2 羽の無い鳥
――――
『さあ、私と一緒にここを出よう。こんな薄暗い所では息が詰まるだろう?光で満ちた世界へ』
暗闇へ光から手が伸ばされる。
その手に、ろくな治療も施されていない傷だらけの手がゆっくりと近づいて行く。
『大丈夫、私は君に危害を加えたりしない。助けに来たんだよ』
かび臭い牢の中に、陽の匂いが遅れて流れ込んで来る。
彼は自分の首に架けられたネックレスを外し、少女の首に腕を回し着けてやる。
『あなたは……だ、れ?』
水すら飲んでいない、掠れた声で少女は問うた。
彼は少し考えた後、指で眼鏡を正し言った。
「――――」
懐かしい、温かみのある声。優しく、心を包み込んでくれるような声。
『私と共に来ないか?私と、世界を超える旅をしないかい?』
『世界を、超える?』
これは、記憶?だとしたら何時の?
――――ああ、場面が変わる。
『師匠。次の行き先はどこですか?』
『そうだね……。まだ決めてない』
『ええ……』
彼女は呆れたように目を細め、それを見た男はカラカラと笑った。
『決める先が無い程、今は落ち着いているのさ。暫くはこの世界でゆっくりしよう。最近は忙しかったからね、身を落ち着かせよう』
『では毎日の手合わせをお願いしますね』
『ははは、参ったな。それでは疲れが飛ぶ気がしない』
二人は戦いの後であるというのにも関わらず、愉快そうに笑い合っていた。
『……セントヘレンズ、君は何かしたいことは無いのかい?』
彼はおもむろに呟いた。
『やりたい事は……、この旅です。師匠とのこの旅が私の生き甲斐ですから。この旅の終点に何が待つのか、私は楽しみでたまりません』
セントヘレンズがそう言うと、彼は嬉しそうな笑みを浮かべて彼女の頭を軽く撫でた。
『では私からひとつアドバイスだ。旅の終点は、旅の終わりには無いのだよ。――それは、君が創るんだ』
その声を皮切りに、彼の姿は小さな光となって消えていってしまう。
待って、行かないで。私はまだ、まだ師匠と。
約束を、果たせてない。
非情にも、伸ばした手は虚無を掴んだ。
――
「……っ」
見慣れない天井、背中に硬い感触。伸ばした手が空を必死にまさぐっている。
彼女は鈍器で殴りつけられるような頭の痛みを押さえつけながら体を起こした。
何をしていたのか、記憶の断片が頭の中で混ざり合い思考が纏まらない。
確か、ルトゥキアと刺し違えてそこで意識を失ったはず。
であるならば、ここは一体何処なのか。
辺りをぐるりと見回してみると、ごちゃごちゃと物の置かれた棚に、資料が山積みに置かれた机。
どれもこれも見慣れない物ばかりで、乱雑に置かれている数多の機械においては、その用途に微塵の予想もつかない。
バキバキと痛む全身に鞭を打ちながら、寝かされているベッドから身を起こし、降りようとした所で軽い金属音と共に腕が引かれ、体が引き戻される。
「……っ、拘束具か」
右の手首には、ベッドの一部に取り付けられた拘束具が嵌められており、この場からの脱出が不可能になるようにされていた。
遥か昔の記憶が断片的にフラッシュバックし、脳を針で続かれたような痛みが走る。どうも薄暗い場所にいると過去の事を思い出してしまう。
「が、問題は無い」
彼女は拘束具に指を当てて軽く力を込める。すると髪のひと房の色が抜け、同時に拘束具の一部がドロリと融解する。
いとも簡単に拘束具を外した少女はベッドから降り、腕を上へと伸ばし、背中に溜まった凝りを解す。
そして手を正面に伸ばし、空間を切り裂くように腕を降ろす。が、言葉通りその腕は空を切り、その軌跡には何も起こっていない。
「……っ。無い」
いつの間にか着させられていたやたら清潔感のある衣服越しに全身を弄ると、そこにはいつも肌身離さず身に付けていた懐中時計が無くなっていた。
辺りを見回してもそれらしき物は見当たらなかった。どうやら所持品などは没収されているようである。
「全部返してもらおうか」
特にあれだけは渡すわけにいかない。
遥か昔、師から受け継いだ大切な物。ここに閉じ込めたのがどんな人間か分からないが、それを奪おうとするのならば容赦はしない。
彼女がおもむろに手を壁に着いた。と思えば、次の瞬間その壁は紙のように吹き飛んでいた。
無数の木の破片と埃が舞い、視界が一気に悪くなる。彼女は顔の前を軽く手で払い、崩壊した壁を潜り抜けた。
どうやらここは宿舎のようで、壁の先は薄汚れた廊下のようになっていた。そのまま外に出ても良かったが、所持品を取り返さなければならないのでどちらかと言えば好都合か。
「私をこの場に閉じ込めた事、後悔させてやろう」
彼女はニヒルな笑みを浮かべ、廊下を一歩踏み出した。
――
「で。結局監禁した訳か。で、どうするつもりだ?あの女の事は」
レイが大きなため息を着きながら、報告書を前にペンを動かす手を止めた。現状、此度の零化への報告書にセツナが回収してきた少女の情報は一切書き加えていない。第一、零化の割れ目から現れてきた少女など本部は信じるとは思えないが。
「昔の映画にあったねえ。空から女の子が降ってきて、その女の子が空に浮くお城のお姫様だったっていう」
トコルがホットミルクの並々注がれたマグカップを片手に椅子に寄りかかりながら貧相なクッキーを頬張る。
「セツナ曰くニゲラと交戦していたから少なくとも敵では無い。らしいが、ホントにそう簡単なモンかね」
「……さあ。その場にいたのはセツナだけだから。……あいつしかその判断は出来ないよ。シュンジ、そこのバレル取って」
「ん」
「……ありがと」
バラバラに分解したナナフシを前に、星霜とシュンジは武器の整備をしながら会話に混ざる。
「んまあ、セツナが何と言おうと最終的にゃレイさんが判断するんだから。俺たちがあーだこーだ言うだけ無駄だな」
トツサは星霜の扱うマチェーテの刃を研ぎ、表面に浮かんだ粉を軽く吹いて落とした。
「その当人のセツナはどこに行ったんだよ。あいつからの話を聞けば判断の材料になるかもしれないぜ?」
シュンジが顔を上げ、レイに視線を向けた。しかし彼女は数度首を振り、肩を落とした。
「セツナは落下の衝撃で全身の骨が危うく逝くところだったからな。治療は済んだし、動くことに支障は無いが。今は絶対安静」
「……ホウジャクもかなりダメージを負ってた。……元々がボロだから直すのも大変だった」
星霜が口を尖らせて言った。セツナと星霜の機械イジりの能力には通ずるものがあり二人の仲は基本良好なものであるが、過度な負担がかかると星霜は機嫌を損ねる事がある。
「また俺たちのケラの分から修理費を引かれたよ。ったく勘弁してくれよなあ?俺たちがどれだけ繊細にケラを操作してもホウジャクの修理代をしょっぴかれたら堪んないぜ」
「……それはセツナに言って」
「「……」」
ケラ搭乗組は二人顔を見合せて深々と溜息をつき、星霜は小さく肩を竦めた。
「よし、出来た。これをトゥルナに届けて貰って――」
「レイ!!!!!!」
刹那、部屋の扉が乱暴に開け放たれそこから焦燥の表情を浮かべたトゥルナが入って来た。
「おぉ~、丁度良かったトゥルナ。この報告書を本部に届けてもらおうと」
「それっ……どころじゃ、ない」
トゥルナは荒らげた息を膝に手を付きながら整え、顔だけこちらに向けて言った。
「あの子が……、脱走した」
「「「「「「…………はあ……!?」」」」」」
その場にいる全員が素っ頓狂な声を上げ、目を丸くした。少女の監禁の様子は、それぞれレイから聞いている。片腕を実際に使われる拘束具でベッドに固定し、部屋の外に見張りも置いていた。
仮に拘束具を外せた所で、見張りが脱走を悠々と見逃す訳が無い。窓も無い部屋であるし、あそこからの脱出は余程の規格外の力が無い限りは不可能だろう。
「脱走ぉ~?見張りも置いてただろ?」
「……外壁を、破って……出たらしい……」
「……」
レイは顔を青くして頭を抱えた。どうやら余程の規格外の力の持ち主だったらしい。
「任務終わりに面倒な……。星霜、外に出て物見台から状況の観察。トツサ、シュンジ、トコル、君たち三人は監禁室に向かって。私は……少しここに残るから」
「ま、ちょうど整備もダレてたし気晴らしにいいかな」
「……外に行ってひたすら監視させられるこっちの身にもなってよ……」
星霜はがっくりと項垂れ、他三人はうんと背筋を伸ばすとすぐさま部屋を飛び出て行った。
「セツナ君が心配?」
「心配というか、彼はこの事情を知らないだろうし。あの少女を助けたのも彼だから心配なだけだよ」
「そ」
トゥルナは素っ気なく返すと、踵を返し部屋の扉に手をかけて動きを止めた。
「じゃあ私は医務室にいるから。事が終わったら来なさいな」
扉の奥に白衣に身を包んだ彼女の姿が消える。先程まで賑やかだったこの広間に、静寂が走る。
彼女は机の上に散らかった書類の山を整え、順番を揃えて確認を行っていく。
ペラ、ペラと紙を捲る小さな音が部屋の中に響いていた。
――
「監禁室ってどこだっけ!?ってかここ来てまだ数日なのに分かるわけないか!?」
トコルが小さな体躯に似合わぬ俊足でだだっ広い廊下を駆ける。
「三階、一番東側」
その後ろに続くトツサが淡々と答え、シュンジが茶化すように口笛を鳴らす。
「ヒューッ、よく覚えてんなそんな事」
「俺は便所が近いから施設内の地図とか確認するんだよ。そしたら監禁室なるものがあったからさ」
「監禁室って……何監禁するんだよこんな環境で」
「零化が怖くって錯乱する兵士も多いんだってさ。放置しておくと士気も下がるし他の兵士に影響出かねないからね。鎮静剤ぶち込んで監禁室に入れとくんだってよ」
「うへえ……、聞きたくなかった」
「対零化部隊の闇だよね」
トコルがカラカラと笑い、シュンジが目を細めた。
一行は階段を駆け上がり、三階に辿り着く。すると案内を見ずともトツサが進むので、二人は得な考え無しにその後ろを着いていくことにする。
「うわお。言われなくても分かる、これじゃん」
その彼がピタリと足を止めると、その先にあるのは巨人が拳を叩き付けたのかと思う程の大きな穴が空いた廊下の壁。言わずもがな、その少女がここから脱出したというのが分かる。
「壁をぶっ壊すって、ゴリラかよ」
「あっ、見張りの人だ。埋もれてるよ」
壁の破片に埋もれ、上半身が地面との隙間から覗いている。三人はそこへ駆け寄ると、木片を除け見張りの男を引っ張り出した。
「大丈夫?怪我は?」
「……あ、ああ、平気だ。助かったぜ。何か中でゴソゴソ言うから目が覚めたかと思えば壁が吹き飛んでよ。澄ました顔で出て行きやがったぜ、あのアマ」
彼は悪態を着きながら吐き捨てるようにいい、体に纏わりついた木の粉を手で払い落とした。
「どこに行ったのか知らない?どっちに行ったとかでも良いんだけど」
「……壁の残骸に巻き込まれて何も見えなかったからな……分からない」
「そか、ありがと。医務室にトゥルナがいるから診てもらいなよ。連れて行こうか?」
「いや、一人で行ける」
彼はトコルの手を振り払い気だるげに立ち上がった。
「分かった。…………もうここにはいないみたいだね。他を当たろうか」
「おうよ」
三人が踵を返して元来た道を戻ろうとする。
「あ、そういえば」
が、見張りの男の声に引き止められトコルは首だけをそちらに向けた。
「どしたの?」
「思い出したんだ。取り返してやるって言ってたんだ。そいつの所持品がある場所って分かるか?」
「所持品かあ。……そういえばセツナに預けてたっけ。医務室にあるんじゃないかな。情報ありがとう」
「ん、頑張れな」
男は三人の後ろ姿を眺め、その影が階段の方へ消えるのを確認すると監禁室の中へ足を踏み入れた。
「――悪いね。返すよ」
彼はおもむろに服を脱ぎ始めたかと思えば、その服をベッドで寝かされている男の上に積むようにして置いていく。
驚く事に、ベッドで寝かされている寝ている男、とそれに脱ぎ捨てた服を重ねていく男の容姿は瓜二つ。まるで鏡でも見ているのでは無いかと思うほどに見た目がそっくりなのであった。
「さあて、医務室か」
しかし彼が顔を一撫ですると、まるでテレビのノイズが入ったかのようにその顔がブレる。
と思えば顔が大きく変化し、長く伸びた翠色の髪の毛がふさりと頭から垂れる。
「私は失った物を取り返す」
――
「で、大丈夫そうなんですか?放っておいて」
「んー?まあ何とも言えないって感じよ。どうなるかは彼女次第。ただの医者の私には何もできないかなあ」
医務室に戻ったトゥルナはさっきまでの緊迫した表情とは打って変わって気楽な様子で適当に茶葉を詰め込んだティーポットにお湯を注いでいた。
「俺は敵には見えなかったんすけどね」
一方セツナは病用のベッドにあぐらを組んで腰掛け、工具箱と様々な部品をおっぴろげて何やらガチャガチャと手先を動かしている。
「にしてもよくあれだけの高さから落下してその程度で済んだよ、セツナ君。君の骨はステンレス製か何かなのかい?」
「ホウジャクの機構が単純で欠陥まみれなのが幸いしたかもですね。底なんてベコベコだし」
セツナは遠い目で窓の外に目をやった。そこには既に修復を終えたホウジャクが彼を待つかのようにそこに佇んでいた。
此度の修理の殆どは星霜がやってくれたのだろう。これは後で愚直られるな、と思い彼は小さく息を吐いた。
「……皆は?」
セツナがおもむろに尋ねると、トゥルナはそう言われる事を察していたかのように答えた。
「シュンジ、トツサ、トコルの三人組はあの女の子を探しに。星霜は外の櫓から見張りを。レイは書類整理に追われてるわしいわよ」
ジョバジョバと礼儀作法も無い手つきで紅茶をカップに注ぎ、一息で喉に流し込む。空のカップを突き出し首を捻り、ジェスチャーで紅茶を飲むかどうか聞いてきたが、セツナは小さく首を振って返した。
「三人ともそう簡単に死ぬようなタマでは無いでしょう。気にしないで大丈夫よ」
「俺があの面々の安否を気にすると?」
「勿論」
即答で返され、セツナはニヤリと口角を持ち上げる。
「そんな話をしている内に。奴さん、登場だぜ」
「っ」
トゥルナが息を飲んでセツナの指さす方向を振り返り見た。
「……びっくりした。こんなに早いとはね」
そこに佇んでいるのは、奴さんこと翠色の髪を揺らす少女。どのような感情かも分からない表情でじっとこちらを見つめ、一言も言葉を発さずに一歩ずつ距離を詰めてくる。
「……不気味だな、お前を助けたのは俺だぞ?」
セツナはベッドの上で手を広げ、作った嘲笑を浮かべた。
「別にあのままでも私は死んでいない」
初めて少女が口を開いた。静かな流水のような滑らかな声、しかしその裏には何か黒い塊があるような気配がした。
「治療を施してくれた事は感謝している。だからこれ以上何かをして貰う必要も無い。……私の持ち物を返してもらおうか」
「……良いよ、別に。ほら、そこに置いてるだろ」
セツナが指差した先に彼女は目を向ける。資料やら薬品やらが無残に散らかったその机の上に、丁寧に折り畳まれた衣服と、幾つかの装飾品などが並べられていた。
「……」
少女はそれらを訝しげに見詰めた後、こちらに敵意が無いことを察したのか、荷物を手に取ってそれぞれを確認し始めた。
沈黙の、気まずい時間が流れる。セツナとトゥルナも時折互いに目配せして、その時間を凌ごうとしていた。
「……私の懐中時計は?」
が、その沈黙も彼女の一声によって破られる事となる。
「……そんなのあったっけ?」
鋭い視線がセツナに向けられ、彼は思わず目を逸らした。
「惚けてるんじゃあないだろうね。私が肌身離さず身に付けている懐中時計が無くなるはずが無い」
じり、と彼女の足が地面と擦れる。そして彼女の翠色の髪の色が抜けていき、まるで絹のような純白へと変化する。
「……どこへやった?」
「セツナ君!!!」
「くそっ!」
やがて少女の体が光り輝き、突き出された腕から一直線に熱線が放たれる。
セツナはベッドのシーツごと転がり落ち間一髪で回避する事に成功する。
「トゥルナさん、フラッシュ!!」
「――――っ!」
セツナのその叫び声に反応し、トゥルナは目を瞑り耳を手で塞ぐ。その瞬間、銀色の筒状の物がベッドの脇から放り投げられ空中で爆発する。
閃光手榴弾、通称フラッシュバン。他の手投げ弾と同様にピンを引き抜き投擲すると爆発をするものだが、それとは異なり殺傷能力は無い。
しかし、爆発と同時に大音量と閃光が放たれ無警戒の人間は一瞬行動が停止する。
「――っ!?」
トゥルナは咄嗟に構えを取ったから得な影響は少ないが、少女はその爆発をもろに受けてしまう。溢れ出る閃光と爆音に思わず体を屈ませ、目を背ける。
その隙にセツナは窓ガラスを突き破って外に躍り出て、軋む全身に鞭を打ちながら裸足で硬いコンクリートの上を駆ける。
「くそっ」
少女はベッドから彼の姿が無いのを確認すると、悪態を着きながら続いて窓から飛び出す。
「私から逃げられるとでも!?」
走る内に少女の走る足が段々と宙に浮き、地面スレスレで浮遊しながらグングンと距離を詰めていく。
「俺の足はコイツさ」
セツナは開け放しにされたホウジャクのコックピットに飛び乗り、慣れた手つきでエンジンを掛ける。今にも止まりそうなエンジン音と機体の軋む音と共にホウジャクのプロペラの回転が始まり、一対のタイヤを引きずりながら加速を始める。
やがて機体が勢いに乗り、翼が揚力を得て地面から飛び立つ。後ろを追いかける少女も驚いたように目を丸くしていたが、一瞬口元を歪ませると同様に空に舞い、その後ろを追いかけ始める。
「俺ドッグファイトなんて経験ないんだけどなあ」
ホウジャクの梶を片手で取りつつ、もう片方の腕で額に滲んだ汗を拭う。
普段付けているゴーグルもフライトキャップも何も身に付けていない。衣服なんてペラペラの医療着である。高度を出せばコックピットの隙間から入る風に目を打たれ、寒さで体が強ばるだろう。
しかし、彼は操縦をしながら口を歪ませる。
それは背後を負う少女が浮かべた物とよく似ていた。
――――
「トゥルナさん今の音って――!!」
騒ぎを聞き付けてきたトコル、トツサ、シュンジの三人が医務室に飛び込んで来る。そこには辺りに散乱したガラスの破片と、それをいそいそと塵取りと箒で掻き集めているトゥルナの姿があった。
「セツナがあの子に追われてホウジャクに乗っていったのよ。手ぶらのまま飛び乗って行ってしまったけれど……」
「随分と達観してるんすね……」
シュンジがそう呟くとトゥルナは振り返り小さく笑って言った。
「空を飛べるのは彼だけ。私たちは彼が飛び立ってしまったら呼び戻すことも出来ない。まるで虫のようにね」
「……燃料を満タンに入れておいて良かったよ。……また怖しでもしたら次はセツナ一人に修理させる……」
「星霜!」
重そうにナナフシを担ぎながら、星霜が医務室に入って来る。
「……とっくに射程距離を外れちゃったからね……。暑っつい中外でいてもしんどいし。……先に上がらせてもらったよ……」
はあ、と深いため息を着きながら星霜はその場に座り込んでナナフシの解体を始める。そしておもむろに思い出したかのように言った。
「……飛び立った虫を止められないと言ってたけど。……飛び立つ前にその羽をむしってしまえば、飛び立つことすらままならないだろうね」
特に感情の含まれない彼のその一言に、全員が背筋を凍らせた。感情を顕にしないからこそ、彼の時折放たれる不穏な言葉には毎度毎度肝を冷やされる。
「とりあえず、ガラス片を片付けて貰える?医務室に細かなガラスが散乱してたらまずいでしょう?」
「セツナの事は本人に任せた方がいいでしょ」
トコルがその場に屈み、転がったガラス片を一つ摘み上げた。
刹那、耳を劈くような警報が部屋中に響き渡り、その場にいた全員が顔を持ち上げた。
『ハチドリ、他部隊聞こえているか。現在上空に突発的な零化の兆候が見られた。未だニゲラの出現は確認されていないが直に発生する可能性がある。各員戦闘配置につくように』
少し焦りを感じるレイの声が、部屋のスピーカーの中から聞こえてきた。それを聞いて各々眉をひそめる。
「このタイミングで?」
「普段は何かしら兆候があるのに珍しいね。とりあえず準備しに行こうか、ここの掃除は帰って来てからだね」
「そうね、終わってからゆっくりやりましょう。私も準備しないと」
それぞれが重い腰を持ち上げ、医務室を後にしようとしたところでシュンジがあ、と一言声を上げ踵を返した。
「どうしたの?シュンジ君」
「ニゲラが出現しそうだってこと、セツナは知らないっすよね」
それを聞いて皆がはと首を持ち上げる。最初に口を開いたのは星霜であった。
「……今のホウジャクは殆ど武装も積んでないよ……。とてもじゃないけどニゲラと戦うのは……」
「それに本人だってろくな装備を付けてないだろ。俺たちとの無線も不可能だ。ニゲラが発生しそうな事を連絡する手段すらねえ」
シュンジが頭をガリガリと掻きむしりながら唇を噛んだ。
「……そうね。とりあえずレイの指示を仰ぎましょう。各々準備をして集合よ」
こういう時、包容力のあるトゥルナの言葉があると統率が取れ次への行動へ素早く移ることが出来る。情に流される事が少なく、いつも落ち着いで状況を判断する事が出来る。医者としているには勿体無い逸材なのである。
――
「……そうか。セツナが……」
セツナが単身ホウジャクに乗り、謎の少女に追い掛けられている事。そしてそのホウジャクにほとんど武装が取り付けられていない事をレイに伝えると彼女は顔を曇らせた。
「空は彼の独壇場だ。我々に何か介入できる余地は無い。彼の事は彼本人に委ねるしか選択は無いだろう」
本当なら何かしらの方法で手を差し伸べてやりたい所なのだろうが、彼女たちにそれをする手立ては無い。彼女は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、改めてハチドリの面々に目を向けた。
「幸い、今回の零化の規模は小さい。観測されているエネルギーも普段よりも小さいものだ。だが彼がここへ戻って来た際には装備の補充が出来るように手配をしておこう」
さて、今回の作戦の説明だが。とレイは続けた。
「小規模な零化ではあるが各々気を抜かないように。セツナの報告によると我々の未確認のニゲラがいるようであるし。何か異変があった場合は直ぐに無線を使って状況をハチドリと共有すること。……今回の零化だが発生場所が前回の第五地区の隣、第十地区と十一地区の上空だ。仮テントは前回と同じ場所のものを使う。歩兵部隊の方は間もなく準備が完了するようだ。私たちハチドリも出来るだけ急ピッチで準備を済ませるように」
「「「了解」」」
「まずは上空で戦闘にあたるホウジャクがいないと仮定すると大半は地上での総力戦になる事が想定される。数は少ないかもしれないが、兵装にも余裕を持たせるように。まずは星霜、君が第五地区の廃ビルの屋上から狙撃ポイントに着きたまえ。前回少数だがそちらを狙った攻撃が見られた為、今回は歩兵部隊から一人引き抜いてスポッター兼護衛として横に置く。……まあこき使いたまえ」
「……分かりました。では先に」
「うん、気を付けて」
高所に登る手段が限られている星霜は移動に時間を要する。後の作戦は耳に取り付けた無線機から聞くとして、彼はナナフシの収められたケースを担いで足早にその部屋を後にする。
「続いてシュンジ、トツサの二人。今回の戦場である第十、十一区は多くの住居やビルなどの建物の残骸が残っている。忠告は不要かもしれないが、死角の増える市街地戦が想定される。歩兵部隊と上手く連携を取って細かな所まで視線を配るように」
「「応っ」」
「トコルは今回も歩兵部隊の先導兼地上からの火力支援を頼む。先に言ったように多くの建物が残っているから、爆発物の扱いには気を付けるように……、と言ってもその心配は無用か」
「壊してもいい物が多い分、私の火力は上がるからねぇ」
幾つかの筒に分解した神切をポンポンと手で叩き、彼女は白い歯をむき出してケラケラと笑った。
「以上、後は戦場の様子を見つつ追って連絡する。解散!」
その声で、全員が違う方向に向かって散っていく。
ホウジャクを抜きにした、ハチドリの最初の任務である。