No.03 最後に、君に。Side-A:02
夕暮れの時間を縁側で過ごすことが、信二郎の日常だった。
松の枝の中に埋もれていく太陽の姿を見るのが好きだった。そんな光景をぼんやりと眺めていると、必ず妻の光枝が無言でお茶を置いてくれた。
一度だけ、光枝が話しかけてきたことがあった。
その日も、燃えるような夕日があたり一面を真っ赤に染めて、のそりのそりと姿を隠そうとしていた。
「何が楽しくて、毎日松の木を眺めているの」
非難めいた少し冷たい声色だった。
「綺麗だろうが」
「……でも、毎日同じ景色を見てたって、面白くないわ」
ロマンがわからないやつだ、と信二郎は心の中で愚痴った。言葉に出すのは億劫で、舌打ちだけが出た。
「あなたはいつもそうね。口が悪くて、肝心なことは何も言ってくれない」
光枝の気配が無くなって、信二郎は少し安心した。何十年も一緒にいれば、そばにいることが煩わしくもある。空気のようにあるかないかもわからないくらいが、きっとちょうどいい。
――そう、思っていた。
「何が楽しくて、毎日松の木眺めてんのー?」
のん気な声が聞こえてきて、信二郎ははっとした。自分で淹れたお茶を手に、ぼんやりと縁側に座っていた信二郎の真横で、あぐらをかいたナツがニタリと笑った。
「……綺麗だろ」
「確かに綺麗だけど、面白い?」
木枯らしがふいて、ナツは身を縮こまらせる。もうすぐ冬が来るのを感じて、信二郎も着ていた洋服を寄せて、ぶるりと震えた。
「面白いじゃねえか。同じに見えるかもしれねえが、色も光の具合も違う。毎日毎日、違うんだよ」
「奥さんにも、ちゃんと教えてあげればいいのに」
「わざわざ口にするようなことでもねえ」
昔の思い出を知っているかのようなナツの口調に疑問がわいたが、それは言わなかった。
なんとなく、この男が普通の人間ではないことはわかっていた。
ぼんやりとした記憶の中で、小さいころ、祖母に語ってきかされた妖怪や幽霊の類を思い出す。そして、その頃にしか感じ取れなかった、そういうものの存在を今になって再認させられる。
かすれた世界の片隅に、確かに存在する人ではない人。横に座るこの男がそうなのだと、肌で感じていたのだ。
「占い、か」
「あら、占ってほしくなったのかしら?」
ぽつりと出た独り言に、ナツは気持ち悪いオカマ言葉で答える。
「未来を知ることで、何かいいことでもあんのか? 知らない方が幸せなんだよ、なんでもな」
「奥さんが死ぬのが、怖いんだ?」
突き刺さるような言葉に、信二郎は思わずナツを睨んだ。
ナツは目を細めて笑っているだけだった。言葉のトゲなど感じさせない穏やか笑顔なのに、目の奥には心を見通す力がある。
この目こそが、人ならぬ者の目だと、信二郎は思う。
「お前にはわかるか。当たり前が、当たり前じゃなくなることが」
ナツは何も答えない。松の木を見つめ、落ちていく太陽の軌跡を追う。
光は柔らかく世界を包む。この時を、この場所を。
「俺の当たり前は、もう、無いんだよ」
戻ってこないんだ、とつぶやく。
***
「神様が存在してるんだとしたら、ものすごい意地悪だと思います」
ふてくされた顔をして、少女はナツを見上げた。少女、というよりは少年っぽいが、ナツを見るその目は幼くても『女』の目をしている。
「あたし、ルイが嫌い」
「そういうこと、言っちゃだめだ」
「ナツオには、わからないっ」
「ナツオって呼ぶのやめない?」
「ナツって呼ぶと怒るじゃん!」
頬を思い切りふくらませて、少女はすねてみせる。
「違うあだ名がいいですー」
少女の頬をつついて、おどけた声を出すナツの肩を、少女は強く掴んだ。そのままナツの肩にも届かない身長をごまかすように、ぐいっと背伸びする。
爪先立ちのおぼつかない体勢のまま、ナツの耳に唇を寄せた。
「ナツオはあたしのものだ」
「俺は誰のものでもないよ」
幼いがゆえの独占欲に、ナツは苦笑する。だが、それは少女の怒りを買うだけだった。
「あのこと、ルイに言います」
「脅しまで覚えたか。末恐ろしいガキだわあ」
「ガキじゃない」
「ガキだよ。まだ未分化じゃねえか」
少女の瞳が鋭くなる。ショートヘアの髪を振り乱し、ナツの襟元にしがみついてくる。
「あたし、女になるもの。絶対、女になる」
「ルイくらいいい女になったら、同じセリフを言うんだな。男にも女にもまだなってないガキは寝ションベンたれながら寝てるのがお似合いだ」
ポン、と少女の頭をなでて、ナツは歩き出してしまう。少女はその背中を睨みながら、唇をかんでいた。
頭をなでるナツの動作が大嫌いだ。子ども扱いされていることが不愉快で仕方ない。
だが、少女はナツが言うとおり『男にも女にもなっていない』子供なのだ。
いずれ、体は男か女かに変化する。それは、彼らにとって大人になった証でもあった。そうならない今は、少女はまだガキなのだ。
「そういえば」
ナツが振り返ってきて、いつもの皮肉交じりの笑顔を向けてくる。
「あの趣味の悪い部屋、お前がやったんだろ」
「かわいいでしょ」
「どこがだ!」
「ナツオの趣味が悪いから、改造してやったんだよ。感謝して下さい」
お姫様ベッドに薔薇柄じゅうたんのあの部屋は、もちろん少女の趣味でもなかったが、ああいういたずらは少女の趣味だった。
「キリ、お前の部屋も改造してやったから、あとで見ておけよ」
「はあ!? 何考えてんの!?」
「何も考えてなーい」
パチリとウィンクして去っていくナツの後姿も見ずに、少女――キリは自分の部屋に飛び込んだ。
土の塊がドーナッツ型に積まれていて、そこに鍋が置いてあるだけになっていた。
「縄文時代かよーーーー!」
次回更新は27日を予定しています。