第8話 〝ロックンロールの神様〟
「——ガッハッハ! 嬢ちゃんはあれだなァ天才ってやつだなァ!」
即席の演奏会が終わり、上機嫌なヒゲ親父は豪快に膝をついて笑いながら最大級の賛辞をルナに送った。
カウンターに座りちびちびとサービスのホットココアを飲んでいたルナは、その頬を桜のようにほころばせて、
「えへへ、ありがとー! また今度ライブもやるから観に来てねー! わたし、ヒゲ爺のためにすっごく頑張るから!」
「おうよ! たとえ雨が降ろうが槍が降ろうが行くぜェ!」
「あはは、ダメだよー。槍が降ったら休まなきゃ!」
笑い合うエルフとドワーフ。
種族としては犬猿の仲と言われることもあるが、彼女たちの間に軋轢はないようで、はたから見れば孫とその祖父といった様子の友好を育んでいる。
ルナやヒゲ親父の正確な年齢は知らないが、実際に生きてきた年月からすれば同学年と言えかねないその世界の神秘を、シオンは頬杖を付いて眺めながらムスッと唇を尖らせた。
「……何が天才だよ、あのギターを聴いて良くそんな感想が出てくるもんだぜ」
「あァん? なに不貞腐れてやがんだァテメエ」
「……不貞腐れてねえよ」
しかし頬杖を付きながらジトっとした目つきを浮かべ、不満げに膨らませた頬を隠した姿は、どう見ても不貞腐れている人間のそれだった。
「ガッハッハ! 今のテメエの姿を見たら百人が百二十人とも言うだろうぜェ、テメエのお気に入りオモチャを奪われたときのガキのツラしてるってなァ」
「……ふん」
鼻を鳴らしたシオンはブラックコーヒーを仰ぎ飲む。確かな苦味とともに、芳醇な香りが舌から鼻を抜けていき、残されたカフェインがシオンの目と脳を刺激する。
実際のところ、シオンは不貞腐れているわけではなかった。
ただなんとなく。
淡い蛍火の中にいるような、仄かに揺らいだ月光の中にいるような……。
そんな余韻とも言うべきよくわからない感情に支配されているのは事実であり、適切な言葉が見つからないが故のもどかしさから不満げな態度を取っているだけである。
と、自分では分析している。
「あーわかった! えへへ〜、シオン、わたしと一緒にロックンロールがやりたくなったんでしょ! さっきの演奏、すごかったもんね!」
「……ねえよ」
「ふふん! 嘘ついてもわかるんだから! シオン、昨日もわたしの演奏を楽しそうに聞いてくれてたもん! ね、やろうよシオン! 絶対楽しいよ!」
「……しゃらくせえ」
くの字に尖らせた唇をへの字へと変化させ、シオンは上機嫌な少女の戯言を一蹴する。
「……ふん、たとえ俺が復帰することになったとしても、お前みたいな下手くそとは組まねえよ」
「おうおう小僧、捻くれんのも大概にしろよテメエ。テメエの耳は飾りかよ? 嬢ちゃんは下手くそなんかじゃねェ、天才だろうがァ」
「……事実だろ。ルナの演奏は初心者のそれだ。ただ見よう見まねで弦を弾いてるだけ。それが天才だと? はは、耄碌したもんだなぁ親父」
卑屈な態度を取っているという自覚はある。
シオンの言葉を聞いて「うぅ、練習すればわたしだって……!」とぶーぶーと唇を鳴らしているルナに対して心の隅では申し訳なくも思っている。
でも、抑えられない。
迷子になった澱みが胸の中で逃げ場所を探した結果なのか、刺立った言葉が口を突いて飛び出して行くことを止められなかった。
「フンッ」
ヒゲ親父は鼻息を鳴らしながら自らのヒゲを撫でると、その夜のように深い漆黒の瞳を細めて挑発するように、憐れむようにシオンを見つめてくる。
「目を、いやこの場合は耳かァ? ま、どっちでもいいが、ハンッ、目と耳を背けていりャ認めなくて済むもんなァ小僧」
「……何が言いたいんだよ」
含むような言い方をしてヒゲを撫で続ける親父に苛立ったシオンは、向ける視線を鋭くする。しかしヒゲ親父は動じることなくもう一度鼻を鳴らした。
「ハンッ! テメエも気づいてんだろうが小僧。ギター? 演奏? んなもんは嬢ちゃんの真価をはかる上でなんの物差しにもなりはしねえよ」
「……ならなんだよ。あんたは何をもってこいつが天才なんて馬鹿げたことを言ってんだよ」
「だからァ、分かりきったこと聞くんじャねえよォ」
ヒゲ親父はつまらなそうに小指を耳の中に突っ込んでクリクリと回し、こすり出した耳クソをふっと吹き飛ばしたあと、その口の端を吊り上げた。
「——歌だ。嬢ちゃんの歌には〝魂〟が宿ってやがった。オレもここで散々馬鹿ヤロウどもの歌を聴いてきたがなァ、こと歌に関しちャ紛れもなく、嬢ちゃんは〝天才〟と呼べる逸材のひとりだぜェ」
「……ちっ」
苛立たしい。
ヒゲ親父の言葉も、その何もかも見透かしてるぜという態度も、素知らぬ雰囲気で自覚のない鼻歌を奏でている存在も、何もかもがシオンを苛立たせる。
でも何よりも苛つくのは、ヒゲ親父の言葉が正しいと心のどこかで認めてしまっている自分自身に対して——だ。
「? どうしたのシオン?」
無意識のうちに、シオンはエルフの少女へと目を向けていたらしい。その視線に気がついた少女は奏でていた鼻歌を止めてコテンと首を傾けてくる。
……。認めているさ。
確かに少女——ルナメルディ・ハイドランジアは天性のボーカリストだ。
その屈託のない明るさと笑顔で観るものを惹きつけ、その薄紅色をした唇から発せられる涼やかで熱い透明な歌声は聴くものの〝魂〟を震わせてくる。
ただ無邪気に、心底から楽しいと思いながら歌っているということが伝わってくる、まだ何物にも染まっていない純白な歌声を、ルナメルディ・ハイドランジア——ルナはその下手くそな旋律の中に隠し持っている。
今はまだそのギターに気を取られて気づく者は少ないだろう。現に昨夜のライブではシオン以外の観客たちはその不協和音に耳を塞いでいた。
でもいずれ、ルナの演奏技術が向上すれば、あるいはギターを手放してボーカルに専念すれば、その歌声は大樹にまで届きうるとさえ感じる可能性。
そもそもの話、ヒゲ親父が〝天才〟と評するように、シオンもまた彼女のことを〝怪物〟と昨夜の時点で評しているのだから。
そんなことはとっくに認めている。
だが——。
「……〝天才〟だからどうした、〝怪物〟だからなんだって言うんだ。〝天才〟やら〝怪物〟なんてのはな、この街には腐るほどいるんだよ」
ユグドラシティは数多のロックンローラーが集まる街である。
それは同時に、大陸中から才能が集まる街であることを意味するのだ。
それは言うなれば、〝才能の博覧会〟のようなものだ。
強烈な輝きでさえもより強い輝きの前では埋没し、いずれは春風のように人知れず消えていく。
〝天才〟や〝怪物〟、〝鬼才〟に〝異能奏者〟……。
ありとあらゆる魑魅魍魎が蠢く蠱毒の如く世界で生き抜くためには、ありとあらゆる魑魅魍魎に負けないだけの意志と狡猾さが必要だ。
ハッキリと言ってしまえば、ルナにはそれがない。
意志はある。
だがその猫にさえ劣る狡猾さでは、いつかきっとその心まで食い破られてしまうだろう。
楽しさだけで歌うには、世界は黒く染まりすぎている。
「——。だからこそのテメエだろ?」
「……あん?」
深い思考に沈んでいたシオンの耳を打つ声に、シオンは目線をヒゲ親父に移す。
「……だからこその俺、だと? いったいどういう意味だよ、そりゃあ」
その真意が掴めず、シオンが困惑して眉を曲げていると、ヒゲ親父は「フンッ」と鼻を鳴らして、
「テメエの言うように〝消えた天才〟ってやつをオレだって腐るほどみてきたさ。いや、テメエ以上にみてきたなァ。金、運、戦略——。実力は当然として、この街で生きてくためには色んなモンが必要だ。けど嬢ちゃんには実力以外の何もかもがねえ。だからよォ、シオン」
と、ヒゲ親父はニカッとそのヒゲを持ち上げた。
「テメエが嬢ちゃんを連れて行ってやれや、〝大樹のてっぺん〟までなァ」
「——っ」
大樹のてっぺん。
つまりはユグドラシルの頂上。
そこまでシオンがルナを導いてやれ、そうヒゲ親父は言っているのだ。
「ふざけんな。んなこと出来るわけねえだろ。よしんば出来るとしても、何の義理があって俺がそんなことしなくちゃいけねえ?」
「ハンッ! テメエこそわかんねえやつだなァ、オレァテメエのために言ってんだぜェ?」
睨み合う二人。
過熱する舌戦を押し留めたのは、蚊帳の外に追いやられていた当人が上げた一声だった。
「——もー! さっきから天才とか怪物とか二人でなんの話してるの!」
ホットココアを飲み干した勢いのままに両手をテーブルに叩きつけて立ち上がったルナは、ふぬぬとその端正な顔に力を入れて怒りを示してくる。
「とにかく喧嘩はダメだよ! ダメダメダメっ!!」
ルナの言葉とともに漂ってくる甘い香りが鼻腔をくすぐり、熱せられた頭が鎮まっていくのを感じる。
それはヒゲ親父も同様だったようで、
「——ガッハッハ、すまねえ嬢ちゃん! 小僧の奴がなかなか強情でよォ! 柄にもなく熱くなっちまったぜェ!」
「……。俺だって別に喧嘩がしたいわけじゃない。ただヒゲが……」
「シ・オ・ン!」
「……ちっ、悪かったよ」
尚も続けようとしたシオンだったが、ルナの剣幕に押しやられる。その美貌からか、怒ると結構怖かった。
「ま、とにかくワシは嬢ちゃんが気に入ったァ! いいぜェ嬢ちゃん! 嬢ちゃんが欲しいってんならコイツを貸してやるよォ!」
「えっホント! シオン、一緒にやってくれるの!」
ころりと表情を柔和させるルナ。
「だから勝手にきめんな、クソジジイ。俺は絶対にやんねえぞ。第一、俺は仕事があるんだ。生活して行くための金がいるんだよ。どっかの誰かさんのせいで金がねえからな」
「まだ言うかよ、テメエ。ハンっ、なら——倍にしてやるよォ」
「……あん?」
ヒゲ親父の言葉にシオンの動きが止まる。
それから耳に届いた意味を徐々に理解し、その眉間にシワを寄せ、
「……親父、あんたいまなんつった?」
「テメェの時給を二倍にしてやるって言ったんだよォ。嬢ちゃんと一緒にロックンロールをするってんならなァ」
「……あんた正気か?」
「ガッハッハ、小僧に正気を疑われるほど耄碌したつもりはねえさ! そうすりゃテメェ、暇な時間が出来んだろう? その浮いた時間で嬢ちゃんに付き合ってやれェ」
「……」
言っている意味はわかる。しかしその理由がわからない。
いったいヒゲ親父に何の利があってそんな提案をするのだろうか。
「……親父、なんであんたはそこまでして俺にこいつと一緒にやらせたいんだ? いや、違うな……なんであんたは俺にロックンロールをやらせたいんだよ? あんた今までそんな素振りカケラも見せてこなかっただろうが」
「ガッハッハ! んなもん、決まってんだろうが。——テメエがいつまでもつまんねえツラしてっからだ」
「——」
「覚えてるかァ? テメエがこの場末の酒場に流れ着いたときのことをよォ」
「………忘れるかよ」
それは二年前の春。
暗闇しか見えなかった目が捉えたのは獰猛なヒゲで覆われた顔面。
『よお小僧、行き倒れるにしてもよォ、オレの店の前ってのはちと豪勢すぎるんじゃねえのかァ?』
『……あんたには俺が行き倒れてるように見えんのかよ?』
『おっと悪い、ホームレスだったか。ガッハッハ、歳とると判断力が鈍っていけねェ!』
『……金がねえんだ。もう何日も食ってねえ』
『んで? 哀れな子羊に同情したオレに飯を恵んでもらおうって腹かァ?』
『……』
『フンッ、残念だったなァ。タダで食わせてやる飯はねえよ』
『……そうか、悪かったな』
立ち上がって、ふらふらと去ろうとするシオン。
『待てよ小僧』
『……なんだよ?』
『ちょうどバイトが辞めちまってよォ、人手が足りねえんだ。働いて行くってんなら、まあ賄いくらいは出してやるぜェ?』
『…………助かる』
以来、シオンはこのカフェ兼酒場の店員として働き続けている。
「あんときテメエは言ったよなァ? 『……俺はいつかこの借りをあんたに返さなくちゃなんねえ。たっぷり利子付けてあんたのヒゲに突っ込んでやる』ってよォ。なァ、小僧……今がそのチャンスなんじゃねえのかァ?」
「……」
「オレァただの酒場の親父だァ。過去のテメエに何があったのかは知らねェし興味もねェ」
「だがよォ、シオン。——いつまでテメエを偽るつもりだァ?」
ヒゲ親父は言って、その漆黒の瞳でシオンのことを射抜く。
「その馬鹿ヅラに書いてあんぜェ? 嬢ちゃんの歌をもっと聴きてェ、嬢ちゃんと一緒にもっと演奏してェ、嬢ちゃんと一緒に——ロックンロールをやりてェってなァ!」
「……」
「認めろやァ、シオン。テメエの〝魂〟はこの嬢ちゃんに魅せられたんだ。いや、それ以前に、テメエの〝魂〟はとっくの昔に捧げられてんだよォ、ロックンロールの神様ってやつにな」
「……勝手なこと言ってんじゃねえ、ヒゲ親父。俺は——」
「笑ってたじゃねえかよ、テメエ」
「——」
「さっきの演奏中、嬉しそうに笑ってたじゃねえかよ、テメエ。気づいてなかったとは言わせねえぞォ。テメエ自身がいちばん良くわかってるはずだァ」
「……」
シオンは唇を噛みしめる。
シオンがさっきから感じていた感覚。
淡い蛍火の中にいるような、仄かに揺らいだ月光の中にいるような感覚……。
それは押さえつけられた歓喜が、それでも滲み出ようとせめぎ合った残滓によるものだったのだと、理解してしまう。
シオンは少女へと目を向けた。
今度はルナも話の内容を理解していたようで、その月色の髪をふわりと靡かせて、
「ね、一緒にやろうよシオン! わたし、シオンとならどこまでも行ける気がするの!」
「……」
それからヒゲ親父は「ハンッ」と顎を揺らして、
「世界はテメエの都合のいいようには出来ちャいねえさ。けどよォ、テメエの都合のいいように世界を変えてやることは出来んだよ。いいからやってみろよ、小僧。テメエを拒絶しやがった世界に、テメエの価値を証明してやれェ。テメエを嘲笑いやがった世界に、『すみません間違ってました』ってテメエに謝罪させてやれェ。テメエを見くびりやがった世界に、テメエ自身の手で復讐してやれェ。ガッハッハ、そういうもんだろォ? 〝ロックンロール〟ってやつァよォ!」
「………親父」
「ただァし——」
胸に去来した感情の整理の仕方をシオンが見つけ出すよりも先に、ヒゲ親父は口元をニッと綿毛のように弾けさせ、
「ただ漫然と過ごすだけじゃァ面白くねェ。条件、付けさせて貰うぜェ!」
獰猛なヒゲを光らせながら、カウンターの下から取り出した一枚の紙をシオンたちの前に叩きつけてきた。




