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No.03 最後に、君に。Side-A:03

「ナツ。お前にはわかるか」


 透き通るような水色の瞳が、その色と同じ色をした湖のほとりに注がれる。


「当たり前のことなんて、世の中には無いんだ」


 憂いを帯び揺らぐ瞳の底には、ナツにはわからない彼だけの思いがあった。


「ナツ。お前にだけは譲らない」


 一瞬だけナツに向いた目が、敵意をむき出しにする。だが、それは獲物を狙う豹がすぐにその殺意を隠すように、すぐに消えていった。


「絶対に譲らない」


 ナツは何も答えることが出来ず、苦々しい思いを噛み砕きながら、奥歯に力をこめた。

 けして届かない、けして敵わない。

 だからこそ、負けたくなかった。


「俺は、てめーが大嫌いだよ」

「知ってる」


 そう言って笑う男が、ナツは憎みきれない。





 ***



「あいつも俺も、いつか死ぬ」


 ポツリ、と信二郎はつぶやいた。

 両手に包んだ湯飲み茶碗はすっかり冷えてしまって、信二郎の手から温もりを奪い去っていく。


「だが……あいつが先に死ぬなんて、思ってなかった」


 暮れなずむ夕日は、松の木の合間から顔を出し、ゆらゆらとたゆたう。それは、いつもと変わらぬ風景だった。

 晴れた日は毎日その姿を拝んで、一日の終わりを振り返る。ずっと続けてきた習慣だった。


「お前百まで、わしゃ九九までって言葉、知ってるか?」


 ナツに笑いかけると、ナツは困ったように首をかしげた。


「俺は、そうなりたかったんだよ。あいつが百まで生きて、俺は九九まで生きる。俺はあいつのそばで笑いながら死んで、あいつは少しだけ寂しい思いをするが、すぐに俺の後を追う。いつかはどっちかが寂しい思いをしなけりゃいけない。けどな、あいつの方が強いから、俺よりきっと耐えられる」


 湯飲み茶碗の底にまだ残っていたお茶をたぷたぷと揺らした。差し込んでくる光が反射して、目を眩ませる。


「俺は……そんなに強くない」


 ふと後ろを振り返る。

 誰もいない家。妻の光枝と二人で過ごした家には、今、信二郎一人しかいない。


「あいつが、ここにいるのが当たり前だったんだ」


 斜め後ろの畳をなでる。光枝が信二郎にお茶を差し出すときに必ず座る位置だった。


「もう、帰ってこないんだなあ……」


 彼らの娘が一度だけ、信二郎に言ったことがあった。

「たぶん退院は出来ないだろうから、お父さん、この家を引き払って、うちに住まない?」と。

 申し出はうれしかった。けれど、思い出の詰まったこの家を出て行く気にはなれなかった。

 この家には、光枝と結婚して子どもを育て、そして子供が離れた後も二人だけで生きてきた証がそこかしこに刻まれていた。柱にも畳にもテーブルにもカーテンにも。すべてに少しずつ思い出がしみこんで、こびりついて取れやしないのだ。


「あいつの方が、先に死ぬんだよなあ?」


 占い師なら、わかるだろ? とナツに目で訴えかける。

 畳の上であぐらをかいたナツは、一瞬その目線を中空に漂わせ、目を閉じた。


「そうだね。先に死ぬよ」

「はっきり言うな」

「事実は事実だし。俺は嘘をつくのは嫌いでね」


 開かれたその目には、強い光が宿る。夕日を反射し、燃えるような色合いを湛える。


「お前は、死神なのか」

「やー、そんなおっかない存在じゃないわよー」

「何者でもいい。あいつに、俺の命をわけてやれないか。俺を先に死なせてくれないか。俺の」


 はじかれたようにナツの腕を掴む。手から滑り落ちた湯飲み茶碗が地面に落ち、砕け散る。


「俺の、命を、あいつにあげてくれ」


 気持ちの高ぶりが手に伝わって、わなわなと震える。

 ナツは目を見開き、信二郎を見つめる。


「俺を置いて死ぬなんて、許さねえ。俺を置いていくなんて、俺を置いていくなんて、俺は、俺はどうすればいい? あいつがいないこの家で、どう生きればいい?」


 ナツの手が、震える信二郎の腕を軽く叩く。それはまるで「わかった」という合図のようだった。


「お前は、人間じゃねえんだろう? だったら、出来るんじゃねえのか? なあ、出来るだろ」

「出来るよ」


 事も無げに、答える。


「だけど、俺は無償でそんなめんどくさいことはやらない。あんたがあんたの奥さんにその命をやるなら、俺にもそれを分けてよ」

「な、なんだと?」

「俺は人の時間を食らうんだよ。だから、俺にあんたの時間をちょうだいよ。その中の残りを、あんたの奥さんに譲ってやる」


 太陽が松の木の陰に隠れ、姿を消す。辺りには闇の匂いが漂い始める。


「あんたの残りの時間なんて、ほんとにちょこっとしかない。奥さんと俺に時間を譲ったら、あんたはすぐに死ぬ。それでもいいの?」


 濃い霧が蔓延するように、鼻をかすめる濃厚な香り。静けさがあたりを覆い尽くし、夜がゆっくりと訪れる。

 壁にかけた時計が、鈍い金の音を鳴らした。


「……死ぬのか」

「すぐにね」

「そうか……」


 言葉が出なかった。もういつ死んでもおかしくない年だ。今死ぬと言われても、そうは驚かない。けれど、実感は湧かない。


「……占ってくれないか」

「何を?」

「俺の、未来だ」








次回更新は31日を予定しています。

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