのはその美貌がゆえではなかった。
むろんその胸にぎゅっと大事そうに抱かれている楽器ケースでもない。
金色の両端から見え出ている耳。
その先端が尖っていた。
この世界には数多くのヒューマン種が存在するが、その耳の特徴を示す種族はひとつだけ——。
「やっぱ、エルフ族なのか……?」
この街ではあまり見かけない種族との邂逅に、シオンは呆然と呟いた。
深夜に女の子が桜の下で眠っているだけでも驚きなのに、その種族がエルフ族ときたらそれはもう御伽話だ。
「……。ホント、どうしたもんかな」
厄介なことになったと夜空に息を吐き出し、シオンは最初の疑問に立ち返る。
これが男だったら話は早かった。
何も見なかったと通り過ぎるだけ。
しかし現実、眠っているのは女の子だ。
そこまで治安は悪くはないものの、心配にはなる。
これがエルフ族じゃなかったら原因は簡単だった。
花見客が酒を飲みすぎて酩酊したと思うだけ。
しかし現実、眠っているのはエルフ族だ。
高潔を尊ぶことで知られる彼女らが不覚を取るなど、シオンには考えられなかった。
「はぁ、面倒な予感しかしねえ……」
声を掛けるべきか否か。
リスクとリターンがせめぎ合う。
しばらくシオンは脳内でその天秤を揺らしていたが、結局は声を掛けることにした。
「おーい、大丈夫かー」
「ん、んん……」
しゃがみ込んでそっと肩を揺すったシオンに、少女は妙に艷やかな仕草でイヤイヤと言うように首を振った。
「こんなところで寝てたら風邪引くぞー。ソースは三年前の俺」
「んん、ん……」
だが少女は一向に起きる気配を見せない。
シオンが肩を揺さぶるたびに形の良い眉根を寄せて艶かしい声を漏らしている。
「おーい朝だぞー。遅刻するぞー」
「んん……あと五分……」
しかし五分待っても少女は起きなかった。
安らかな寝息をすやすやと立て続けている。
「ま、仕方ねえ……諦めるか」
とにもかくにも、人間として最低限の義務は果たしただろう。
結局、シオンと少女の間には何の関係性もないのだ。
甲斐甲斐しく介抱してやるような義理はない。
思えば、少女だって何かしら考えがあってこの場所で寝ているのかもしれない。
なにしろあのエルフ族だ。
自然を感じたいから……なんて理由だとしても驚きはない。
「エルフは文明社会を好まないらしいからな……楽器ケースを抱いてんのは、まあ見なかったことにするか……」
後ろ髪を引かれる心を無理やり納得させて、シオンは立ち上がり、くるりと反転してその場を離れようとしたところで、
——ぐぐぎゅるるるる〜〜〜!!
「……あん? 何の音だ?」
不可思議な音がシオンの耳を揺さぶった。
例えるなら地獄の底、冥府に棲むと言われるケルベロスの唸り声に似た音。
シオンがその怪音が聞こえてきた方、少女が眠っている方へと視線を向けると、
「あ」
先の音で目覚めたのだろうか。
少女の目が開いていた。
シオンを見つめ、ぱちくりと瞬きを繰り返している。
「……よお、ぐっすり眠れたか?」
「うん……、うん?」
片手をあげて声を掛けたシオンに、少女はその首を傾げて、
「——? ねえねえ、どうしてわたしこんなところで寝てるの?」
「残念ながら、それは俺が訊きたい疑問だ。なんであんたはこんなところで寝てたんだ?」
少女の疑問をそのまま問いかけ直すシオン。
しかし少女にも思い当たる節がないのか、頭上にはてなマークを浮かべている。
シオンはその様子を見て肩をすくめながら、
「酒に酔って寝てたとか?」
「んー違うと思う。わたしお酒は飲めから」
「誰かに襲われたとか?」
「わたしどこも怪我してないよ?」
「じゃああれだ。自然を感じたかったんだよ」
「? どうして自然を感じるのに外で寝なくちゃいけないの?」
「……だよな」
ありうる可能性を幾つかぶつけてみたが、少女の反応はどれも芳しくない。
「んー、なんとなく今ね、頭にイチゴが浮かんだよ」
「は? イチゴ? それがなんか関係あんのか?」
「たぶんね……」
頓珍漢なことを言って、少女はむむむと考え込む様子を見せる。
が、その思いが結実するよりも先に、
——ぐぐぎゅるるるる〜〜〜!!
再び盛大な音が辺りに鳴り響く。
「……」
「……」
しばし見つめ合うふたり。
「……なんの音だ?」
「……」
少女は答えなかった。
しかしよくよく聴いてみると、それは妙に慣れ親しんだ音だった。
普段の日常でよく耳にするような音。
具体的に言えば、朝昼晩と三度聞くような音——。
「——あ」
そこまで考えて、シオンはその正体に思い至る。
「なあ、あんたもしかして……」
しかしシオンがそれを口にするよりも先に、少女はハッとその両目を見開いて、
「——わかった! わたし、お腹がすいて倒れてたんだよ!!」
月が夜と喧嘩した空の下。
そんな馬鹿みたいなことをのたまうのだった。