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1話

 ある日の午後のことだった。

 研究に一区切り付けたオリヴァー・ルーフェンは、まだ陽が高い空を見上げ、婚約者であるシャロン・ライリーを思い浮かべていた。天気もいいし、少し街にでも出ないか誘ってみるのはどうだろう。庭で茶を飲みながら話すだけでもいい。


 呪術専門の魔法研究という職業と、垂れ眉釣り目に濃い紫のうねる髪という少々陰鬱な見た目に似合わない自覚はあった。しかし天気の良さと、理想通りに進む仕事に気分を良くしながら、オリヴァーは軽い足取りで婚約者の元へと向かう。

 出迎えたライリー夫人は突然の訪問にも関わらず、オリヴァーを歓迎した。そしていたずらを思いついたように言った。


「娘は今、自室で侍女と過ごしておりますわ。こっそり訪ねてみては?」


 普通であれば、ここで断るべきだった。婚約者とはいえ事前の約束もなしに令嬢を尋ねたのだから、三十分や一時間は待ってしかるべきだった。

 だがオリヴァーは断らなかった。夫人がそう言ってくれているのだから。婚約者を驚かせたいから。急な訪問でもきっと喜んでくれるだろうから。これがまずかった。


 メイドに先導されて、足音を消して廊下を歩く。見慣れた扉の前でメイドは立ち去り、ノックしようと手を伸ばした際に聞こえてきた台詞に、オリヴァーは動きを止めた。


「私がオリヴァー様を好きかって?」


 せめて、ここですぐにノックしていればよかった。だが好奇心に負けた。いや、好奇心と言うには少し違う。答えは期待したもの通りだと疑っていなかった。だからこそ先の言葉が聞きたくて、ノックしようとしていた手を引っ込め息をひそめる。


「そりゃあ、キャラクターとしてはとても好きよ。あの垂れ眉に切れ長の釣り目、いわゆる狐顔で本当に私の好みドンピシャだもの。ものすごーく性格が悪そうなインテリ、眼鏡じゃないけど陰険腹黒参謀系、王道ではないところがまた私の性癖に突き刺さる! 濃い紫にゆるく波打つ髪も、いかにも! って感じだし」


 キャラクター? 王道? 性癖?

 よく分からない。好きと言われてはいるが、同時に悪口も言われているような気がする。褒められているのか貶されているのか――しかし悪意は全く感じない。このやや理解不能なところが、オリヴァーの婚約者の特徴でもあるのだが。

 

 部屋からは悲鳴と笑い声が一緒になったような明るい声が聞こえてくる。シャロンは侍女とのおしゃべりに夢中になって、扉の外の気配に一切気がついていないようだ。誰かが聞き耳を立てているなどとは思ってもいないだろう。

 侍女が何かを口にした。扉から離れた位置にいるのか、何を言ったのかは分からない。それなのに、婚約者の声はやけによく聞こえた。


「私がオリヴァー様を異性として慕っているかというと、それは違うわ」

「……は?」


 思わず声が出た。慌てて口を塞ぎ、もう片方の手で、心拍数の上がった心臓のあたりも押さえる。

 幸か不幸か、シャロンは気づいた様子もなく話を続けた。


「人としては好きよ。立派な方だと思うわ。顔も好き。だけど、私はどうしても……」


 シャロンが言葉を区切る。オリヴァーが聞き耳を立てていられたのは、そこまでだった。人として好きで顔も好みだけど、とまで持ち上げておいて、後に続くのがいい言葉なはずはない。上から下に叩きつけられるだけである。


 オリヴァーはそっと扉から離れて、自邸へ戻ることにした。ライリー夫人には急ぎの仕事を一つ思い出してしまったと嘘を付く。部屋の前までは行ったが結局声をかけずに戻って来たから、今日訪問したこと自体、言わないでおいてほしいと頼めば、夫人は心得顔で頷いた。


 徒歩で自邸に戻る道すがら、オリヴァーは聞くのを止めた話の続きを考える。人として好き、顔も好き、でも――と続くのは何か。


「まさか……他に好いた男が?」


 一番簡単に想像できて、可能性が高そうなのがこれだ。しかしシャロンに限ってそれはないはずだと首を振る。すれ違う通行人の訝しげな視線には気が付かない。


 シャロンはオリヴァーのことが好きなはずだ。直接的な言葉で言われたことはないが、婚約してからというもの、先程のようにオリヴァーの顔を褒めることはよくあった。親切で誰にも公平で、素晴らしい人だと言って微笑みかけることも多い。ただし、ものすごく性格が悪そうで、陰険だの腹黒だのと言われたことはないが。

 言葉がない時も、オリヴァーを見つめる瞳はきらきらと輝いて、熱がこもっていた。それは間違いなかった。


 加えて、シャロンには男っ気がない、とオリヴァーは思っている。家族や男性使用人を除いては婚約者であるオリヴァーしかいないはずだ。時々、オリヴァーの同僚や友人たちと言葉を交わすことがあるが、挨拶をしたら邪魔にならないように静かに控えているか、早々に辞するか。

 決して出しゃばることはなく、さりとて貴族令嬢としての立ち居振る舞いに不足があるわけでもない。ちょうどいいさじ加減に、本家の跡取りである従兄などはシャロンに感心していたほどだ。従兄の婚約者は少々、出しゃばりたがる気があるらしい。しかしそれは珍しいことではなく、シャロンのちょうど良さの方が珍しい部類なのだ。


 社交の場にも、婚約して以降はオリヴァーの同伴でしか参加していないはずだ。令嬢同士の茶会には時々顔を出しているようだが、参加するのは気心の知れた令嬢のみだと聞く。婚約者同伴でオリヴァー含む男性陣が参加したことはないので、その茶会は完全に令嬢たちだけで楽しんでいるのだろう。


 そんなシャロンに、婚約者以外の好いた相手がいるとは考えづらい。そうと考えたくないだけかもしれないが。かと言って、あの発言の続きが他には想像できなかった。


 歩いているうちにルーフェン邸に到着する。シャロンに会いに行こうとするまではあんなに軽い足取りだったのに、今では沼地に足を取られたような感覚だった。天気の良さも憎たらしい。


「よう、オリヴァー。今日は早いじゃないか」


 重い体を引きずって屋敷に入ったオリヴァーに声を掛けるのは、従兄のトラヴィスだった。オリヴァーにとっては本家の跡取りでありながら、実の兄のような存在でもある。お互いの屋敷によく出入りしているため、彼がここにいても驚きはない。


「区切りが良かったから早めに切り上げて来たんだ。で、今日はどうした?」

「一つ報告があって叔父上と話してた。帰ってきたならちょうどいい、ちょっとお前の部屋いいか」


 トラヴィスは言うやいなや、オリヴァーの返事を待たずに踵を返した。しっかりオリヴァーの自室方面だ。今はそれどころじゃないと反論する気力もないオリヴァーは、黙って従兄の後に従った。余計なことは言わずに適当に話を聞いて、さっさと帰ってもらうに限る。


 今のオリヴァーにとって重要なのは『シャロンはオリヴァーを異性として好いていなかった』という事実だけである。だがそれでもいいではないか。オリヴァーは開き直り始めていた。

 貴族の結婚などしょせんそんなもの。てっきりシャロンに好かれていると思っていた手前、彼女のあの発言には激しく衝撃を受けた。オリヴァーのいないところで出た言葉ならば、シャロンの本音だと思っていいだろう。

 だが、これから結婚するまで、そして結婚した後も、二人の時間はたっぷりあるのだ。シャロンの婚約者はオリヴァーであり、シャロンの未来の夫はオリヴァーである。公的な書面を二部作成して双方の家でしっかり保管してある、この上なくきちんとした関係である。そうそう簡単に覆せるものではない。

 異性として好いていなくても、いずれ好きになってくれたらいい。具体的にどうしたらいいのかは分からないので、多少は時間に物を言わせることになりそうだが、とにかくオリヴァーに思いつく方法はそれしかなかった。


 しかし、オリヴァーの計画とも呼べない計画は、トラヴィスの報告によって早々に吹っ飛んでいった。


「婚約破棄!?」

「ああ」


 やや身を乗り出して、従兄の台詞を復唱する。今日は早く帰れと念じていてのに、詳しく聞かずにはいられなかった。

 曰く、トラヴィスの婚約者――件のやや出しゃばり気味な令嬢から、婚約破棄の申し出があったらしい。トラヴィス側もそれを受け入れ、現在は婚約破棄に必要な書類を整えている最中だとか。


「……浮気でもしたのか?」

「俺は断じてしてない……向こうは分からんが」

「と言うと?」

「向こうの言い分を要約すると、俺があんまり構ってやらなかったもんで、もっと自分を愛してくれる相手と結婚したいと。あの様子では『もっと自分を愛してくれる相手』とやらにあてがあるようだがな」


 オリヴァーは思わず頭を抱えた。それを見た従兄は首をかしげる。


「なぜお前が、自分自身の身に起きたかのような様子なんだ」

「明日は我が身かと思うと……」

「どういうことだ?」


 訝しむトラヴィスに、オリヴァーはほんの少し前の出来事を話した。時間はある、結婚した後でも構わないから、いつか相思相愛になれたらいいと思っていた自分が浅はかだと思う他ない。そんなことを考えている間に別れを切り出される可能性だって十分にあると、なぜ気が付かなかったのか。


「あの令嬢が本当にそんなことを言ったのか? ずいぶん仲睦まじいように見えていたけどな」


 上手く行っていると思っていたのはオリヴァー本人だけではない。トラヴィスが言うように、周囲の目にも二人には何の問題もないように映っていた。主にシャロンがオリヴァーに好意を寄せ、オリヴァーも満更でもないような様子だった。


 多くの貴族がそうであるように、オリヴァーとシャロンも親同士が決めた政略結婚だ。しかし、初めて顔を合せた時から婚約者を見るシャロンの目は星を詰め込んだかのように輝いていた。その視線には明らかに熱が籠もっていて頬まで赤らめているものだから、それに気づいたオリヴァーは若干引いた。

 なんせオリヴァーは異性からの評判があまり良くない。第一印象がとにかく陰鬱なのである。加えて、オリヴァーの職業を聞くと陰鬱に陰鬱が重なり、研究が佳境に差し掛かり徹夜でもしようものなら、隈ができて更にそれらしく仕上がる。

 今まで少しでも結婚の話が出た令嬢からは全員断られている。もっと華々しい容姿、華々しい職業の男が人気なのだ。


 にも関わらず、シャロンは初対面からオリヴァーに好意のようなものを寄せていた。今までにない反応に若干引いたが、次第に慣れた挙げ句、絆された。

 初対面から何ヵ月経っても、シャロンがオリヴァーを見つめる視線は変わらない。最初は物珍しさでもあったのだろうかと思っていたが、そうではないと気がついてからは早かった。坂を転がり落ちるのは簡単だ。


「お前も哀れだな」

「あんたに言われたくはなかったが」

「俺は結婚相手なんて条件さえ合えば誰でもいい。お前と一緒にするな、この失恋男」

 

 オリヴァーはまた頭を抱えた。失恋、この一言が胸に突き刺さる。

 婚約者を好きになり、両想いだと思っていたのに、結局一方通行だったらしいのだ。確かに失恋と言っても差し支えないのだが、改めて言われるとショックが大きい。


「いや、だからほら、そんなに気に病む必要はないんじゃないか? ってことだ」


 深い溜め息を吐き切ると黙りこくってしまった従弟に、トラヴィスはやや焦ったように言った。


「お前は俺とは違う。ちゃんとシャロン嬢のことが好きで、お前なりに大事にしてたんだろ。まめに自分から会いに行くし、折々の贈り物も忘れない。それであんなに仲良さそうに見えるんだから、間違っても婚約破棄とはならんだろう」

「……そうだろうか」


 婚約破棄されたトラヴィスがオリヴァーを慰め、相談に乗っている。立場が逆のようだが、トラヴィスは『次の相手選びが面倒だな』程度にしか思っていないので、本気で自分のことより従弟のことを呆れつつも心配しているのである。


「これは母から言われたことだが、いつの時代も、男女に足りないのは話し合いだそうだ。俺も自分の結婚観を相手と話し合っていれば、婚約破棄なんぞならんかったかもしれん」

「話し合い、か……」


 思い当たる節はある。オリヴァーが直接的な言葉で想いを告げたことがないのはもちろん、どちらかと言うとシャロンがあれこれ話し、オリヴァーが聞き役に回ることが多かった。それが楽だったし、婚約者の声を聞くのが好きだったという理由もあるのだが、話し合いと言われると確かに足りていなかったかもしれない。

 慌てずに頑張れ、と言って帰っていく従兄を見送ったオリヴァーは、その夜を眠れずに過ごした。研究に没頭しているのとは違う意味で目が冴えていた。


 シャロンはオリヴァーを異性として好いていなかった。どうせ相思相愛だからと油断していたオリヴァーが悪いのだが、従兄のように婚約者を失いたくはない。それだけでなく、自分のことも同じ意味で好きなってほしいと願っている。

 初めはシャロンに気圧されて引き気味だったくせに、今ではすっかり状況が変わっている。これが惚れた弱みだと気がついたのは奇しくも、両想いではないと分かったからだ。


 オリヴァーは決意した。まずはこの想いをしっかり伝えよう。そしてシャロンの愛を乞うのだ。

 そのための具体的な方法が分からないから時間に物を言わせるなど、言語道断。オリヴァーは一晩中考えて考えて考え抜き、結局一睡もできないまま朝を迎えたのだった。

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