No.03 最後に、君に。Side-A:01
「あの人に、伝えてもらえる?」
窓の向こうの霞がかった空を眺めながら、ぽつりとささやく。
布団の上で揃えられた両手は細くしなやかで、だからこそ頼りなく思える。
「約束、だったから」
そっと見上げた瞳に、暮れなずむ空の光が揺らいだ。
「あなたも、逃げてはだめよ。ちゃんと向き合わないと」
そう言われて、彼はあいまいに微笑む。暗闇がそろそろと部屋を侵食し始めていた。
***
「まだいたのか、小僧」
「まだいますよ。豆粒ジジイ」
「次にその言葉を吐いたら、その髪の毛を刈り取ってやるぞ」
庭木用の大きなハサミをナツに向けて、老人はたるんだ皮膚の下の目を光らせた。
ナツは「おーこわー」と両手を上げて白旗を揚げるが、表情は楽しげにゆるんでいる。
広い庭に囲まれた日本家屋。形を切り揃えた立派な松の木が、庭の真ん中で誇らしげに立ちはだかる。それは、この家の主である信二郎の力作であり、自慢だった。
「歳とは取りたくねえもんだ。いきなり庭先にこんなアホウが居をかまえやがるとは。幻覚だったらもっとましなもんが見えりゃいいのに」
「幻覚じゃありませんからー」
一週間前のことだった。
自慢の松の木のすぐ後ろに、いつの間にか竪穴式住居が出来ていた。
原始人ご用達の家のそばで、全く見知らぬ男が焚き火をしながら芋を焼いていたのだ。
その前の晩は、ごく普通の庭だった。
いつも縁側から堪能していた、くの字に曲がる松の木の堂々とした風景。
それがたった一晩で、おかしなことになってしまったのだ。
信二郎は怒りではらわたを煮えくらえさせながらも、この奇妙な出来事を楽しんでもいた。
定年退職してもう二五年。
庭の手入れしかすることがなく、日がな一日過ごしていた彼にとって、刺激的とも言えたのだ。
わらで作られた円錐型のその住居は、大昔に遊びに行った公園に設置されていた、縄文人の住まいと寸分違わず、住人はやはり原始人なのかと淡い期待を抱きながら中をのぞくと、そこには赤ジャージの青年がいた。
小さい女の子が無理やり髪を結んだ時のように、真っ黒な髪を二つに分けて結わえており、赤いはんてんを羽織る姿は、貧しかった大昔を思い起こさせる。
なのに、竪穴式住居の中は、オトメムード満点の天蓋ベッドが中央に鎮座し、薔薇の柄の絨毯が敷かれていた。籐で編まれた小さな机の上には、白い陶器のカップとポットが置かれていて、そこだけ見たらヨーロッパのお姫様のお部屋のようだった。
「……どんな趣味なんだ」
思わず呟くと、青年は「俺の趣味じゃないですからね!」と顔を真っ赤にして否定していた。
それが、彼――ナツとの出会いだった。
「早く出て行け、トトロのメイちゃん頭」
松の木の形を整えながら、低い声を出す。
だが、ナツは焚き火にあたりながら「メイちゃんほど爆発してません」と鼻をすすらせてサラリとかわしてくる。
「人んちに勝手に居座るのは、違法だぞ。警察を呼ぶからな」
「じいさん、ここに少しだけ住まわせてよ」
「嫌だ」
「いーじゃんいーじゃん。減るもんじゃなし」
「俺の心が磨り減ってるわ」
「あらいやだっ」
何があっても立ち退くつもりはないらしい。
本気で警察を呼んでやろうかとも思ったが、焚き火の熱にあてられ頬を赤くするナツに、小さい頃の思い出を重ねてしまって、なんとなく躊躇してしまう。
小さな頃。
この庭の片隅で、集めた落ち葉を燃やして弟と芋を焼いて食べた。
弟は真っ赤に頬を染めながら、ほくほくの芋を「熱い熱い」とほおばって笑っていた。
数年後、弟は戦争で死んだ。
弟とナツの姿を、なんとなく重ねてしまったのは、シチュエーションのせいに過ぎない。
だが、冷たくあしらうことを出来なくさせてしまった。
剪定ばさみで、シャキリと枝を切る。
ナツはそれをぼんやりと眺めて、ニヤニヤと笑っている。
何のためにこの男はここにいるのか。信二郎には見当もつかない。
「お前、なんでここにいる?」
「約束だから」
「約束、だと?」
眉間に深くしわを刻みつけながら、信二郎はハサミを下ろした。胸の奥で何かが声を立てるが、信二郎にはその声の正体が思い出せない。
「ねえ、じいさん。占いをしてみたくないかい?」
「占いだと? 馬鹿らしい。どうせ老い先短い人生だ。未来なんて知ったってろくなこっちゃねえ」
「病床にいる奥さんのこととか、気にならないの?」
黒い瞳が、信二郎の心を見透かすように鋭く光った。猫のような鋭い目線は、信二郎を身震いさせる。
恐ろしい、と瞬間的に思った。
先の尖った針で、心の奥の奥の奥までを刺し貫かれたような総毛立つ感覚は、長い人生でも一度も感じたことがなかった。
「……お前、何者だ」
「俺? 俺は占い師のナツ。どうですか? 占いたくありませんか? あんたの奥さんが、どんな最後を遂げるのか――」
信二郎の妻は末期がんと診断され、ずっと入院している。
もうすぐ死ぬであろうことは、誰に言われなくてもわかっている。
なぜ、この男は妻のことまで知っているのか。本当に未来を見通す力を持ち、何もかもを言い当てる力でも持っているとでもいうのか。
「まさか」と首を振る。
どこかで調べてきたのだろう。密接なご近所づきあいがある地域なのだ。誰かが口を滑らせていたとしてもおかしくはない。
「あんな女のことなんて、知ったことか」
信二郎はそうつぶやいて、剪定バサミを両手でつかんだ。
小気味良い音を立てさせ、枝を刈る。
「勝手に死んじまえばいい」
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