婚約破棄を撤回しようったってもう遅い!結婚はビジネス(契約)なんですよね?
「婚約を破棄したい」
ワーナーからそう告げられたのは、とある夜会会場だった。
「――――婚約破棄、ですか」
わたしは確認のために、彼の言葉を繰り返した。
煌びやかな会場の片隅で、わたしとワーナー、それから見目麗しい金髪の令嬢が三人、言葉少なに見つめ合っている。嫌でも周囲の耳目を集めているのを感じながら、わたしは小さくため息を吐いた。
「どうしてなのか、理由をお聞きしても?」
「君には悪いことをしたと思っている」
わたしの問いかけに、ワーナーは穏やかな笑みを浮かべながらそう答えた。幼子を宥めるような、人を小ばかにしたような口調。残念だけど、とても『悪い』と思っている人間には見えない。半ばうんざりしながらも、わたしは彼の次の言葉を待った。
「だけどな、リーザ……結婚はビジネスなんだ」
そう言ってワーナーは、傍らの女性を抱き寄せた。
鮮やかなブロンドに目が覚めるようなピンクのドレス。好戦的な瞳でわたしを見つめながら、女性は笑う。
「セルマの親父さんは投資家なんだ。丁度今、次の投資先を探している所らしい。商工会に顔も広いから、味方に付いてくれれば、うちの事業を今よりもっと拡大できる。だから僕は君ではなく、セルマと結婚することに決めたんだ」
セルマは誇らしげに胸を張りわたしを見下ろす。まるで自分の方が上だと誇示するかのような笑みだった。
「それに加えてこの美貌。田舎臭い君とは大違いだ。彼女ならうちの事業の顔になれる。実業家として、それから一人の男として、僕はセルマに惚れたんだ」
ワーナーの言葉に、セルマはうっとりと頬を染め、目を細めた。
(ビジネスねぇ)
事業主であるワーナーの父親が、ワーナーの企みを把握しているとはとても思えない。知っていたら、全力で止めに掛かったはずだ。
そして、そんなことも分からない人間が『ビジネス』なんて宣っていることが、わたしには可笑しくて堪らなかった。
「まさか! リーザでも人前で泣くのか……っ!」
ワーナーはそう言って息を呑み、眉を顰めた。わたしを心配しているように見せて、実際は『婚約破棄を惜しまれる自分に酔いしれている』のだろう。
おあいにく様。わたしは泣いているんじゃなくて笑っているの。声上げたいのを必死で堪えてるんだから、これ以上笑かさないでほしい。
「……失礼。状況はわかりました」
わたしは咳ばらいをしながら、ワーナーたちに向き直った。
このタイミングで『了承』の意を伝えるのは簡単だ。わたしからすれば、思いもよらない形で好機が舞い降りてきたのだし、逃がす手は無い。
けれど、目の前にいるのは、曲がりなりにも数年間を婚約者として過ごした男だ。最後に慈悲を与えても罰は当たらない気がする。
「だけどワーナー、よろしいのですか? 本当にわたしと婚約破棄してしまって。せめてお父様に相談されてからの方が――――」
「リーザ……君が僕を諦めきれない気持ちは分かる。だけど、僕たちはもう終わったんだ」
そう言ってワーナーはわたしのことを抱き締めた。キツめのコロンの香りに咽せながら、わたしは思い切り顔を顰める。慈悲なんて与えなきゃよかったと切実に思いながら、わたしはワーナーを押し返した。
「いえ。あなたが良いならそれで構いません。その代わり、あとで後悔しても知りませんからね?」
「後悔? そんなもの、僕がするわけないだろう」
期待していた通りの言葉。内心ほくそ笑みながら、わたしは小さく首を傾げる。
「そうですか。では、実業家らしく約束は書面で行いましょう?」
今宵は貴族の中でも事業を主にした人間の集まり。紙もペンも好きなだけ手に入る。
わたしの提案に、ワーナーは迷うことなく頷いた。
***
彼がわたしの家を訪れたのは、それから数日後のことだった。
「リーザ! 一体、どういうことだ!」
来客対応中のわたしに構うことなく、ワーナーは目を吊り上げ、声を荒げる。
「どういうことだ、とは?」
「――――おまえのとこから仕入れていた糸が手に入らなくなったんだ! それだけじゃない! 羊毛や革……仕入れていた材料の殆どの値段が高騰していて、とてもじゃないが手が出せない!」
ワーナーは顔を真っ赤に染め、ブルブルと身体を震わせていた。余程慌てて来たのだろう。いつも隙なく整えられた髪型は乱れに乱れ、服もヨレヨレになっている。
「だから言ったじゃありませんか」
そう口にしつつ、自然ため息が漏れる。わたしの物言いに憤慨したらしく、ワーナーは身を乗り出した。
「だから言った⁉ 僕は何も聞いていない! 不当な値上げに抗議するどころか、父上は僕が悪いと――――勘当するって言いだすし! 何が何やら……」
「ふふっ」
わたしは思わず声を上げて笑ってしまった。この期に及んで事態を理解できていないあたり、やっぱりワーナーはとんでもない不良債権だった。痛手なしに手放せたことは幸運以外の何物でもない。
「何を笑っている! この……」
「やめろよ」
わたしに掴みかかろうとしたワーナーを理性的な声音が静かに制する。
「だ、誰だ、おまえは」
初めからわたしの向かいに座っていたというのに、ワーナーは彼に気づいていなかったらしい。狼狽えながら、数歩後退った。
「ワーナー、こちらはハンティントン伯爵よ。まだ若いけど、ご自分で事業を幾つも手がけていらっしゃるすごい方なの」
(あなたとは違ってね)
心の中でそっと付け加えながら、わたしは穏やかな笑みを浮かべる。
伯爵は柔和で温厚、上品な立ち居振る舞いが印象的な好青年だ。粗野で野性的なワーナーとは正反対。何より、実業家としての実績が天と地ほど違った。
「ジュード・ハンティントンです。自己紹介が遅くなりました――――いきなり話に割り入られたものですから」
「あっ……いや、その。気づかなかったもので……」
格上の伯爵相手では、さすがのワーナーも下手に出ざるを得ないらしい。顔を真っ赤に染めて縮こまっていた。
「それで、わたしが笑った理由だけど」
少し落ち着いた所で、わたしは話を本題に戻す。
「ワーナー、あなたはあの日、結婚はビジネスと言ったわよね?」
「……っ! そうだ。だからこそ僕は、君との婚約を破棄したんだ」
伯爵の手前先程迄の勢いは収まっているものの、ワーナーの興奮はまだまだ醒めないらしい。しかし、冷静になるのを待ったところで、彼一人では一生答えに辿り着けそうにない。わたしは大きくため息を吐いた。
「うちにとっても、あなたとの結婚はビジネスだったの。ワーナーと結婚するからこそ、あなたのお父様に通常よりも安い値段で糸や布を卸していたし、色々と融通を利かせていた。そっちの方がうちにも旨味があるからね。……だけど、婚約を破棄したんだから、もうそんな必要はない。不当に値上げをしたんじゃなく、本来の適正価格に戻したってだけの話なのよ」
まったく、説明するのがバカらしくなるくらい単純な話だ。だけどワーナーは、その辺の事情はおろか、彼の父親の取引先がうちだってことすら碌に知らなかったはずだ。そう思うと、ワーナーの父親がひたすら気の毒だった。
「あれが適正価格⁉ ぼったくりの間違いだろう!」
「失礼な……うちの素材は一級品なの。あれより高い価格で良いから、もっとうちに卸してほしいって方がたくさんいらっしゃるのよ?」
チラリと伯爵を覗き見ながら、わたしは微笑む。何を隠そう、彼もそんな顧客の一人だ。
「でも、良かったわ。これまでワーナーのお父様に卸していた分を他の方に卸せるようになるから、すごく助かっちゃう。顧客の皆さまにも喜ばれるわ。ありがとうね、ワーナー!」
わたしはワーナーの手を取り、彼を真っ直ぐに見上げた。ワーナーは真っ赤な顔をし、怒りで小刻みに震えている。
(うーーん、ちょっと煽り過ぎたかな?)
押し黙ってしまったワーナーを見つめながら、わたしは苦笑を漏らす。さっさと話を終わらせたかったのだけど、逆効果だっただろうか?
「――――――取り消そう」
「はい?」
その時、ワーナーが再び口を開いた。
ぼそっと低く響いた言葉は、耳を疑いたくなるもので。わたしは思わず聞き返す。
「俺たちの婚約破棄を取り消そう、リーザ」
ワーナーはそう言って、わたしの手をギュッと握った。気持ちの悪い作り笑いに、鬱陶しいまでの熱視線。わたしの背中にぞぞぞっと悪寒が走る。
「無理です! 絶対、無理!」
「何故だ? 俺たちの婚約破棄はまだ正式には成立していないだろう? 今ならまだ間に合うはずだ」
後退るわたしにワーナーが詰め寄る。
これ以上この男に関わりたくない。眩暈を覚えつつ、わたしは首を横に振った。
「残念ながら、あなた方の婚約破棄は回避不可能です」
その時、伯爵がわたしたちの間に割り入った。彼は穏やかに、けれどキッパリとそう口にし、ワーナーを真っ直ぐ見つめる。
「なっ、何故ですか?」
ワーナーは眉間に皺を寄せ、伯爵に喰ってかかった。わたしはもう一度、深々とため息を吐く。
「ワーナー、今回の婚約破棄について、わたしたち書面で約束を交わしたでしょう? 『今後絶対、何があっても、婚約破棄を撤回することは無い』って」
「あっ……」
わたしの指摘に、ワーナーは口をポカンと開け、視線を彷徨わせた。どうやら、ようやく思い出してもらえたらしい。
「だ……だけど、そんなの無効だ! あんな紙切れ、なんの役にも立たないじゃないか! 破いてしまえば良い! そうだろう⁉」
(紙切れ? ビジネス云々言って婚約を破棄した人間が、『紙切れ』ですって?)
わたしは呆れて物も言えなかった。
「残念ですが、それは無理なお話ですよ」
「だから何でですか⁉」
諭すような口調の伯爵に、ワーナーは口を荒げる。最早体面を取り繕うことすら出来なくなっているらしい。ここまで来ると、何だかワーナーが可哀そうになってきた。
「あの夜、あなたがリーザ様に婚約破棄を言い渡しているのを、何人もの人間が聞いていました。二人が書面を交わしたことを証言できる人間がたくさんいるんです。リーザ様が復縁を望んでいるならいざ知らず、明確に拒否していらっしゃるのですから、書面を破いたところであなたの希望が叶うことはありません」
伯爵はわたしが言いたかったことをすべて代弁してくれる。あんな当たり前のこと、口にするのも嫌になるレベルだろうに。わたしはありがたくて堪らなかった。
「うっ……だけど――――だけどな、リーザ! 一度婚約破棄を経験すると、嫁の引き取り手は中々見つからないらしいぞ?」
「はぁ……まぁ、そうでしょうね」
そんなこと、言われなくたって分かっている。大体、そうと分かっていて婚約破棄をしてきたのは他でもない。ワーナーじゃないか。
わたしは眉間に皺を寄せつつ、ワーナーをじっと睨みつけた。
「悪いことは言わない! 僕ともう一度やり直そう! それが君のためだ! なっ!」
「それについては問題ありません」
そう口にしたのは伯爵だった。思わぬ返しにワーナーが身を乗り出す。
すると伯爵は、そっとわたしを抱き寄せ、目を細めて笑う。心臓がドクンと跳ねた。
「あなたの言葉を借りるならば――――俺たちは今、大事な商談中なんです」
「――――――――――――はぁ⁉」
ワーナーは大きく目を見開き、わたしたちを凝視した。
伯爵はわたしを腕の中に捕えたまま、ニコニコと楽しそうに笑っている。生まれて初めて経験する男性の温もり、その包まれている感覚に、わたしはドキドキが止まらない。ワーナーの厭味ったらしい香りとは違う、上品な香りがすごく心地よかった。
「あなたが、リーザを⁉」
「……俺だけじゃない。リーザ様を妻にと望む人間は山ほどいるんだ。君と婚約していたから遠慮していただけで、本当は皆、この機会をずっと待っていたんだよ」
伯爵はそう口にしつつ、熱っぽくわたしを見つめる。
少し話が盛られているようには思うけど、実際、ワーナーと婚約破棄した夜以降、わたしのもとには結構な数の縁談が舞い込んでいた。
「じゃあ俺は……俺は一体どうしたら…………」
愕然と崩れ落ちるワーナーに、わたしと伯爵は顔を見合わせる。
「地道に新規取引先を開拓するとか、量は減ってもうちとの取引を継続するとか、市場価格を見直すとか、できることはたくさんあると思いますけど」
少なくとも、彼が今いるべき場所はここじゃない。
検討できることは山ほどあるんだから、とっととそれに気づいて欲しい。
「それに、あなたの新しいお相手――――あのセルマを広告塔にするっていう案自体は悪くないと思うわよ」
「ほっ、本当か?」
「ええ」
頷きながら、わたしは微笑む。事業の基礎をすっ飛ばしたがためにこうなっただけで、彼の発想全てが悪いわけじゃない。
(まぁ、ここから這い上がるのは相当難しいと思うけど)
涙目のワーナーを見下ろしながら、わたしは小さくため息を吐いた。
「ワーナーが失礼をして、すみませんでした」
ようやくワーナーを追い返すことに成功し、わたしは再び伯爵と向かい合う。
「いえいえ、とんでもない。この場にいたのが俺で良かったよ」
伯爵は朗らかに笑いながら、じっとわたしを見つめてきた。
(見れば見るほど、綺麗な顔立ちだなぁ)
サラサラした薄茶色の髪の毛、青い瞳、透き通るような白い肌――――見ているだけで眼福だ。
正直言って伯爵は、これまで雲の上の存在だった。取引のために頻繁に家に来ていたけれど、話し掛けることなんてできなかったし、わたしには興味がないと思っていた。
「それで、先程の話の続きなんですが」
唐突に現実に引き戻され、わたしは急いで居住まいを正す。心臓がドキドキと騒ぎ出した。
「結婚相手として、俺を選んで貰えませんか?」
真っ直ぐに注がれた視線は熱く、わたしの心を大きく揺さぶる。
選ぶだなんて畏れ多い。彼の元にはそれこそ、山ほどの縁談が舞い込んでいるはずだ。それなのに、わたしへ結婚を持ち掛けるだなんて、きっと何かの間違いに違いない。
それに、契約には互いの対価が釣り合う必要がある。その点わたしじゃ失格だ。
「ですが、ジュード様が抱えていらっしゃる事業に比べると、うちは規模も小さいですし、家格だって……」
断腸の思いで、わたしはそう口にする。
本当はわたしだって、こんな素敵な人と結婚出来たら嬉しい。でも、やっぱり……ねぇ?
「事業はリーザ様の目に留まりたくて頑張っただけだよ」
「え?」
伯爵はそう言ってゆっくりとわたしの手を握る。温かい手のひらから、彼の緊張が伝わってくるようだった。
「この家へ――――君に会うキッカケを作りたくて始めた事業が成功して、気づけばここまで大きくなってた。リーザ様の婚約が決まった時は本当にショックで……でも、諦めなくて本当に良かった」
困ったように笑う伯爵は、普段の大人びた表情からは想像もつかない。可愛いだなんて思っては失礼かもしれないけど、わたしは見事に心を撃ち抜かれてしまった。
「結婚がビジネスだなんてとんでもない。俺はリーザ様に惹かれたんだ」
こんなことがあって良いのだろうか。わたしの瞳に薄っすら涙が溜まっていく。
「俺と結婚してくださいませんか?」
伯爵が照れくさそうに、けれど真っ直ぐにわたしを見つめている。
頷きながら、わたしは満面の笑みを浮かべたのだった。