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最終話

 翌日、朝一番にシャロンからの手紙が届いた。恐る恐る開けてみると、昨日の非礼への謝罪と、自分も同じように結婚を楽しみにしている、というような内容が綴られていた。

 手紙を出そうにも何と書いたらいいものか悩んでいたオリヴァーだったが、先に届いたシャロンからの手紙の返信という形で体調を気遣い、近い内にまた会おうと伝えた。すぐに是との返事があって、ほっと胸を撫で下ろす。


 一晩経って落ち着いたのだろう、手紙は普段と同じ調子だ。オリヴァーが仕事に没頭しすぎて食事や睡眠を疎かにしないよう気遣う言葉も添えられていて、昨夜の帰りの馬車での様子は微塵も感じられなかった。

 しかし、どこかまだ不安が残る。婚約して三年ほどになるが、あんなシャロンは初めて見た。いつも笑っていて、瞳の中に星屑を詰め込んだようにして見上げてきていたシャロンが、泣きそうになっていた。

 手紙では相手の表情は分からない。文章だけならばいくらでも取り繕える。近い内にまた会うのではなく、もっと具体的な約束をした方が良さそうだと考えながらその日の仕事を終え、夜に屋敷へ戻った時のことだった。


「オリヴァー卿!」


 帰るなり使用人に客間へ連れられ、何事かと部屋に入ればそこにいたのはシャロンの侍女だった。彼女の主人であるシャロンの姿はなく、たった一人でここへ来たようだ。


「このような時間に、お許しも得ず訪問する無礼をお許しください」


 もう夜遅いと言ってもいい時間に、女性がたった一人、事前の伺いもなく他家を尋ねるとは滅多なことではない。表には馬車も停まっていなかった。両家の距離はそう離れていないとは言え、まさか徒歩で来たのではないだろうか。

 いずれにせよ、あまり良くない事態であることは想像に難くない。


「構いませんよ、リスベス嬢。それよりシャロンに何か?」

「それが……お嬢様が……」


 立ち上がってオリヴァーを迎えるリスベスを再び座らせる余裕もなく聞けば、侍女は非常に言い辛そうに口を開いた。


「卿もご存知の通り、昨夜からご様子がおかしくて……恐らく昨夜はほとんど寝ておられないと思います。お食事も今日は一口も召し上がっていないんです。ずっと座ってぼうっとなさって、心ここにあらずなようで……」


 言ってしまえばそれだけのこと。怪我や病気などではなく、この程度のことで気にしすぎだと言えばその通りかもしれない。しかし、長年シャロンの世話をしてきた侍女にとっては、主人の今までにない様子が心配で堪らないようだった。一応の寝支度を整え下がった後、一人で走ってオリヴァーに助けを求めに来てしまうくらいには。


「このまま昔のお嬢様に戻ってしまわないか、心配なんです」

「昔?」

「お嬢様はお小さい頃はよく、可愛らしい人形のようだと言われていました。誰の言うこともよく聞いて、いつでもご機嫌がよくて。一人で本を読んで過ごすのがお好きだったので、使用人の手すら煩わせることはありませんでした」


 それが変わったのは三年ほど前、オリヴァーに出会ってからのことだった。初めて婚約者に会った日の夜のことを、この侍女はよく覚えていた。


「卿に初めてお会いになった日、部屋に戻られてからの興奮と言ったら……あの頃はお嬢様が何をおっしゃっているのかさっぱり分かりませんでしたが、とにかくお嬢様は変わりました。いつでもご機嫌の良いお人形ではなくて、心からお笑いになることが多くなりました。ご自身のお好きなものについて語る時は本当に楽しそうで、ご友人も増え、毎日楽しそうで」


 でも、と言葉を区切る侍女の目尻に、涙がにじんだ。手がかからないのなら以前のシャロンの方がいいだろう。しかしこの侍女はそれを望んではいない。人形のようなお嬢様より、人間としてのシャロンを望んでいることが伝わってきた。


「私の勘違いだったのかも……。やっぱりお嬢様は私たちと一線を引いて、物語を読むように私たちを見てるみたいで……」

「物語を読むように、ですか」


 この一言がどうにも引っかかる。オリヴァーのことを「キャラクターとしては好き」と言っていたことを思い出した。


「失礼を承知で申し上げますと、お嬢様があのようなご様子になったのは間違いなく卿が原因なのだと想っています。でも、また明るいお嬢様に戻せるのも、卿だけだと信じています。だからなるべく早く、お嬢様を訪ねていただけないでしょうか。可能であれば明日にでも」

「分かりました。今、シャロンは自分の部屋に? もう寝間着ですよね? 近くにショールや上着のようなものは?」

「え? あ、ええと、そうです、寝支度を整えましたので、ご自分の部屋でお過ごしのはずです。寝台の側にショールを置いてありますが……卿?」


 ここでようやく、オリヴァーはリスベスをソファに座らせた。メイドを呼んで、リスベスに温かい茶を新しく用意し、落ち着いたら馬車でライリー邸へ送るように指示を出す。

 同時に、オリヴァーは自身の足元に魔法陣を展開し始めていた。空間転移の魔法だ。これから馬を走らせるより遥かに早く、シャロンの元へ行くことができる。

 濃くなっていく魔力に気が付いたリスベスが、ぎょっとした顔で魔法陣とオリヴァーの顔を見比べている。小言は後でいくらでも聞いてやるつもりで、何も気づかないふりをした。



 瞬き一つの間に景色が変わる。

 視界に飛び込んできたのはシャロンのうなじだった。下ろした髪を前に流しているせいで、首筋が丸見えになっている。窓を開けたまま机に向かって座り、手元の明かりだけで本を読んでいるようだ。オリヴァーはその真後ろに現れた。


 細くて白いうなじを事前の心構えなしに見てしまったオリヴァーは慌てて周囲を見回し、ショールを発見した。足元は毛足の長い絨毯で覆われているため、ショールを取ってシャロンの背後に近づくオリヴァーの足音は聞こえていないようだった。

 何をどう言っても驚かれるのは間違いない。とりあえず思ったことを口にしながらシャロンの肩にショールをかけ、丸見えのうなじを隠した。


「昨日、風邪を引かないようにと言ったばかりだけど?」

「うぎゃっ!」


 声を発した途端、シャロンは短い悲鳴を上げて椅子から飛び上がり、勢いのまま寝台に潜り込んだ。その反動で落ちてしまったショールを拾い上げていると、シーツの隙間から様子を伺うシャロンと視線が合う。


「オリヴァー様!?」

「急にすまない。魔法を使って来た。あとで必ずご両親にも謝罪するから、今、少し話せないか?」

「……」


 魔物でも見るようにオリヴァーを見ていたシャロンの目は、すぐにシーツで隠されてしまった。返事はないが、ここまで来ておいて引き返すつもりも毛頭ない。とは言え夜もいい時間、寝支度を整えた令嬢の部屋に二人きりというのはまずいので、オリヴァーはまず部屋の扉を少し開けた。一応、廊下を見るが誰もいない。そのうちリスベスが戻るか、話し声に気が付いた誰かがやって来るだろう。

 扉を開けたまま部屋の中に戻ると、先程までシャロンが座っていた椅子を寝台の脇まで移動させて、オリヴァーはそれに腰を下ろした。


「……君を困らせて、ごめん」


 やはり答えはない。それでも急かすことはせずに辛抱強く待っていると、シーツに包まったシャロンが僅かに身じろぎをした。


「謝るのは私の方です……もう、どうしたらいいのか分からなくなってしまって……本当にごめんなさい……」

「シャロンが謝る必要はないよ」

「私、自分がこんなにメンヘラっぽい人間だとは思ってなくて」

「めんへら?」

「何だかんだでこの人生を満喫してそれなりに楽しく、でも淡々と、死ぬまで生きるつもりだったのに……」

「……もう少し詳しく聞かせてもらっても?」


 シャロンは時折、意味の分からない言葉を使う。すぐに話題が切り替わってしまうので掘り下げて聞いたことはなかったが、今回はそれでは駄目だと思われた。

 

「話しても信じてはもらえないと思います」

「君がわざわざ、そんな前置きをしてまで嘘を付く人間じゃないことは分かってるよ」


 またしばらく、無言の時間が続く。五分か十分はそうしていたところ、シャロンがシーツから出てきた。目線は合わせないが、寝台に向かって座っているオリヴァーと向い合せになる。薄い寝間着一枚のシャロンに再びショールを羽織らせると、婚約者はようやく視線を合わせて僅かに笑った。


「本当に、絶対にすぐには信じてもらえないと思います。それでもいいです。私も……時間がかかりましたから」

「うん、分かった」

「では申し上げますが、私には前世の記憶があります」


 流石に、オリヴァーも何と返事をしたらいいものか迷った。前世というと、それを真面目に研究しているような人間もいるが、基本的には世間から眉唾扱いされている話だ。前世の記憶があるという人間が報告されていても、どれも事実を証明することはできていない。


「机に置いてあるノート、よかったら見てみてください」

「……これ?」


 オリヴァーがこの部屋に現れた時、シャロンが読んでいたものだ。本だと思っていたが、手書きのノートらしい。言われて手に取り、パラパラと頁をめくる。どの頁を見ても、見覚えのない文字――と呼んで良いのかも判断できないが、とにかくオリヴァーには解読不可能だった。


「そのノートに書いてあるのは、前世の私が使っていた文字です。私の生まれた国ではカンジ、ヒラガナ、カタカナの他に数字、アルファベット……いろんな種類の文字を組み合わせて使ってたんですよ。今にして思うと、すごいですよね」


 読めないながらも文字を目で追ってみると、同じ文字が頻繁に出てくるのが分かる。文字の形も大きさも整っており、日常的にこの文字を使っていたのだということは想像できた。


「生まれてからずっと、この世界は夢みたいなものだと思ってました。やたら現実的な小説の世界を、長いこと実体験しているような。次に生まれ変わるまでの間ってこんな感じなんだ、でもいつ終わるんだろうって思いながら過ごしていました」


 侍女が「物語を読むように私たちを見てるみたい」と言っていたのは、気のせいなどではなかったのだ。


「オリヴァー様のことも……本当に大好きなんです。でもずっと最推しみたいに思っていて。オリヴァー様かけるトラヴィス様に萌えていたんです。だからそこに私が入っては絶対に駄目で、モブなり当て馬なりでなければと。前世の私はオタクで()()()だったんです。ずっと二次元一筋だった私がナマモノなんて本当に戸惑ったんですが……止められなくて……!」

「……シャロンが婦女子であることは間違いないと思うが……」

「チーズは牛乳には戻れないということです。ごめんなさい、少し話が逸れました」


 オリヴァーは脳の疲れと同時に安心を感じ始め、肩の力を抜いた。相変わらず意味は分からないが、話してはくれている。昨日の馬車の中でもそうだったように、一度語り出すと止まらなくなる節があるらしい。

 惚れた弱みか何かは知らないが、前世の記憶があるという話を頭ごなしに疑う気持ちは芽生えていない。とにかく、シャロンが思ったことを思ったまま口にできることの方が重要だった。この話は両親にも侍女にも話したことがなかったのだろう。ずっと彼女一人で抱えていたのだ。


「……昨日、オリヴァー様に好きと言っていただけたのは嬉しかったです」

「じゃあ……!」

「ですが」


 開けた窓から風が吹き込む。下ろしたシャロンの長い髪までが揺れて、それまでの空気が一変したかのようだった。


「そのおかげでようやく私は、この世界が夢でも物語でもないと分かったんです。現実世界で生きている方に対して、オリヴァー様に対して、私はなんて不誠実なことをしていたのかと、思い知りました……」


 パタパタと、シーツに染みがにじむ。シャロンが泣いていた。昨日からシャロンの初めての表情をよく見る。今までは現実ではないと一線引いていたから、涙を流すことはおろか、必要以上に感情を突き動かされることもなかったのだろうか。


 オリヴァーは指で優しく涙を拭ってやりながら、喜びを噛み締めていた。シャロンの話の真偽はともかく、人形のようだと言われていた彼女の感情を動かしたのは、オリヴァーだということに他ならない。

 シャロンが人形でなくなったのは、オリヴァーと出会ったから。シャロンがこの世界を現実だと認められたのは、オリヴァーが告白したから。

 やはり、これで期待するなという方が無理な話だ。


「私の話、聞いてましたか?」

「聞いてたよ」

「ではどうして、そんなに嬉しそうな顔をしてるんですか……」


 質問している口ぶりの割には、答えが分かっていそうな顔をしている。泣きながら顔を真っ赤にしているシャロンはショールで顔を隠そうとしたが、オリヴァーはそれを許さず、顎を掴んで視線を合わせた。少し悪戯心のようなものが芽生えてしまっていた。


「顎クイ……!」


 シャロンはまた何やらよく分からない単語を呟いている。そしてギュッと目を閉じたのを見て、オリヴァーは言った。


「今はまだ、俺のことを異性として好きになれなくてもいい」

「……?」


 何もないと分かって薄目を開けて見てくるのが可笑しい。こんな顔を見せてくれるのはシャロンに前世の記憶があることと関係しているのだろうか。それとも、元々の性格なのだろうか。いずれにせよ、オリヴァーにとってシャロンが愛しいのは変わらなかった。


 顎はすぐに解放してやって、代わりにショールを握りしめている左手を手に取った。薬指にはオリヴァーが贈った指輪が光っている。指輪の上から口づけを落とすくらいなら許されるだろう。


「今日から毎日君を口説くよ。だから早く、俺のことも好きになってくれ」

「……はい」


 昨日はあんなに冷たかったシャロンの指先が、今日は熱いくらいだ。オリヴァーの手も同じように熱くなっているのだが、彼女は気が付いただろうか。


 そうこうしているうちに、ルーフェン家の馬車で送られてきたらしいリスベスが戻って来た。時間切れとなったオリヴァーはシャロンから手を離し、居場所を侍女に譲る。

 シャロンが「心配かけてごめんね」と声を掛けると、リスベスは床に膝を付いて大泣きした。シャロンも同じように膝を付き、泣いている侍女を抱きしめる。すると侍女は更に大泣きし、こんな時間に何事かと人が集まってくる事態となった。


 この後、集まったうちの一人であるシャロンの父により、いくら婚約者とは言え未婚女性の部屋に云々とこってり絞られることになるのだが、オリヴァーはどこ吹く風の様子だったという。

 侍女の背をさすりながらオリヴァーと目を合わせたシャロンが、花のように顔をほろこばせて笑ったから。オリヴァーの胸がそれだけでいっぱいになっていたことなど、本人以外、誰も知るはずがなかったのである。

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