プロローグ 〝そして少年は……〟
熱狂と、狂乱と、乱雑さが入り混じった空間。
爆音が支配するホールの中を、少年はひどく冷めた目つきをして佇んでいた。耳をつんざくような大音量。うんざりするような人いきれ。
祖父に連れられてやってきたこの場所はあまりにも異端で、どれだけ時間が経っても馴染めそうにない。
早く帰りたいと思いながらも、今朝の祖父の顔を思い出すと言い出せない。まるで遠足前の子どものような表情で少年の手を取った祖父。
少年は心の中でそっとため息をつきながら、時間が過ぎていくのを待った。
一時間ほどが経った頃だろうか。
ざわめきがより一層大きくなり、周りの熱狂がひときわ激しくなる。
「——。来たぞ」
誰ともなしに囁かれた祖父の声が不思議と大きく少年の耳に届いた。少年がその声に驚いて祖父に目を向けると、祖父は固唾を飲んでステージを見つめていた。
あの無口な祖父が拳を握りしめている。何が彼をそこまで惹きつけるのだろうか。そのときになって、少年は初めて少しばかりの興味を覚えてステージの上を見た。
ちょうど演者が切り替わる合間で、機材を設置するために人々が忙しなく動いている。ふと、その中のひとりの女性と目が合った。
「——こら、そこの少年! 最前列だってんのになんて顔してんのよ!」
準備を放りだして少年の目の前までやってきたその女性は、ふさふさの尻尾と耳を逆立たせてまなじりを吊り上げる。
「全然楽しそうじゃないじゃない。なぁに? つまんない?」
我慢のならないといった女性の様子に、少年はわけもわからず、しかし積もり始めていた鬱憤をぶつけるように言葉を漏らした。
「……別に。ただ騒がしいだけじゃないか」
少年のその言葉に隣に立つ祖父が「すまんなぁ。この子はライブハウスに来るのが初めてなんじゃ。大目に見てやってくれんか」と謝っているのが無性に腹が立って、少年はますます意固地になった。
「……何が悪いんだよ。素直な印象を言っただけじゃないか。さっきからうるさいだけで何も面白くないよ」
「こ、これ」
「——ふーん、そうなんだ」
女性が少年の目を覗き込む。しかしその深緋色の瞳に怒りはなく、ただ純粋に興味を覚えたというように少年を映していた。
「ねえ」と、女性が少年に問いかける。「アンタ、名前は?」
「……シオン」と少年は小さく答えた。
「よし、じゃあシオン。これからアンタに面白いものを見せてあげるよ。最高のショーをね」
そう告げると、女性は少年のもとから離れていく。
いつのまにか、ステージの準備が完了していたらしい。
女性はステージの中央まで歩いていくと、そこにあったネズミ色の物体——マイクスタンドを手に掴み、にやりと少年の目から見ても下手くそに口角を吊り上げた。
「——お待たせ、みんな」
そのひと声で、ホールはまた熱狂に包まれる。
いや、〝また〟ではなかった。
さっきまでのが〝熱狂〟だとしたら、これは〝暴力〟だ。
感情の暴力が唸りとなってホールを駆け巡っている。
少年は耳を塞ぎたかった。
でも、それをさせてくれなかった。
祖父が邪魔をしたわけでも、もみくちゃにされて身体の自由が利かなかったわけでもない。
ただ、女性から目が離せない。
女性はじっと少年を見つめていた。
下手くそな笑み。
ふいにその唇が動いた。
——。
聴こえるはずのない声が聞こえたあと、深緋色の瞳が少年を離れ後ろを向き、そこにいた何人かと頷き合い、それからまたシオンたちの方を向いてすっと言葉を発した。
「今日は、みんなにお願いがあるんだ。勝手なお願い。あたしのね、友達が来てるの。でもその友達は音楽に興味がなくて、ライブハウスに来るのも初めてなんだって。でね、ここまでの印象じゃあ音楽が嫌いになりそうみたいなんだよね。でもさ、そんなの——損してるって思わない? ——。うん、そうだよね。だからお願い! 一曲だけ、あたしに頂戴! 初めの一曲だけは、あたしに、その子のためだけに歌わせて——!」
「——」
狐の獣人らしい女性はそう言って観客の〝暴力〟を確かめると、くすりと笑って、それから右手を空へと捧げるように高く突き上げた。
「ありがとう、みんな! ――じゃあ行くよ!! 『ロックンロールは種族を選ばない』!!」
右腕を振り下ろし、持っていた楽器をかき鳴らす。
同時に、うなるような歓声が地響きよりも激しく建物を揺らした。
その狭間。
女性は少年と目を向けると、不敵に微笑んだ。
見てなさいよ、シオン。
そして。
——そして、少年は初めて〝本物〟に出逢った。