第1-1話 状況整理をしよう
通い慣れた学校。自分の部屋の次に滞在時間が長いんじゃないかと思える教室。極々ありふれた机と椅子。その空間に押し込められた三十人ほどの同級生。
淡々と過ぎていく日常に俺はつまらなさを感じていた。
三角関数の積分なんていつ使うのだろうか? 俺は必要性を感じない。
数学教師の伊藤も、それを示さないまま、ただ授業を行い、テストを受けさせて成績をつけているだけだ。今も教科書に書いてある問題を黙々と黒板に書き写してやがる。
別にこの問題がわからないわけじゃない。単純に必要性を感じないからノートに何も書かずぼーっとすぐ隣にある窓の外を眺めているのだ。別にわからないわけじゃない。
今日は良い天気だ。俺の心の中にあるようなもやもやとした雲は一つもない。憎らしく思えてくる。
そんな感傷に浸っていると、隣の席の河合が、
『おい! 起きろ!』
と、声を掛けてきた。普段、目も合わせないくせに急に何を言ってやがる? それに俺はぼーっとはしていたが、目は開いてるし意識もしっかりしている。わけがわからない。
すると、頭に軽い衝撃を受ける。
『このやろ! えい!』
河合は殴るようなかけ声を出しているが、実際には顔だけこちらに向けて右手にシャーペン、左手はノートの端を押さえている。こいつ超能力者か? 声だけで俺に打撃を加えてくるとは。
俺が困惑していると、
『やめなよー。かわいそうだよー』
と、可愛らしい声が聞こえてきた。これは後ろの席にいる飯島さんに違いない。
飯島さんはクラス一の美人だ。その視線は毎日俺の背中に注がれていることは知っている。俺も罪な男だぜ。クラスの男子が憧れている飯島さんは俺に夢中なのだ。その証拠に河合による謎の攻撃を止めようとしてくれている。
『確かにねぼすけさんだけど、叩くのはよくないよー』
後半はその通りだと思う、さすが飯島さん。だが、前半は間違っている。俺は起きているのだ。こうなったら俺のナイスなスマイルを飯島さんに見せて起きていることをアピールしよう。
そう思い、体を反転させると世界は暗転した。
光を感じると俺は薄っすら目を開いた。視界はボヤけているが、光の源となっている太陽と、青く美しい空が見える。意識がはっきりしてくると背中に柔らかいような固い感触を感じる。どうやら俺は寝転んでいるようだ。ゆっくりと体を起こし、はっきりしてきた視界で辺りを見回すと、ポツリポツリと立っている木と遠くの方に緑の山が見える。下を見ると芝生のような短い草が生え揃った地面があり、俺はその上にいた。
「やっと起きたか。おい、ねぼすけ! さっさと立て!」
寝起き早々、命令口調でそう頭の上から声がした。どうやら河合ではなかったようだ。親交はないけど疑って悪かったな河合。
立てと言われたので素直に立ってやる。すると、目の前に小さい黒いウサギがいた。立っているはずなのに目の前にウサギなのだ。
それもそのはず、このウサギはウサギのくせに蝙蝠のような羽が生えている。右眼は赤く左眼は黒い。おまけに首元には白っぽいリボンを付けて小さい頭には小さい一本の角が生えているときたもんだ。
はて?
見たことも聞いたこともない種類のウサギだ。捕まえてどこかの動物園か研究施設にでも売り飛ばせば金になるかもしれない。俺がそんなことを考えていると、
「よお! えらく遅い起床だな、社長さんよ!」
喋った。しかも皮肉を効かせた言葉を投げつけられた。やはり研究施設行きか。
「だめだよ、ガーディ。おはようって言ってあげなきゃー」
その声は飯島さん、と思ったが、飯島さんはこんなぽわぽわした声ではなかった気がする。いつも休み時間に俺が机に突っ伏して寝たフリをしている時、クラスの女子と話しているのを聞いていたのでその声は記憶している。では一体誰なんだ、と疑問を解決するために声が聞こえてきた方へ振り向くと、
「おはよう!」
挨拶された。白いウサギに。
この、小さいウサギも羽が生えていて俺の目の前にいる。右眼は黒く左眼は赤い。おまけにこちらもピンクのリボンを付けて小さい頭の上には小さい天使の輪のようなものが浮いている。たしかに、羽も天使っぽい。ここは天国なのだろうか。
俺はますます混乱する。たしかにウサギは一羽、二羽と数えるので飛んでいてもおかしくない。いや、おかしい。ウサギの鳴き声は聞いたことないが、それは黙っているだけで人の言葉を話せてもおかしくない。いや、おかしい。
「なに唸ってるんだこいつ?」
「さあ……?」
ウサギに怪訝そうな顔をされた。表情がないはずのウサギだが、そう感じる。というか、している。
もう何が何やらどう考えても自己解決できそうになかったので、俺は勇気を出して訊ねてみることにした。
「あっ、あの……、少し訊いてもいいですか?」
「おっ? なんだ訊いてみろよ!」
「どうぞどうぞー」
「お二人……、お二羽はどちら様でしょうか……?」
二羽は俺を間に挟んで顔を見合わせた。
「お前、ラピス様に何も聞いてないのか? 俺が、ガーディで――」
「私が、ハーディ!」
名乗って頂いた。が、そういうことを聞きたかったわけではない。しかし、その名前には聞き覚えがあった。たしか、先ほどの夢から覚める前に。高いビルから飛び降りている時に。
そうだ、俺は飛び降りて自殺する途中だったはずだ。ここはどこなんだろう。やっぱりあの世ってやつなのだろうか。それにしては現世と感覚はなんら変わりない。ちゃんと足もある。