No.01 二時間後の世界:01
放課後の美術準備室は、ある日変貌を遂げた。
イーゼルや油絵が所狭しとしまってあるはずのその場所が、なぜか和室になっていたのだ。
うぐいす色の砂壁はところどころ剥がれ落ち、古くてでかいタンスの上には日本人形が鎮座している。床の間には「根性」とぶっとい字で書かれた掛け軸がかかっていた。
空いているスペースは畳一枚分くらいしかないのに、そこはコタツが大半の場所を占めている。
十四インチの小さいテレビは今時ありえない室内アンテナで、ガチャガチャと手で回すタイプのチャンネルだ。窓枠には、場違いな真っ黒なスーツとネクタイがかかっている。
この高校に通う女子高生、葉野由紀は昭和三十年代を髣髴とさせる部屋と化した美術準備室の前で、呆然と立ち尽くしていた。
きょとんとした表情を浮かべ、彼女を見上げる男がそこにいたのだ。
前髪が邪魔なのか、黒い髪の毛を頭のてっぺんで結んでいる。無造作に束ねているだけだから、頭の上に噴水を乗っけているみたいになってしまっている。
赤いはんてんを羽織った上、コタツに背を丸めて入っているその男と由紀は、数秒見つめあった。
「すいません」
とりあえず、扉を閉めた。
今のは一体何? 確か昨日までは普通の美術準備室だったはず――。由紀は頭を抱えながら、ドアの前で仁王立ちするしかない。
もう一度だけ、今度はほんの少しだけ扉を開いて、そっと覗いてみることにする。
「お嬢さん。寒いなら、中にどうぞ」
いきなりドアが開き、由紀は前のめりに倒れてしまった。男がはんてんの袖をつまみながら、にこやかに立っていた。
「まあまあ、どうぞ。ああ、座布団はないから、許して」
どこから持ってきたのか、お茶を出しながら男は笑う。
「あ、お気遣いなく」
遠慮がちに頭を下げながら、由紀はついコタツに入り込んでしまった。
冬に差しかかったばかりのくせに今日は特別寒い。
女子高生らしく短くした制服のスカートから丸出しの膝が冷えて仕方なかったのだ。コタツが目の前にあれば、誰だって入ってしまうだろう。
「お嬢さん、お名前は?」
「葉野由紀」
「ここの高校の子?」
「二年生です」
フンフンとうなずいて、男はズズズとお茶をすする。
暖房器具がコタツしかないため、背中が寒い。由紀は猫のように背中を丸めて、なるべく体をコタツにうずめた。
「あのう、あなたは? ていうか、ここ、昨日までは普通の美術準備室でしたよね?」
「ああ。ここ、異空間だから。あ、俺の名前? 俺、ナツ。呼び捨て以外ならなんて呼んでもいいよ。俺、呼び捨てされるの嫌いなんだ」
「わかりました。じゃあ……ナツ君で。私のことも好きに呼んで下さい。って、なんか今、さらっとおかしなこと言ってましたよね?」
「え? 言った?」
「ええ。異空間とか、異空間とか、異空間とか、異空間とか?」
ナツは首をかしげて、二重の切れ長の目を細めた。丸みのある唇から笑みが零れ落ちる。
「おかしなこと? ほんとのことなんだけどな」
何を当たり前のことを、と言いたげに、ナツは首をかしげる。
由紀はその反応に『これは夢なのか?』と疑問に思い始めた。
夢にしては何もかもが現実感に溢れているが、そういう夢は意外とありふれている。
現実だと思って飛び起きて、夢だと気付いて安心することなんて、よくあることなのだ。
お約束だが、頬をつねってみる。
――痛かった。
「……まじっすか」
「まじっす」
「まじっすか」
「まじっすよ」
「……いやいや、オニイサン、うまいねえ。私、ちょっと寝ていいですか。現実逃避していいですか。つーか、夢から逃避したいんで、一眠りしていいですか?」
「どうぞどうぞ」
とりあえず、寝ることにする。起きたら、きっと現実に帰っているだろう。夢とはえてしてそういうものだ。
そう言い聞かせて、はっとする。これが夢だとしたら、寝て起きたら、一体どうなるのだろう?
「由紀ちゃん、これは現実よ? 現実から逃げちゃあいかんよ」
ナツは楽しそうにケラケラと笑って由紀の肩を叩いた。
由紀は「ああ、そうですよねえ」と何度も相槌をうち薄笑いを浮かべつつ、思考を巡らせた。
「――って、おかしいだろうが! あんたなんなの? 学校で何してんの? 不法侵入じゃないの? それとも最近赴任した美術教師なの? それで生徒との恋とかが始まっちゃうの? 相手は私なの? いや、あんたけっこうかっこいいからそういう路線でいってもいいけど、あんたのその格好はどうなの? なんでこんなに昭和三十年な部屋なの?!」
「質問が多すぎて答えきれないけど、いきなり恋は始まらないし、俺は教師じゃないよ。なんつうか、妖怪系」
「意味がわかんねえし!」
赤いはんてんを着た噴水頭のこの男の服が、ださい赤ジャージであることに今頃気付いた。名札までついてて、「なつ」と平仮名で書いてある。
――ださすぎる。
こんな妖怪がいたら、妖怪の世界のブームについて、何時間もかけて考えなければならないだろう。
「あ、その顔は俺のこと知らないな? まあしょうがないかな。俺とおんなじ妖怪は俺を含めて三人しかいないから。つまり超天然記念物よ? 触ってもいいけど、いやらしい触り方はしないでね」
「触りませんから!」
「それでは、さて、この部屋に訪れた記念に、いかがかな?」
そう言って、ナツはいきなり直径十五センチはある丸い水晶をコタツの中から取り出した。
光が当たると、水晶の内側が虹色に輝く。覗きこんだ由紀の顔が、歪んで映りこんでいた。
なんでコタツにこんなもんしまっているのか、それは疑問に思ってはならない。
「これって、なに? 占い?」
「イエッサー。ご名答!」
占いするにしては場違いすぎる。
由紀は改めて部屋を見渡し、『根性』と書かれた掛け軸に目を留めた。『根性』の横に『なつ』と書いてあったのだ。
自分で書いたのかよ! しかもなんで『根性』!?
思わず声をあげそうになったが、ナツの浮かれた顔を見ていたら、何も言えなかった。
フンフンと鼻歌を歌い、ゆるんだ口元を隠すこともない。アホ面だった。
「俺はね、この占いで、君の二時間後を占う」
「二時間後……」
なんでそんな中途半端な時間なのか疑問が浮かんだが、由紀は静かにうなずいていた。
「君の二時間後を占うと、俺は君から二時間の時間をいただく」
「はあ?」
「君の何十年だか何年だか何日だかわかんないけど、君が生きるべき時間から、二時間をもらうわけ。つまり、君の寿命が二時間縮まる」
「はああ? なにそれ」
「俺にとっての食べ物が時間なわけよ。君らが野菜やらごはんやらを食べるように、俺は時間を食べるってこと。ギブアンドテイクってことさね。君の二時間後を占う代わりに、君の一生の内の二時間を俺にちょうだい」
明日も更新いたします。
その次の更新は年明けとなります。