No.01 二時間後の世界:04
夕方すぎ、部屋で寝転がっていた由紀――もちろんジャージ――の携帯電話が高らかに鳴った。
液晶ディスプレイには彼氏の名前が点滅している。
由紀は喜びと不安を息を吐き出すことで鎮めて、通話ボタンを押した。
『もしもし、由紀?』
「うん」
声がわずかに震える。彼は何のために電話をくれたのだろう。微妙な間が長く感じる。
『あのさ、今から会えない?』
「今から?」
彼氏の言葉に期待が募る。いつも以上に優しい彼の声は、どう考えても仲直りのための電話に思えた。
声のトーンが自然と上がる。それを察してか、彼氏の口調もいっそう優しくなった。
『駅前の公園で待ってるから』
「うん」
喜びで舞い上がりそうになるのを必死におさえて、由紀はわざと神妙な声で返事した。
仲直りが出来る。また、一緒にいられる。
確信をもって、そう思う。
脱いでしまった制服をもう一度着用し、コートを羽織る。急ぎ足で玄関を出ると、今にも雪が降り出しそうな重い雲が垂れ込んでいた。
ふと、占いで見た、あの廊下を思い出す。占いをした時刻から、二時間はもうそろそろだ。
もしかしたら、彼氏があの場所へ連れて行ってくれるのだろうか。
胃の中で何かが踊っているような奇妙な感覚に、足元がずしりと重くなった。
道路を蹴る足から、ローファーが脱げ落ちそうになる。
あの廊下は、学校の廊下だったのだろうか。思い出してみて、違和感を覚える。
先が見えないほど長い廊下など、学校にあっただろうか。なにより、ただ一直線に続くだけで、脇にあるはずの教室のドアなんかは一切なかった。
外気が喉を刺激する。冷たい空気が通り過ぎるたび、唾をゴクリと飲み込む。
携帯電話が、ポケットの中で振動する。
――後悔しない?
耳元で、ナツの声が聞こえた気がして、振り返る。
誰もいない。
人通りの無い道路は、街灯だけがぼんやりと存在を主張する。
時折走り抜けるトラックは、この道路が幹線道路への近道だと知っているのだろう。ものすごいスピードで由紀の前を通っていった。
――その一日があるかないかで、どんな最後になるか、変わってくるんだよ?
ナツの声がリフレインする。
今はそんなことどうでもいい、と否定して、トンと足を前に踏み出しながら、携帯電話を手に取った。彼の名前が表示された画面を見て、顔をにやつかせる。
横断歩道を渡っている、その時だった。
光が二つ、由紀に向かって突進してきたのだ。それがトラックだと認識できたのは、体に強い衝撃を受けたその後だった。
ゴオ、と風が耳元でうなった。
体を無理やり外側にそらされたように、無理な負荷がかかったことだけがわかる。痛いと認識することも出来ないまま、体は空を舞った。
目の前を黒い雲が通り過ぎていく。道路に散らばる小石の感触が頬に突き刺さる。
痛みは感じなかった。
生暖かい何かを体全体に感じて、逆に体は先っぽから冷えていくような不思議な感覚がした。
ゴムのこすれる音が鳴り響き、焼け付くような焦げ臭さが辺りに充満した。
世界がゆっくりと時を止めたように思えた。
混乱する脳みそは、全ての感覚を遮断する。何が起こってしまったのか、うまく把握できない。
血だまりが広がっていく中、それに物怖じせずに足を踏み入れる革靴が、倒れた由紀の目に映った。
由紀の頭のすぐそばで黒い革靴がピチャリと音を立てる。
「だから、あんなに警告したのにさ」
聞いたことのある声に、顔をあげる。いや、顔を上げたつもりだった。上がったのは顔ではなく、どうやら、魂というものだけだった。
由紀の足元に、由紀自身が倒れている。飛び散った赤い血と不自然に折れ曲がった体は、もう息絶えたと自覚するには充分だった。
その血の海に革靴を片方だけ突っ込んで、笑っているのは――
「あんたもひどいやつだよねえ。わざわざ、すぐ死んじゃう子をエサに選んでさあ」
「なあに言ってんの。これが俺なりの優しさよお。この子、俺が時間を食べてあげたから、即死できたんじゃん。二六時間……正確には二五時間と五七分、病院で苦しみぬいて死ぬはずだったんだから。うん。優しさだ。俺様の半分は優しさで出来てるのよ」
「お前はバファ○ンかっつーの」
黒いスーツ、黒いネクタイが風でひるがえる。ナツのあの昭和な部屋にあった、黒いスーツのセットだった。
噴水頭も今は整えられていた。目にかかるくらいの黒髪が斜めに下ろされ、その鋭い眼光を隠す。
奥二重の切れ長の目は楽しそうに、笑ってる。
ナツの隣には、栗色の髪をしたナツよりも背の高い女が立っていた。女なのにナツと同じく黒いスーツに黒いネクタイをつけている。
超天然記念物だとナツが言った、彼の仲間なのだろうか。
「あんたのいう優しさってのもいまいち信じらんないよ。人間なんて一分一秒惜しんで生きてんじゃん」
「最近はそうでもないよ。時間を大切にしないやつなんて山のようにいるさ。俺のチンケな占いごときに自分の時間を捧げちゃうんだからね。俺はおいしいぃくそれを食べちゃってるだけ」
闇夜に浮かぶ月の下、彼は皮肉な笑みを浮かべる。
あまりに冷たいその瞳に、由紀は憤慨する。ギシギシと奥歯を噛みしめ、「私の時間を返して!」と叫んだつもりだった。だが、声は発せられることはなかった。
今は幽体と化した由紀には、声を出すことなど出来やしない。
由紀は、寿命を食べられたという事態を今この時になってやっと自覚したのだった。
けして届かない怒りの声をさんざんと飛ばした後、ハア、と肩で大きく息を吐き出す。
ナツは何度も言っていた。時間を大切にしろと。
ないがしろにしたのは……由紀自身。
どこに向けていいかわからない怒りを、腹の底に押し込めながら、起きてしまった出来事をただ鵜呑みにすることしか出来ない。
月明かりの下で、由紀を見下ろす彼。噴水頭と赤はんてんではわからなかった、妖艶な魅力。
黒いネクタイをたなびかせ、氷のような目を皮肉たっぷりに送る。
その立ち姿が異様に美しくて、認めるしかなかった。彼は、確かに、『人』ではない。この世の者ではない、あやかしの者―――。
やがて、由紀の目の前に、真っ暗な廊下が現れた。
これが一体なんなのかわからない。水晶で見た通り、学校の廊下にすごくよく似ていたが、別物なのは明らかだ。
天国への道か、地獄への道か。もしかしたら転生への道かもしれない。はたまた、無の世界への道か。
どんな道でも進むしかない。
ナツはいつも真実しか言っていなかったのだから。
信じて、進むしかない。
暗くて怖いものの先は、明るくて楽しいものがある。そう信じて。
由紀は、廊下の前に立ち尽くす。
「さようなら。由紀ちゃん」
ナツの声が聞こえた。それは魂となった由紀に言ったのか、血の塊と化した由紀の体に言ったのかはわからなかった。
彼はどこか遠くを見ていたから。
廊下に一歩踏み出して、もう一度、彼を見る。
はっとして、彼の出で立ちを眺める。
あのスーツ。
あれは、喪服だったのだ。
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