青ひげ男爵との愛情
あの男は臆病者だった。初めて会った時から。
私、コレットはあの男と出会った時の事を思い出す。
私と姉さんは男爵の嫁にならないかと話を持ち掛けられた。そして姉さんは男爵の顔が不気味だと言う話を聞いていたので激しく嫌がった。だから十八になる私が男爵の嫁に行くことにした。
別に顔が不気味なくらい、男爵夫人となって不自由のない暮らしができるなら我慢できる。
そうして当の男爵と私は対面した。
初対面の時、男爵は私の顔を見てハッと目を見開いて私に釘漬けになったのが分かった。私も男爵の顔に釘漬けになった。
思ったより顔は不気味でない。ごく普通…いや少し陰気な顔立ちであるが、思っていたほど悪くない。だが、一番目を引くのはそのひげ…。髪の毛は黒いのに、もみあげから顎にかけてのひげが青い。
どのような青かと言われても説明できない複雑な色だ。空、川、湖、海…どの色にも例えようがない。
そうしていると男爵の顔が横に逸れた。男爵の顔を見上げると、男爵は脅えた様なうつろな目をして私から視線を逸らしていた。
しまった、あまりにひげをジロジロ見過ぎたのを気にしたか。しかしそんなに青いひげを見られるのが嫌なら剃ればよいものを。
そう思ったが、初対面であり、自分の結婚相手である二十も年上の男爵相手にそのような事が言えるはずもなく、私も気まずくなって視線を逸らした。
これが私と青ひげ男爵との初対面であった。
「コレット」
名前を呼ばれ肩に手を置かれ、私はハッと我に返った。
私の二番目の夫、ノアールだ。私より一つ年上で、いつも優しく私を支えてくれる。
「また思い出していたの?」
「…ええ」
「可哀想に…」
ノアールが痛ましそうな顔をして私の肩に手を回し、もう片方の手で私の手を握る。
青ひげ男爵もこのように私の手をよく握っていた。肩に手を回すことは無かったが。
暖炉の火がはぜる。暗闇の中、暖炉の火に照らされて青ひげ男爵と私の顔は真っ赤に染まっていた。
お互い椅子に座り、ただ黙って火がはぜる音を聞いて暖を取っている。
「…今日は寒いですね」
私がそう声をかけると、青ひげ男爵は、
「ああ」
と一言答え、しばらくの沈黙の後に、
「そろそろ霜が降りる時期だ」
と続け、また沈黙した。
いつもこの調子、と私はゲンナリする。いくら話題を投げかけても、一言で終わる会話ばかり。そしてお互いに気まずくなってくるころに…。そら手が伸びてきて私の手を握る。
それもなぜか両手で私の手を挟み込むように握る。
だがその筋張ったゴツゴツした手は暖かいので、私もただ黙ってされるがままになっていた。
私はノアールの手を指でなぞる。若者らしいすべすべした肌に女の子のような肉付きの手。もう少し…あの青ひげ男爵ぐらいの年になったら男の手はあんな風に筋張ってゴツゴツになるのかしら。
そんな私を見て、ノアールは私の頬にそっと口づけをした。
青ひげ男爵は口づけすらまともにできない男だった。
なんとなく私の頬に口づけしたいのかしら、という雰囲気の時は、どこか私に脅えているようにそろそろと顔を近づけ、あともう少しと言うところで体を硬直させて私の機嫌を伺うかのように横から私の顔を覗き込んでいた。
そしてまどろっこしくなった私が顔を傾けて頬を上に向けると、安心したようにそっと頬に口づけをする。これがいつものパターンだった。
二十も年上の男であるし、今まで何人もの妻がいたという話は聞いている。それなのにこの体たらくなのだから私もガッカリした。
年上の男にリードされ愛の言葉を囁いてほしい。結婚生活にそのような憧れを持っていた私は、青ひげ男爵と結婚して数ヶ月もするとそのようなものは夢と諦めた。
「愛してるよ、コレット」
ノアールが私の耳元でささやいて頬にもう一度口づけをしてくれる。
「…ノアールはヒゲを生やす?」
青ひげ男爵が頬に口づけする時にはいつも頬にひげが当たっていたのを思い出して言葉が漏れ出た。ノアールは少し体を硬直させ、私の手を強く握る。
「生やさない、絶対に」
なんだ、生やさないのか。
どこか拍子抜けした。
「コレット、今度なにかドレスでも仕立ててもらおう?」
さりげなくノアールは青ひげ男爵を連想するようなひげの話題から話を逸らした。
青ひげ男爵に私はドレスを欲しいとねだったことがあった。
「新しいドレスが欲しいの」
嫁いでから半年、私が青ひげ男爵に遠慮がちにそう言うと、青ひげ男爵は暗い目をこちらに向けた。
「ドレスならいっぱいあるだろう」
その一言に私は一瞬言い淀んだが、続けた。
「全てあなたの前の奥さんたちが着ていたものなのよ、私の体にちゃんと合うドレスが一着もないの」
と言うと青ひげ男爵はハッと表情を強ばらせ、私に近寄り、あろうことか私の前にひざまずいて私の手を例の如く両手で挟み込み深く頭を垂れた。
「すまない、そんな当たり前のことに気づかなくて…」
青ひげ男爵の筋張った手は震えていた。そして青ひげ男爵は私を見上げ、
「頼む、許してくれ。私を見捨てないでくれ」
と哀願するように何度も許してくれ、見捨てないでくれと続けた。
二十も年上の男で、しかも男爵という地位のある男が何の爵位もなく、今は夫の所有物程度の立場に収まっている私に膝をついて必死に頼み込んでいる情けない様を見て、私の中に今まで感じたことのない気持ちの高ぶりと興奮が生まれた。
ああ、この人はこういう性格だから、先の奥さんたちも愛想をつかしてとっとと出て行ったに違いないわ。
きっと男爵夫人という何不自由のない生活より、他の男を選んで出て行ったのかもしれない。だからこの人は今こんなにもみっともない姿で私に捨てられないようこんなにも頼み込んでいる。
ゾクゾクとしたものを背筋に感じた。胸が高鳴る。
「ドレス…欲しいのだけれど」
私が微笑みながら青ひげ男爵を上から見下ろすと、青ひげ男爵は顔を上げて私の目を見た。
「仕立屋を呼んでくださいます?」
青ひげ男爵は私の顔を見ながら、
「もちろん」
と答えた。その安堵する瞳の中に、どこか私の高圧的な態度に興奮を感じているのを私は見逃さなかった。
―この男のこういう表情をもっと見てみたい
そのような考えに私は囚われた。
その瞬間から女主人と従僕の新たな生活が始まった。
ふとした瞬間に、
「私に口づけしたいと思う?」
と聞くと青ひげ男爵は必ず戸惑い、頭をたてに振った。
「どこに口づけしたいの?手?指先?額?頬?唇?」
その言葉に青ひげ男爵は必ず言い淀み、震える声で、
「頬」
と言う。
私は意地悪く言ってみる。
「頬でいいの?本当に?本当はどこに口づけしたいの」
すると青ひげ男爵はどこか体を震わせ、視線を逸らしながらかすかな声で、
「く、唇…」
と言う。
ああ、いい。その顔、そのどこか恥ずかしがってるような態度、けどそれを心地よく感じて歪んだ熱い視線を私に向けているその表情、全てがいい。
きっとお互いにゾクゾクとした感情を味わっているに違いない。
この従僕と女主人の立場であった時が、青ひげ男爵と私、コレットは確かに幸せな結婚生活を送っていた。
「さあ、中に入ろうコレット。少し冷えて来た」
私はノアールに促され、外の庭園から屋敷に入った。屋敷に入る前に空を見上げると、灰色の雲に覆われて太陽が隠れていた。
「暖かくなってきたとはいえ、太陽が隠れるとやっぱり寒いね」
話しかけているような、独り言のような口調でノアールは呟いた。
あの青ひげ男爵が出かける時もこのような天気の時だった。
青ひげ男爵は城に呼び出されて四日ほど家を留守にすると言って来た。私は眉根を寄せて黙って青ひげ男爵を見返した。
「私の兄さんたちが来るから、会いたくなくて用事を作ったわけではないでしょうね」
このころになると私の女主人とした風格も備わって言いたいことをなんでも青ひげ男爵に言うようになっていた。
そして青ひげ男爵は慌てたように手紙を持ってきて、
「ごらん、城からの手紙だ。急に呼び出されたのだよ、決して君のお兄さんたちと会いたくないわけじゃない」
と私の機嫌を伺うように私の顔を見てくる。
このころになると青ひげ男爵も私の従僕としての態度が板についていた。
「じゃあ私の兄さんたちが来るという四日後には戻って来れるのでしょうね」
私がそう言うと青ひげ男爵は少し困った顔をして手紙を見た。
「戻ってくるようにしたいが…」
「戻ってくるようにするの、いい?」
私が腕を組んでそう青ひげ男爵を睨むように見上げると、青ひげ男爵はゾク、と背を震わせ、
「…分かった」
と言った。
青ひげ男爵が私の言う通りになる様を見ると私もゾク、と体が震え、笑みがこぼれる。
しかしここに嫁いでから青ひげ男爵が家を留守にするというのは初めての事だ。この男が居ない間、私は何をして過ごしていればいいのだろう。
そう思っていると青ひげ男爵はたくさんの鍵が鉄製の輪っかにぶら下がっている鍵束を持ってきた。
「私が居ない間は妻のお前がこの家の主人だ。しっかり管理しなさい」
こんなものがあったのか。思えばこの広い屋敷には沢山の部屋があるが、そのほとんどに鍵がかけられていて入れない部屋がほとんどであった。
「好きなように開けて中に入ってもいい」
その言葉で、四日間の暇から解放されたという喜びが胸の内をよぎった。すると青ひげ男爵は別の小さい鍵を私に渡してきた。なぜかこれだけ鉄の輪っかにぶら下がっておらず、しかも金色に輝いている。
「いいかいコレット、この鍵だけは使ってはいけない」
なんで。こんなに綺麗な鍵なのだから使ってもいいはずだ。
そう思いながら青ひげ男爵の言葉には上の空でその綺麗な金の小さい鍵をいじっていると、強い力で肩を掴まれた。
「聞いているか」
その少し怒ったような強い口調で言われ、私は驚いて青ひげ男爵の目を見て、何度か頷いた。
なんだ、この人もこうやって強く出ることもあるのだな。
「約束できるか」
「もちろんよ」
少し怒りのはらんだような青ひげ男爵の言葉に私もとっさにそう返した。
青ひげ男爵は私の言葉に満足気に頷いて、それから荷造りをしてその日のうちに出かけて行った。
「これから四日間、城に行かないといけなくなった」
ノアールが哀しそうに呟いて使用人たちに荷造りをさせている。私は黙ってノアールの顔を見た。ノアールは私にそっと抱きつき、
「明日から四日間、君と会えなくなってしまう。寂しいよ」
その暖かさに包まれて、私はそっと目を閉じた。
青ひげ男爵の屋敷に秘密があると知ったのは青ひげ男爵が城に行った後の事だった。
私は青ひげ男爵が行ってしまってからさっそく鍵を使って今まで入った事のない部屋の探検に出かけた。
そのほとんどはごく普通の部屋であり、来客用の部屋であり、使われていない使用人の部屋であり、物置であり…。
一つ一つの部屋は代わり映えのないものであるのだが、青ひげ男爵が戻って来てこの鍵を返したらまたしばらくこの部屋の中には入れないだろうと、私はじっくり隅々まで見ていた。
じっくりと見過ぎて一日では屋敷の中の部屋を全部回ることができなかった。
だから次の日も、更に次の日も私は屋敷の中の見回りで時間を費やした。
一番興奮した部屋は、数え切れないほどの金貨が入った箱や、数々の豪華な宝石がおさめられている部屋だった。
知らなかった、あの男にはこんなにお金があったんだわ。
そうして三日もするとすべての屋敷の中の部屋の探検は終えてしまった。
そうなると気になるのがこの小さい金の鍵だ。
普通だったら、あのお金や宝石類の部屋に入るなと禁じるものではないだろうか。それほどに私を信用しているとも取れるが、もしかしたら私が金と宝石だけを盗んで逃げ出すこともあり得るだろうに。
じゃあこの金の鍵を使う部屋の中には何が入っているのだろう?その部屋の場所も知っている。屋敷内を歩き回っていて、まるで地下に続くような小さい扉だけが今のところ残された最後の扉なのだ。
しかしあの金貨や宝石以上に良い物が入っているとは考えられない。
開けてしまおうか、いやいや、立場的には私の方が優位に立っているが、あの青ひげ男爵の怒ったようなあの態度を思い出せ、きっと本当に開けてはいけない扉なのだ、しかしそれならなぜこの鍵を私に渡したのだろう?本当に開けて欲しくないのなら自分で肌身離さず持っていればいいだけの話だ。
そこで私はふと思いついた。
―青ひげ男爵は実は開けて欲しがっているのではないか?
そうだ、わざわざ開けて欲しくない物を開けるなと言って鍵を渡すだなんて馬鹿のすることだ。
あの青ひげ男爵は臆病者だが馬鹿ではない。そんな事をするわけがない。
―もしかして
私は立ち上がった。
私へのプレゼントでも入っているのではないか?だからわざわざ入るな、と釘を打っておいて、誘惑に負けた私がこの小さい金の鍵で開けて中に入ったらそこに私あてのプレゼントが置いて、私を喜ばせる…そのような事を目論んでいるのでは?
あの男は面と向かってハッキリと愛情表現をするのが苦手な男だ。だからこれほどに回りくどいやり方をしているのだ。
そうなると迷いは消えた。
私は金の鍵を持ってその小さい扉を開ける。そこには階段があり、暗く何も見えない下からムッとした妙な臭いが漂ってくる。
もしかして食べ物だったのだろうか?しかしここ最近は気温の高い日が続いていた。まさか中で腐っているのでは。そうだとしたら青ひげ男爵の好意が無駄になったことになる。
その事を知って失望する青ひげ男爵の顔を想像すると楽しいものを感じるが、まず何を置いているのか確認しに行こう。
私はドレスを持ち上げ、段差を踏み外さないようにそろそろと下に降りて行った。段差は十段ほどで、下に降りて階段上の扉から差し込む明かりから見えるのはドレスの端だった。
―食べ物じゃなくてドレス?
うす暗くてよく見えないが、膨らんでいるドレスがズラッと均等にかけられている。地上からの明かりで見える限り模様の細かさといい、服の光沢といい、とても質の良いドレスだと分かる。
―これを私にプレゼントしてくれたのね
私はもっとドレスをよく見ようと近寄った瞬間、
「ヒッ!」
と息を飲んで叫んだ。
近寄ってみて分かった。ドレスは人が着ていた。
一瞬、等身大の人形だと思った。いいや思いたかったがそんな考えは一瞬で打ち砕かれた。
あまりに生々しく苦し気な表情をしている女性たちの顔、そして左にいくにしたがってカサカサに干からびたような質感になっている肌…。
ドレスが均等に並んでいたんじゃない、人が、首を吊られた女性の死体が均等に天井からぶら下げられていた!
「ぎゃあああああああああ!」
私は叫んでそこから逃げ出した。私の声はその部屋の中に反響し、自分の耳が痛くなるほどだったが、それより恐怖で足がもつれ、ドレスの裾を踏んで何度も転びながら私は階段を登って慌てて扉を閉め、震える手で鍵を閉めなおそうとした。
そこで気づいた。手に持っていた小さい金の鍵がない。
中で落としたんだ。
私は慌てて取りに行こうとしたが、この暗い、あの死体たちが並べられている地下に行くのに足がすくんだ。
それでも青ひげ男爵にこの鍵を返さなければ中に入った事が知られてしまうともう一度中に入り込み、下まで降りて床を見ると鍵はすぐに見つかった。
私はそれをひったくるように拾い上げ、後ろも見ずに上に戻り、慌てて鍵をかけて自分の部屋へと走って戻った。
部屋に戻り椅子に座っても、私の全身は震えていた。
「何…何…」
口の中がカラカラに乾き、口に当てている手もブルブルと震えている。
あの首を吊られた死体はなんなの?あの男はあれを知っているの?…知っているはずだ、鍵は全てあの男が持っていた、あの男はあの死体の事を知っているはずだ…。
―まさか
私の頭の中で点と点が繋がった。
―あれは青ひげ男爵の妻だった女たちではないのか?姉さんは言っていた、男爵は顔が不気味で、妻になった人たちは皆いなくなり行方が分からなくなっている、と…
いつも青ひげ男爵に感じているゾクゾクとは違う、恐怖のゾクゾクが私を襲った。
青ひげ男爵は妻たちを次々と殺している。きっとこの金の鍵を渡し、入ってはいけないと言ってその約束を破ってあの死体を見つけてしまった妻たちを…。
と、金の鍵を見て私の顔は更に青ざめた。赤茶色の汚れがついている。地面に落ちて汚れがついてしまったか。
私はハンカチを取り出して必死にぬぐい取ろうとしたが取れない。慌ててハンカチに唾をつけて濡らして必死にぬぐい取ろうとしたが全く取れない。
こんなに綺麗な金色に汚らしい赤茶色の汚れはとても目立つ。
私は立ち上がって、窓の手すりの鉄格子にその汚れの部分を強く擦りつけた。こうすれば少し削れるはずだ。だが削れるどころか傷一つその鍵にはつきやしない。
私は極度の恐怖で息を荒げ、ふと暖炉に目を付けた。
暖炉をつける時期ではないが、薪のある場所は知っているし、火をつける方法も知っている。
男爵夫人が自ら薪を持って火をつけるというのはおかしいものだが、そんな事に構っていられない。私は薪を持ってきて火をつけ、その中に鍵を放り込んだ。
燃えれば鍵は黒くなるだろう。あわよくば溶けるだろう。そうなれば誤魔化せる。それともなぜこんな暖かくなってから暖炉をつけて鍵を火にくべたんだと言われるだろうか。
…なに、あの人は私に屈服するのが好きなのだ。私が強く出たら私に従うだろう。
そうして数時間がたって火も燃え尽きた。私は火箸で薪の燃えかすと灰を寄せて黒くなったであろう鍵を探す。
しかし私は絶望した。
黒くなるどころか、鍵はピカピカと金色に輝いたままの姿でそこに鎮座していた。それも汚れもそのまま。
ゾッとした。
この鍵は何なのだ、まさか魔法でもかけられているのでは…。そうなるとあの青ひげ男爵は何者なのだという得体のしれない不気味さを感じた。
私はまだ熱を持っている金の鍵を掴んで走り出した。
こうなったら井戸だ、井戸に放り投げて捨てるしかない。青ひげ男爵には無くしたと言っておこう。
なに、あの人は私に屈服するのが好きなのだ。私が強く出たら私に従うだろう。
井戸は屋敷の外にある。私は屋敷の扉を開けようと手を伸ばすと、先にガチャリと扉が開き、私は目を見開いた。
今、会いたくない人物が目の前に立っていた。
青ひげ男爵だ。
青ひげ男爵は私がドアのすぐ向こうに居るのに少し驚いたような顔をしていたが、
「ただいま」
と中に入って来た。私は慌てて金の鍵を後ろ手に隠して自分の背中を見られないように視線を青ひげ男爵に向けたまま少しずつ体を動かす。
「おかえりなさい、早かったのね、明日戻ってくると思ってたけど…」
そうだ、もっと遅く帰ってくればよかった。そうすればこの鍵を井戸に放り込めたのに。
「大した用では無かったみたいだ」
「そう…」
「…外に行くつもりだったのか?」
青ひげ男爵がそう私に問いかけてきて、思わず心臓がすくみ上った。
「ええ天気もいいからお庭に行こうかと…」
青ひげ男爵は私を見る。
いつも通りの表情に見えるが、どこか私の心の内を探ろうとしているように思えて視線を逸らしかけた。しかしここで逸らしたらいつもの私らしくないので不審がるかもしれない。私は堪えて黙って青ひげ男爵を見返した。
「手を出しなさい」
肩が跳ね上がった。
まさか、私の手の中に金の鍵があるのを見抜いているの?私は素早く長袖の中に金の鍵をねじ込み、手の汗をドレスで拭ってから何も持っていませんよ、とばかりに両方の手の平を青ひげ男爵に見せた。
「片方だけでいい」
青ひげ男爵はそう言うと、私の左手を手に取り、ポケットから何かを取り出した。
見るとそれは金色のリングに、青く透明なサファイアがはめ込まれた指輪であった。
ポカンとその指輪を見ていると、青ひげ男爵はボソボソと恥ずかしそうに呟く。
「思えばドレスだけでなく身に着ける装飾品も全て前の妻たちの物だから…作らせてきた」
と言って私の手を取り、左手の薬指にそっとはめ込んだ。しかし、薬指の第一関節に指輪の進行は阻まれた。サイズが合っていないのだ。
思わず私が青ひげ男爵の顔を見上げると、青ひげ男爵はこの世の終わりとでも言いたげな顔をして体を硬直させ私の顔を見ていた。
「す、すまない、このサイズでいいものだと…」
その硬直して顔を青ざめさせ、私の機嫌を伺うかのようにしている男爵の顔を見ていると、段々と笑いが込み上げてきて思わず笑ってしまった。
「いいわ、小指にはめるから」
薬指にはまらないが、小指にはキッチリとはまる。それを見ると本当に透明なサファイアで、サファイアの底に「C」という文字が見えた。
「君の名前の頭文字だ」
笑って許す私に青ひげ男爵が安堵の表情を浮かべながらそう付け足す。
さっきの恐怖が消えたわけではないが、その表情を見ているとあの死体とこの人は何も関係ないんじゃないかという気持ちになった。
そうだ、この人は私に心底惚れている。私を殺すだなんてことあるはずがない。私もあの地下の死体を見た事を忘れれば今まで通りの何不自由のない生活が送れるはずだ。それにはまずこの金の鍵をなくしたことにしよう。
私は袖の中に入れている金の鍵を、更に袖の奥へとねじこんだ。少し鍵の形に盛り上がっているが、腕の関節の部分なので服のしわと同化できるだろう。
そうして青ひげ男爵と少しずつお互い離れている間の話をしていて、ついに青ひげ男爵は言った。
「鍵を返してくれ」
一瞬心臓が凍り付き震えたが、私はそれを表情に出さずに鍵の束を青ひげ男爵に渡した。青ひげ男爵はなおも私を見ている。
「金の鍵は?」
「それが…なくしてしまったの」
「なくした?」
青ひげ男爵が表情を変えて私を見るので、私は慌てて話を続けた。
「あなたが使ってはならないと言っていたけど、私、つい開けてしまいそうと思って色々な目のつかない所に隠したの。そうしてどこなら一番いいかしらって色々な所に場所を移動していたらどこに隠したのか自分でも分からなくなっちゃって」
自分でも驚くくらい説得力のある嘘だと自画自賛した。
「ちゃんと探すわ。だから見つけるまで待ってちょうだい」
なに、この人は私に屈服するのが好きなのだ。私が強く出たら私に従うだろう。
しかしそれに帰って来たのは拳でテーブルを叩きつける激しい音だった。
「本当はどうしたんだ」
テーブルを叩きつける大きな音と今まで聞いたことのない低い声、そして睨みつける目に私は体がすくみ上った。
青ひげ男爵は立ち上がって私を威圧するように立ちふさがり私を上から見下ろした。
「本当は、どうしたんだ」
その迫力に私は目を見開いてただ見返した。
これがいつもオドオドとして私の顔色を伺って屈服し続けていたあの青ひげ男爵か?
「言えないのか、本当はどうしたんだ、言ってみろ!」
青ひげ男爵は私の首に手をかけ、絞め付けた。
女主人と従僕の関係は、この時の一瞬でひっくり返った。
「ねえ、私の首を絞めてみて」
寝る間際、ノアールにそう言ってみた。ノアールは驚いたように目を見開いて私を見る。
「そんなことできないよ」
「少しでいいの。軽くよ、軽く。本気で絞めちゃいやよ」
その私の言葉にノアールは遠慮がちに私の首に手を伸ばして軽くキュッと絞めつける。
「もっと強く」
首に巻き付く指の力が強くなった。軽くでも苦しいし頭に血が上る。するとノアールはソッと手を離した。
「やっぱりこんな事、冗談でもやっちゃいけないよ。やめよう」
手を離された瞬間から、スーッと頭に上った血が下に降りて来た。
青ひげ男爵の怒りは凄まじく、私の首の骨が音を立てて折れるのではないかというほどの力で首を絞め続けた。
「…!…!」
私は青ひげ男爵の手をかきむしり必死に外そうとしたが外れない。
意識が遠のきかけた時、青ひげ男爵は私の首から手を離し、私は床に突っ伏して涙や鼻水、よだれを垂らしながら大きく咳き込んだ。
すると青ひげ男爵は私の腕を上に引きあげ、袖を万力の力で破いた。そこから金の鍵がポロッと落ちていく。
青ひげ男爵は鍵を持ち、汚れた部分を見つけて黙って私を睨み下ろした。
「やはり開けたな?」
「ちが…」
私は咳き込み、涙を流しながら訴えようとすると、
「何が違う!開けたんだろう!」
と大声で怒鳴りつけた。
私はビクッと肩をすくめ、顔から出ている液体を全て拭ってから青ひげ男爵を見上げた。
「だって開けるなと言いながら鍵をおいて行ったから、本当は開けて欲しいんじゃないかって思ってんだもの…!もしかしたら中に私あてのプレゼントがあるんじゃないかって思って…!開けて欲しくないなら鍵を渡さなければ良かったじゃないの!」
「四日、いや三日!」
青ひげ男爵はそう言いながら目の前をウロウロと歩き回る。
「たった三日で我慢が効かなくなったのか!どうして女は私のいう事を聞かない!どうして女は約束を破る!どうして女はそう自分の都合の良いように考える!どうして女はそうやって自分を正当化する!どうして女は自分のしたことを棚に上げて私を非難する!」
手を大きく動かして怒鳴り散らす青ひげ男爵に私はただ黙って震えているしかなかった。絞められた首が痛い。
「見たんだろうあの女たちを!皆そうだ、皆私との約束を破った!皆私のいう事を聞かなかった、皆そうだ!コレット、君は今までの妻たちと違うと思っていたのに…!」
言うなり青ひげ男爵は嗚咽を上げてその場に崩れ落ち、泣き出してしまった。
その言葉を聞いて、この金の鍵が何なのか分かった。
この金の鍵は妻が自分のいう事をしっかり守ってくれるかどうか試すための物だったんだ。
それなのに私は自分の都合の良いように考え、青ひげ男爵の信頼を裏切ってしまったのだ。そうなるとこの青ひげ男爵は今までずっと妻たちに裏切られ続けたことになる。
正直このように試されるのは面白くないが、それでも信頼を裏切ったことに変わりはない。
「…ごめんなさい…」
私が青ひげ男爵に手を伸ばしかけると、青ひげ男爵は顔を上げた。その顔はもう泣いておらず酷く冷静で、それがどこか感情が欠落しているように見えた。
「コレット、その服は破れてしまった。着替えなさい」
いきなりの言葉に私がキョトンとしていると、青ひげ男爵は私を立ち上がらせた。
「着替えなさい、その破れた服のままあそこに並べるのは気が引ける」
私は目を見開いていると、青ひげ男爵は私のドレスが並べてある小部屋を開けて何着か持って着てベッドの上に投げかけた。
「どれがいい?青い色か?ピンクのこのドレスか?それとも花嫁衣裳のこれか?」
「待って、まさか私を…」
殺すつもり?という言葉が出て来なくてそこから先は口をパクパク動かすだけで何も言えなかった。青ひげ男爵は光の差さない瞳で私を見据える。
「君が着替えている間に斧を研いでいるよ。ゆっくり着替えなさい」
「待って」
私は手を伸ばして青ひげ男爵を捕まえようとするが、それをすり抜け青ひげ男爵は扉へと向かっていく。
「血を抜いてから並べるようにしているんだ。屋上で首の端を斧で切断して吊るして、血を抜いた後に首に縄をかけてあそこに吊るしている。大丈夫、痛いのは最初だけだ」
「待って!」
扉が目の前で閉じ、鍵を外から閉められる音がした。
体が震えた。本気だ。あの男は本気で私を殺すつもりなんだ。
ふっと朝の光で目が覚めた。隣にはノアールが健やかな寝息を立てて眠っている。
そんな寝顔を私はじっと見ていた。なんて平和な寝顔だろう。こんな寝顔を見ていると、この人は私に殺されるわけないと思って安心して寝ているんだわと実感する。
まあ私もノアールに殺されるわけがないと思ってこんなにぐっすりと朝まで寝ていたのだけど…。
部屋に入ってきて着替えていない私を見て、青ひげ男爵は無理やり私の服をはぎ取り、無理やり別のドレスを着せて屋敷の屋上へと連れて行った。
「最期くらいいい景色が見たいだろう?」
淡々と物事を進めていく青ひげ男爵に私は泣き叫んだ。
「お願い、許して、もう二度とあなたに逆らったりしない、あなたとの約束も破らない、いい妻になることを約束します、だからお願い…」
その様子を青ひげ男爵は薄ら笑いを浮かべて見下ろしていた。
「皆そう言っていた。あの扉を開けた後にだ、もう遅いんだ、分かるだろう?」
どこかゾクゾクとした感情…私が女主人として感じていたような興奮を覚えているのか青ひげ男爵は私を歪んだ熱い視線で見る。
その視線に背筋がゾクッとした。
「私を愛してないの?」
「愛してるよ」
「けど殺すの?」
私の顔を青ひげ男爵は見て、どこか蔑むような目つきで私の頬を触る。
「約束さえ守っていればこんなことにならなかったんだ、全部お前が悪い」
その目を見て、体がゾクゾクと震える。青ひげ男爵も私のそんな姿を見て満足気に見ていた。
「もういいだろう?」
青ひげ男爵は我慢できないとでも言うように私をグルリと回し、下の風景を覗き込ませるように屋上の縁へと押しつけた。
「待って、やめて」
「黙っていなさい。動くと痛みが長引く」
ああもう駄目なんだわ。
私がそう思って縁から顔を出し今までの人生を振り返っていた時、屋敷に誰かが二人入って来るのが見えた。
兄さんだ。
明日来るはずの兄さんたちが早めに来たんだ。
私は大声で叫んだ。
「待って!せめて最後のお祈りをさせて!」
その声に屋敷に入りかけていた兄二人が辺りを見渡し、ついに上を見あげ、私の顔を見て驚いた表情をした。
気づいた!
兄は口を開きかけたが、それを止めるように私は続けた。
「死刑執行人だって最後のお祈りの時間を与えてくれるでしょう!?お願い、せめて殺す前に最後のお祈りをさせて!」
ここまで言えば今ここで何が起きているか分かってくれるはずだ。兄二人はその私の言葉に慌ててドアを開けて中に入って行くのが見えた。
あともう少し、もう少し時間を稼げればいい。
私の言葉に青ひげ男爵は少し考えるそぶりを見せたが、力を緩めて放してくれた。
私は時間をかけてゆっくりと起き上がり、そしてゆっくりと手を組んで、ゆっくりと上を向いて口の中でモゴモゴと祈りの言葉をゆっくりと唱えた。
「まだか?」
後ろで斧の柄を手に当てるパン、パン、という音が聞こえる。
私は目をつぶり、震える体と声で、口の中でゆっくりゆっくりと言葉を唱える。
「まだか?」
声が少し近づいている。私は一瞬恐怖で言葉を止めたが、またゆっくりと言葉を続ける。
しばらく青ひげ男爵は何も言わないので待っていてくれていると思っていたが、私の肩にその筋張ったゴツゴツとした温かい手の平が当たった。
「まだか?」
手の温かさと対照的に人を追い詰めるような冷たい声色だ。
私は体の全身にゾクゾクと震えが走った。
私は再び押しつけられ、首を動かし目の端で青ひげ男爵を見上げると、楽しそうな顔つきの青ひげ男爵が見えた。
―この人、こんなに素敵な笑顔で笑えたんだわ
私は思わず斧を振り上げている青ひげ男爵の顔に魅入り、ウットリと口を開いた。
「愛してる、青ひげ男爵」
その言葉に青ひげ男爵は攻撃的な目が揺らぎ一瞬体を硬直させ、戸惑った目で私を見下ろした。
すると後ろから、
「コレット!大丈夫か!」
という声が聞こえた。私はこの声を知っている、兄さんたちだ。
「この野郎!」
兄さん二人は剣を引き抜いて青ひげ男爵に斬りかかった。
いきなりの二人の登場に青ひげ男爵はろくに身動きも取れずにあっという間に二人の剣先にかかって血を噴き出し倒れて行った。
そりゃあそうだ、私の兄さんは竜騎兵と近衛騎兵として現役の兵士として働いているのだから、そんな二人相手に不意を突かれた形でまともに戦えるわけがない。
私はあっけなく倒されて絶命した青ひげ男爵を見て声を上げて泣き、兄二人はそんな私を抱きしめ慰めた。
青ひげ男爵には一人の跡継ぎもいなかったので、遺産はそっくりそのまま妻の私の物になった。
そのお金の一部を私は兄二人と、姉に分配した。
そうしてノアールが私に求婚してきた。
「君がお嫁に行く前から君の事が好きだったんだ。だから結婚してくれないか」
兄二人はまた青ひげ男爵のようにならないかと心配してノアールの身辺調査をしたが、ごく普通の貴族家庭の青年だし、金にも困っているわけでもないので金目当てでもないようだという事が分かり、私も流れるままに彼の求婚を受け入れて嫁に行った。
「それじゃあ行ってくるよコレット」
ノアールが寂し気に私に口づけをして名残惜しそうに私の顔を見て馬車に乗っていった。少し走り出してから馬車はすぐに止まり、中からノアールが出てきてまた私を抱きしめ、
「愛しているよ、コレット」
と言ってからまた馬車に乗って出発した。
ノアールは私を心から愛してくれる。いつでも私を気にかけてくれる。いつでも愛の言葉を囁いてくれる。いつでも抱きしめてくれる。
きっとお互いにしわだらけになってもその穏やかな愛し方は変わらないのだろう。
だけどたまに無性に懐かしくなる。
青ひげ男爵のあの不器用な愛し方を、狂ったような熱情を、どこまでも人をゾクゾクさせるあの攻撃的な表情を。
あの人は本気で女性に愛されたかったのだ、本気で女性を愛したかったのだ。だけどあの青いひげという見た目で女性に強く出られず、結局女性を信じることが出来ずあのような形でしか愛せない人だったのだ。
青ひげ男爵に首を絞められ女主人と従僕の関係がひっくり返った時から、私は恐怖と共にどうしようもない力にねじふせられる喜びをずっと感じていた。そして斧を振るう時の青ひげ男爵の表情を見て改めてこの人が好きだと実感した。
このような事、姉さんにも言えない。
あのような恐怖体験をしたせいで私の頭もどこかおかしくなってしまったと思われるだけだ。
青ひげ男爵が兄二人に倒された後、助かったという嬉しい気持ちと、愛しい人が死んだという悲しい気持ちで泣きじゃくった。どちらの感情が強かったのか、判断はつきかねる。
私は左小指にはめている指輪を改めて見た。
あんなに透明だったサファイアは曇り空が入り込んだように色がくすんでしまい、私の頭文字の「C」の文字も見えないほどになっていた。
その色は、青ひげ男爵の説明しがたい複雑なひげの色だった。
「…私も愛してるわ」
ノアールを乗せた馬車を見送りながら、私は指輪に口づけをした。




