Man-Eater's Good Garden 人喰いの良き庭
※そのうちPixivにものせるかもしれません。
「Man-Eater's Good Garden」
◆◇
―――晴れた日には、乾いた空気を吸い込みながら、ただ水色の空を眺める。芝生の感触が背中いっぱいにチクチクと心地良い。
人々の健康を害する汚い排ガスの臭いの中に、儚く暖かな花の香りのするこの屋上は、地上11階―ーーーくすんだネズミ色の雑居ビルの最上階にある。
汚い世界から四角く切り取られたこの庭にだけは、特別な時間が流れる。
何も要らないと思う。他は全て滅んでこの場所だけが世界になればいいと思う。
ここは、浮き世離れした、俺達の庭。
この庭のもう一人の住人、ハルキ(春樹)と。トウジ(透次)――俺の。
◆1◇
生きているって、その時感じられるか。それを肯定できるか。
俺はアタマの良い方じゃないけど、「馬鹿だなぁ」って思う人間は、世の中の大半がそうだと思ってる。
偉そうだと思うだろ。
でも俺は、どうしても許せないんだ、生きることを楽しんでない人間が。
生きることを頑張って、じゃないぜ。頑張って苦労して生きてることが、なんとなく生きてはいない、………ことにはならないからな。
そう、なんとなく生きてる連中がムカつくんだ。こんなにも 物に溢れ、一応食うにも困らず、むしろ食うため稼ぐため熱心に貶め合ってる連中ほど、その金を、権利を、人生を何の為に使いたいのかわかってない。
俺はそれが悲しいんだ。虚しいし、下らなすぎて目から鼻水が出そうだよ。
なんでそうなっちまうのかは俺には解らない。でも、どうすればそうならないのかは、絶対無くさないようにしてる。
だって俺や、大半の人間には、もう残された時間はそんなにないんだ。
この20XX年―――わかるだろ。
クソみたいな世界情勢の中で、この国は途上国の餓えた難民を殺戮し。
地球を何回も滅ぼす為に核も生物兵器も開発し。自然の全てを使い尽くす為に要らないモノを量産しまくる。
それどころか、そうやって儲ける一握りの人間が、自国の人間さえ使い潰し、洗脳し、過労死させてる。
でも大抵誰も、そんな日常に満足なんかしてない。純正品のスーツに身を包んでワインを傾けても、残業のあいまにかき込むように暖かいだけのパスタを食べても、誰も幸せじゃないんだ。
それでも誰も、文句を言わない。
あんたも日々耳にしてるんだから、わかるだろ。こんなになってまで、わからないと自分に言い聞かせ耳を塞ぐなら、……マジで生きるのやめてくれよ、そんな人間はさ。悪いけど本気だぜ。
幸せじゃないのに、もう死んでいかなきゃならないんだ。
むしろ変えれる事すら変えようとしない奴らは、死んだ方がラクかななんて言ってる。
ほら、俺のこと嫌なやつだと思ってるな?
そんなに文句があるなら、自分で何かを変えていけって、よくひとには言われるよ。でもそういう、自分では文句すら言わないでいる奴が、危険を冒して立ち上がった人間に、たとえば少しの応援・協力ですら、すると思うか?
何も言わず、何にも攻撃されないように陰に隠れてるだけの人間の分まで、俺に背負えって言うのか。
俺はそんなやつらの為に死にたくない。だって生きてるのが楽しいから。流石にいつもじゃないけど、時々な。時々だけど、確かに、確かに俺は幸せなんだ。
……今は。この地域にミサイルが降ってくることはない。
公害も、まだ即死はしないレベルだ。
安月給でもこの屋上を遺して貰えたせいで、なんとか生活できてる。
彼女はいないけど、ハルキのやつが一応居るし、俺は孤独感とかは特に無い。
そう、今は。―――今くらいしか無いんだぜ。俺達には。
この日常がずっと続くつもりで、社畜になってる場合じゃねぇのにな。
もっと早く大事なモノに気付ける状況だったなら、こんな世界にはならなかっただろう。
――ちくしょうめ。
夢も希望も無いなら。
なら俺は。せめて今、ゆっくりと生きていたい――――自分達の庭で。
◆◇
「トウジ、レモンティーできたよ。……コレ、また水ヤバくなったんじゃない?」
差し出されたマグカップを受け取る。
「ほんとだな。」
浄化槽を通ると色だけは無色透明になるけど、汚染物質はダダ漏れだから、レモンじゃない味もする。まぁ、レモン自体ただの人口の香料によるものなんだけど。
「ん~、君は良い匂いだねぇ…。こんなに汚い空気のなかでも、よく美しく咲きました。」
またハルキが花にむかって話してる。
よく女口説くみたいなセリフも言うんだ。花に。
俺はマグカップを小机にコトンと音をたてて置くと、思い切り伸びをした。
「う゛ーーーっっ~。」
そのまま、小さい折りたたみ椅子ごと、真横に倒れる。軽い衝撃とともにチクチクとした芝生が肌に触れる。やっぱり一番モロに感触があるのは顔らへんの皮膚だな。くすぐったい……。
「おっさんみたい。あとそれ、そうやって倒れてお茶ひっくり返したじゃん。このあいだ。」
俺は、倒れたままゆっくりとハルキを見上げる。ふわっとパーマをかけた明るい茶髪が風で揺れて、ネコ目が軽く睨んでくる。
口元に意味深な微笑を貼り付け、俺はアンニュイな返事を返した。
「……あーあ、世の中の全てがパンティだったらいいのに。」
「―――意味がわからないよ!!」
◆2◇
ねぇ、知ってる?
今このあたりの火葬場は商売繁盛の感謝セールでけっこう安いんだ。
トウジの1ヶ月分の収入くらいで充分なのさ。
貯金はちゃんとそれくらい貯まってるみたいでさ。
トウジはね、多分俺より先に死ぬんだ。
そのへんの連中とたいしてかわらないよ、公害による病死。
でも俺もトウジも、まぁ、家は良いとこの家系だから、汚染物質には気を使って生活してた筈なんだけど……。よくある話、安全神話なんてボロボロに崩れてても他に選択肢が無ければ、食品でも医療でも見え透いた"安全"しか手に入らないのさ。
それで、ようするにトウジは1日3回の服薬無しでは生きてゆけない、産まれた時からの気管支系の障害者なんだ。
病因は不明だけど、幸か不幸か、近年では生まれてくる子供がけっこうな割合でこの病気だから、薬は薬局へ行けば安く買えるくらい流通してるよ。
俺は看取るってもう決めた。ここに二人して住むって事になった時に、もうね。
二十歳まで生きらんないって言われたんだぜ。俺ら、もう19だけどさ!
いやぁ、俺がここにトウジと住むことになったのは、まだ去年の話なんだよねー。
俺の話だけどさ、俺ん家とトウジん家はいわゆるエリートな金持ちでね。俺の父親の兄がトウジの父親で、2人とも生粋のクソッタレさ。
俺は今頃、会社の若手幹部候補者だった、親父のプランではね。
でも俺はそれを蹴った。親の期待が重すぎたから。帝王学や選民思想やナショナリズムが嫌だったから。人殺しが嫌だったから。―――いろいろあるよ。
まぁ、小さな殺人なら今の俺のお仕事でもあるけどね。
殺人に小さいもくそもあるか、っていうなら、そう言うヒトはまだわかってないね。俺の家の会社ってのは軍需産業カルテルそのものさ。
地球上のあちこちの戦争で人が死にまくってるけど、そこの人達に―――反政府にしろPKOにしろ民主主義政府軍にしろ――なかなか贔屓にして貰ってるんだよ。まぁ、けっこうなもんって言っても、あくまで日本の企業の中では、だけどね。
俺の父も祖父も姉も、そいつ等の稼ぎで生きてきた母も俺も、みんな殺人の片棒担いでんのさ。
まぁ、それを言うなら軍国主義政府に投票したこの国の人間全部だけどさぁー……うん、まぁね。
とにかく、俺は小学校の中学年くらいまで、最近のガキらしい自分の脳で考えない人間だったよ。そういうふうに育つように教育された。
良いと教わったものは良い。
勝った者は正しい。
勝ち負けがあるモノは必ず一番になること。
――…1人のチャンピオンを決めるってことは、その陰で惨めに負けていく人間が居るってことなのにね。
だから俺には。
努力しても工夫しても、自分のせいでも、好きでそうなった訳でもないのに、負け続けることが決まっている人生、なんて俺には想像も出来てなかった。…トウジのことだよ。
俺の親父とトウジの親父は兄弟だけど、相棒ではなくライバルだったから、従兄弟のトウジとまともに会ったのは小学校の中学年頃。
最初俺はトウジと勝負して勝って、親父達の前で自慢してやるつもりだった。でも、まずやった数学のドリルで負けた。IQテストの成績を見せ合ったら総合評価でハッキリ負けた。
――「勝負事でもし負けたら勝つまでやれ。」
――だから、俺は絶対勝つ自信のある腕っ節で勝負したよ。勝った。トウジが体が弱いってわかってたしね。
投げ飛ばされて咳き込みながら、トウジは、俺早死にしちゃうかもしれないの知ってる?って言った。「しらねーし!」って言って少しムキになった俺にトウジは淡々と「なんで、ハルキ君が死ななくて、俺は死ぬの?」って返した。俺は、ただまた「……しらねーし。」って言ったんだ。
「じゃあ俺も、計算を絶対に間違えない方法、教えてやらない。」
「そんなん俺だって知ってるし!次は勝つからな!」
言い捨てて出て行こうとした俺の腕を掴んで、じっ、と目を合わせて言ったんだ。
「お前が元気に生まれたのって、お前が偉いからなの?」
その時は、苛つく奴だと思って、手を振りきって出てった。でも、それからずっとトウジの事が気になってたんだ。
大きくなって大人達の話がわかるようになるうちに、トウジがどういう人間なのか俺はだんだん理解した。
―――逆なんだ。
俺は完璧な男にならなきゃいけなかった。親から期待されて、みんなに注目されても恥ずかしくないように。周囲に気を配って、他人の上に立つ人間として。
―――トウジは病弱で役立たずなうえ、偏屈な鼻つまみ者。
最初俺は、それをバカにした。そして、反抗期になって親の期待がうざったくなると、少し羨ましく思ったりした。お気楽な人間でいいねって。
でも、周りからの重圧がシャレにならなくなってくると、真剣にトウジの事を考えだして―――そして知った。
トウジはね、ずっと独りだったんだ。家族はいたけど、でも家庭の中で隔離されてた。誰にも相手にされず疎まれてた。
学校にも行かず通信教育で自室に籠もり、一日中で言葉を交わすのが食事を運ぶ使用人への挨拶だけ―――そんなのを知った時はビックリしたよ。ほんと。
それがきっかけで、まぁ、俺は寧ろ自分の人生について考えるようになった。
『他人から尊敬される、必要とされる人間になるべきだ。』
なら、生まれた時から親の期待を裏切っていたトウジは、跡目も継げず、何の為に生きていけばいい?
『幸せになりたかったら勉強して出世してみせろ』
勉強してるのは親のエゴに従ってるだけで、トウジはネットとカップ麺のある生活さえできれば、それ以上稼がなくても幸せだと言う。貧富の差がひらいた昨今で、そんな丁度良い収支のバランスがトウジにとれるわけは無いのだけどね。
『世界の貧しい人達の事を思えば日本人は恵まれ過ぎている、感謝しろ』
物質的に豊かでも、日本人には幸せを噛み締める余裕も空気も無い。自分より不幸な者がいるからって、それは自分の境遇の理不尽を許す理由にはならない。トウジは眠たそうな眼をしながら、ハッキリそう言い切った。
―――トウジはまるで世捨て人みたいだ。
変な奴すぎて……俺の学んだ常識や概念をグチャグチャに混乱させる。それでも、そうやってトウジに突き崩されたものは、ゼロから考えて、自分で練り上げていくとけっこう違う姿になって面白かった。
でもそれは同時に、親達との亀裂を生んだ。反抗期は終わって然るべきなのに、俺はどんどん周囲の常識に懐疑的になったからだ。自分達の大事な息子にいかがわしい思想を植え付けるなと、親父が怒鳴り込んだ事も数回ある。
むこうの伯父は、一切トウジの擁護なんてしなかったよ。
「お前の飼い犬がよからぬものにかぶれたのは、お前の監督不行き届きで…」って言われてるような感じで俺も腹が立ったけど。
「どうせ頭も白●なんだ、せめて殺処分出来ないなら、しっかり繋いでおくんだな!!」
俺の親父がツバ飛ばしながら言い捨てて、トウジを放るように突き飛ばした時。
あいつは、悔しさでも、怒りですらない、どこまでもただ冷えきった眼をしていたね。
俺の方を、見もしねえんだ。
◆3◇
―東を、治める―――。
なぁ、嫌な名前だと思わないか。
俺はそういう人材に育つよう期待された人間だったらしい。
クソくらえだ。
だからハルキにつけかえて貰った。はじめまして、俺は"透次"だ。
仕事も含めてネットでは殆どこれで通してる。
あいつもそうなんだぜ。治輝、なんて。いかにもこの国の輝かしい未来を背負って立つボンボンにふさわしいだろ?
だから、俺のセンスでいくとこうだ。
春樹―――フローラルな感じでいいだろ。
……あいつな、物腰柔らかくて、見た目もちょっと軽そうで、性格も明るいから、……優しそうに見えるだろ。優男に見える。
でもな。全然違う。
あんな強情なやつ、そうそういねえ。そういう育てられ方したから、だとしても、あんな教育についていけるハルキもハルキなんだよ。
俺ならやっていけねぇ。
1日に何時間、習い事や勉強の類をしていたか。園児の頃からもう、ただの遊ぶ為の時間なんて無かったんじゃねえかな。
そんな"教育"の一環で空手も習わされててよ。喧嘩もかなり強いんだぜ。毎日荒事を請け負って生活してる。
あいつは……俺をなるべく巻き込まないように、最大限気を付けてるから、俺は、あいつの仕事の詳しい事は知らない。
…でも。確実に人を死なせるくらいの事はしてる。指紋つけない為とかだと思うけど、帰ってくるとよくゴム手袋とか燃やしてんだ。善悪だとか、そんなの気にしてられない業界で生きてる。
俺だってある意味ではそうだけどな。
俺の仕事は……しょうもない、末端の末端なんだけど、軍関係のプログラムのデバッグとかやってる。1日中パソコンの前に座って、どっかの人間を殺戮する下準備をしてる。
この国で"普通"に暮らしていくだけで、誰かを踏みつけにするよう出来ているように。俺達は2人共、立派な人喰い黄猿だ。
―――こんな世界にはもう、人喰いの犬畜生と、喰われる為の人間と、喰われる為の犬畜生しか、残ってないのかもしれない。
そんな気がしてくる。
◆4◇
まだ小さな子供だった頃、あんたの友達は何だった?
いつも一緒のぬいぐるみ。
頑張って育てたカブトムシ。
抱いて眠った枕。
俺の友達は沢山いて、ストーブやタオルや冷蔵庫だった。
俺の友達は全部《物》だった。
………そうなんだよ。キチガイだと言いたいなら勝手にしろ。
俺は物から何かを感じ取ってアレするような霊感人間じゃない。
当然話しかけても返事なんかしねえし、いくら幼かったとはいえ魔法なんて信じてはいない。それでも俺は話しかけ続けた。
あんたは、自分のこと《かわりなんていない尊い1人の人間》だって思うか?
その尊いオンリーワンが地球のあちこちでどれだけ犬死にしていくか、少しくらい考えたことあるだろ。
《物》もそうだって考えたことあるか、じゃあ。
同じコップでも、メーカーも材料も同じでも、どこの工場で何時何分何秒にどこの生産ラインで作られたか。
作り手が真心込めた一点モノ云々の商品の話をしてるんじゃねえ。
幼い俺は、家具一つ、文房具一つでも、《物》だって全く同じ存在なんて無い尊いオンリーワンだと思ったのさ。
はっきり言って、馬鹿だろ?
でも、俺は真剣だった。
そして、その《物》を俺の親はバンバン捨てた。
古くなって大切にしても修理しても、もう使えなくなったから捨てるならまだよかった。人間が寿命で死ぬのと同じさ。
でも、必要ないから。新しくて良いのがあるから。やっぱり気に入らないから。
――人として尊敬できない両親の、くっだらない都合で、次々と俺の周りの《物》たちはかわっていった。
親父がキレて床に叩きつけたコップ。まだ使える旧式のストーブ。いつも俺を暖めてくれた毛布。
「コレが好きだから捨てないで」って頼んでみても、きいてもらえたためしなんかなかったね。……俺の意見なんか親には何の価値も無い、聞く耳持たない、っていうのにも傷付いたんだよ。
……オンリーワンの《物》がそうやって捨てられていくだろ。俺は無意識に自分も同じだと思ったんだ。俺だってオンリーワンの尊い存在のはずだ、人間はみんなそうだって大人達は表面上はそう言う。それでも《物》が何の意味も無く捨てられていくなら、《俺》だって同じだ。
俺はとにかく悲しくて、でもそんな本音を話せる人間なんて誰もいなかったから、《物》に話しかけていた。
勉強が終わった後、誰も居ない玄関で、粗大ゴミに出される冷蔵庫に話しかけた。
親父が買い換えると決めた、まだピカピカの緑の車と自分で、こっそり最後に記念撮影をした。
みっともないからもう履くなと言われた子供用の靴に、今までの礼を言って撫でた。
――『こんなことのために生まれてきたんじゃないのにね。』
俺は捨てられていく《物》たちを慰め続けた。
何歳頃までだったかな。でも今もそう思う時はあるよ。
………いや、子供の頃の俺は、馬鹿だったなぁ、って話だ。
思い出すだけで疲れるんだよ、こんな感傷は。
◆5◇
屋上へ続く階段の横にある、他の部屋より小さい簡素な一室。
現代人が生活する最低限のスペースに思えるそこが、俺達の住居だ。
トイレ、シャワー、申し訳程度の台所。それ以外に有るのはネット環境と二人分の寝袋くらいだ。まぁ、俺が集めたガラクタの類も散乱してはいるが。
この部屋と屋上を、俺に遺してくれたひとの話をしよう。
周りにとって邪魔でしかない厄介者だった俺に、唯一笑顔を向けてくれた人の話を。
……彼女は俺の伯母だった。俺の母親の7つ年上の姉だったけど、随分歳いって見えた――病弱だったんだ。俺みたいな公害によるものでなく、生まれつきだったみたいだ。
周囲の猛反対を押し切り結婚して、その夫に先立たれて出戻って。夫側の親戚に保険金殺人を疑われて。容態の悪化に伴いかさむ入院費。肩身の狭い彼女が持っていられた財産は、結局このビルの屋上と、その下の狭苦しい一室の権利だけだった。
でも、とにかく俺はそんな事知らなかったし、どうでもいい。
あの人はただ―――俺に言ってくれたんだ。俺のせいじゃないって。
――「あなたの体が悪いのは、あなたのせいじゃないのよ。…自信を持って生きなさい。」
――「誰に何を言われても、生きなさい。きっと良い事があるから。」
かすれた声で言うんだ、チューブをたくさん繋いだ体を病室のベッドに横たえて。
俺の手を握る指は、まるで骸骨のもののように、ガリガリで。
でも俺は、彼女が何を言っているのか、よくわかっていなかった。
―――誰のせいだとかじゃなく、事実として今も大人になっても俺は、体の弱い役立たずのままなんだから、仕方ないじゃないか。自信なんか持ってどうするんだ。
―――それでも、死んだら多分なんにも無くなっちゃうから、言われなくとも別に死ぬつもりなんか無い。
……そんな風に、思っただけだった。
だってまだ7歳だったんだ、彼女にそう言われた時は。
俺の母親は、じつの姉である彼女を嫌っていたから――というより、恥だと思っているみたいだ、と幼心にも感じた――会った回数はそう多くはなかった。……それでも、今思うと彼女は俺の事をよく心配していてくれた。
心を向けていてくれた。
それを理解してもいなかった俺に、伯母はこの部屋と屋上を遺して、俺が10歳の頃、夭逝した。
俺は15になると、親に扶養義務は無くなったと言われて、ここで1人きりで暮らすことになった。
自分1人のものになる部屋の中で……埃を被った古い小机の上、幼い、幼い俺の写真が入ったフォトフレームを見つけた時。俺は、初めて伯母が死んだことを悲しいと思った。
◆◇
階段をのぼり、重く軋む扉を開けると、ぶわっ、と冷たい風が俺の顔面に吹き付ける。
眼精疲労を和らげる為にも、寒い中少し無理をして庭に出てきた。パソコンばっか見つめてますます視力の落ちる眼には、緑が沁みる…。
空を横切る軍の輸送機の爆音以外、ここは癒やしの空間だ。
庭の外の景色なんて見ない。こんなクソッタレた国の、荒んだ風景なんて、意識してでも見ないでいる方がいい。
庭を眺める向きで折りたたみ椅子に座り、俺は遅めの昼食として、総合栄養食であるココア味の固形物をモソモソと食らっていた。
「あかりをつけましょボンボリに~…。」
ハルキは庭の隅に植えられた、雪柳の小さな木の前で雑草を取っている。雪柳ってのは、白い小さな花が枝いっぱいに沢山ついて、雪が積もったように見える木だ。3月中旬の今、開花している。
「お花をあげましょ桃の花~。」
「…おせーよ。」
俺は笑った。
「ひな祭り、この間終わったわ。」
一瞬の間の後、ハルキはこちらにクルリと振り向いた。
「終わったとか言うなよ!今も俺の前で、こんなキレイに咲き誇っているのにっ!」
「いや、それ桃じゃねえし。むしろ雪柳に対して失礼だろ。」
ハルキがさっきからサワサワと撫でている雪柳は、花は白いが蕾の時はピンク色をしている。五分咲きくらいの今は、遠目に見ると色が合わさって薄ピンクにも見えるが、まぁ桃には見えない。『フジノピンク』という品種の雪柳らしい。
「……咲き誇っているのにっ。」
「……お前のアタマがか。」
「はぁ?!ひどーい!」
抜き取った雑草を投げつけてくる。
「うわっ、やめろよ!……つーかさ、ボンボリ、って何?」
「ググれカス。」
「ひでぇー…。」
大人しくタブレット端末で『ぼんぼり』を検索すると、見慣れない『雪洞』という文字とともに説明が出てくる。
「やっぱアレだ、行灯とか提灯とか、そういう感じの物だ。」
「へー。俺は子供の頃、替え歌ばっか歌ってたから、ぼんぼりが何かとか疑問を差し挟まなかったわ…。」
「替え歌?」
「あー、うん。小学校低学年の頃はアホみたいな替え歌たくさん作って喜んでた。一番有名なのは『あかりをつけましょ爆弾に~、ドカンと一発禿げアタマ~』ってやつ。全国共通なんじゃね。」
「うわぁ……。」
マトモに学校に通った事のない俺は、小学生の持つハゲ蔑視の意識に驚いた。
「でも、昔じゃあるまいし、からかおうにもハゲなんて、今はヅラもしつこく引っ張らなきゃずれたりしないだろ…。」
「いや、『ヅラ検診』とか言ってさぁ、新年度の新しい担任とかを、絶対引っ張るヤツいるんだよ。」
「……それお前だろ。」
「あー、うん、俺もある。…婆さんの先生でさぁ、細かい事グチグチうるせぇ奴だったから、かがんだとこ友達と取ってみたら、超~ヒスってた!」
「ひでぇ…。」
「あと、潔く禿げるがままの先生なんかはね、晴れた運動場とかで『うわッ、眩しい!』とか言ってやってたね。」
「殴られろ。」
「いや~あんな小さい頃だけだよね。大人達の下らない規則と関係無く無邪気に振る舞って、ほんと天使だったよねぇ~…。」
ヘラヘラとおどけて、花に顔をよせてナルシストっぽい所作をしてみせるハルキ。俺は深い溜め息をついた。
「ハゲは、辛いよ……。」
◆6◇
その"異変"は唐突に現れた。
俺は今まで何の覚悟をしていたというのだろうと…思った。
◆◇
後ろめたい活動というのは、これだけ近代化してもなかなかどうして、暗い時刻に多いようで。夕方になるとハルキはよく仕事に出て行く。そうして深夜か朝方帰って来る事が多い。
出かけている間に、その日も俺は俺で仕事して、パソコンの前に居た。そして、メシを作って食った後、眼を癒すため庭に出ていた時。
けたたましく扉を開け放ち階段を駆け上がる音。身構えた俺は、とりあえずスコップに手をやる……。
庭への扉がバンとあき、――――転げ出てきたハルキが、俺を見てなぜか固まった。
「ハルキ……、どうしたんだよ?!」
もう何か嫌な事になった予感があった。
「追っ手はまいてきたけど…、ドジ踏んじゃった。トウジ。ごめん。」
◆◇
ハルキは憔悴していた。今まで見たことが無いくらい。
「お、れ…、俺ッ、腕斬られて…!」
確かに肘から手首への途中、服に血がしみている。
「深いのか?!…包帯持ってくるな。」
――いや、そうじゃない。頭の片隅で俺はそうわかっているが。
「ちがう!!…、…。」
小さく吼えてハルキが俺の服を掴むのは怪我をしている左手。
「あいつらの、――ッ!…ッ!」
ハルキは泣いていた。
びくびくと丸めた背中を震わせて、しゃくりあげるせいで言葉が出てこないのだろう。口元を覆った手に涙がポロポロと零れだす。
俺は背骨がゆっくりと凍っていくのを感じた。
「得物ッ…あいつら、毒付けるんだ…。斬られた、らッ、…終わり。」
「毒って…。ハルキ、病院行くぞ。立てるか…。」
「ムリ…!ッ、駄目。…今まで、何人も死んだ…。」
「いいから行くぞ!」
肩を掴んで歩かせようとすると、無茶苦茶にかぶりをふって、大声でハルキは泣きじゃくった。
「無理…!ムリって言っ、薬なんか、無い…!」
巷の殺傷事件では、未だ銃が手に入らないかわりに、刃物に塗って僅かでも斬りつければ死に至るという、劇薬がずいぶん前から出回っていると聞いた事はある。
"特効薬は無い"ということになっており、被害者は数多くでているが、その中で助かった者は、居なかった…筈だ。
でも、そんな確証のない話を考えているより、まずは医療機関に連れて行くのが先だ。
比較的都心部に近いここでは、病院までそんなにかからない。ただし……。
「…第一、そんな金、ないよ。」
ハルキが吐き捨てる。
医療行為は結局のところ金次第で治る治らないが決まる。貧乏人のささやかな貯金などでは、たいした処置をしてもらえず金だけ吸い取られるというのが現状なのだった。
それでも、諦める事など出来るはずがない。
保証人もいなければ信用も資産も無い身で銀行はムリだ…。闇金の利用が脳裏にちらついてくる。
「ハルキ、借金地獄の恐怖は知らない。それでも、命が第一だろ!とりあえず借りれるだけ借りてみるから、それで…。」
借りても足りなかったら、別の業者からもいけるだろうか。
肩にやった俺の手を、払うような仕草でハルキは拒否する。
「……なんとかする。大丈――」
「ふざけるな!!」
強烈な衝撃が走って、俺は倒れた。
……だが、少し咳き込むだけで、なるべくすぐに起き上がった。
痛みなんて気にもならない。殴り返して力ずくででも連れて行きたかったが、それは無理な話だ。
「こんな生活が、長く続くワケない、わかってんだよ!でも……それでもよかった……!!」
ハルキは爪を立てて両手で顔を覆い、しゃがみこんでそう言った。
……馬鹿か俺は。くそ、うんざりする。こいつはずっと掠り傷1つで命を落とすような、ギリギリの戦いをしてきて。そんな目に遭っても、帰ってくるとふざけてあんな風に笑っていたんだ…!
ハルキの前に膝をついて、どうすべきかもわからず、肩に置く手前で俺の手は止まった。
「ねぇ、俺、この庭好きだよ。……世界中の何処より、ここが良い。」
ゆっくりと両手の中から顔を上げ、泣き笑いの表情でハルキは雪柳を見やる。
「…ふふっ。」
「……。」
「こうなるの分かってて此処に来たけどさぁ。楽しかったけどさぁ、トウジ。やっぱり俺まだ嫌かな。」
「俺だってヤだよ…。」
俺死なないよ、とハルキは微かに呟いた。そして急に、今夜は庭に寝袋を出して眠ろうと、笑う。でも俺は、芝生に膝をついたまま、立ち上がれなかった。
「トウジ。…大丈夫だから。」
今度はハルキが言った。
「ッなにが、だいじょうぶ…!!」
「……此処に居る間はさ、少しは自分に正直に、なれたんだ。何も救えないけど。変えれないけど。でも俺は、少しはこう在りたいと思うような、マシな俺でいられた気がするんだよ。」
顔を拭う俺の肩を両腕で強く掴んで、ハルキは俺の眼を見る。
「……死なない。俺は死なないよ。絶対にトウジは俺が看取る。何であろうと関係ない。」
―――こいつが、こういう眼をする時は。もう俺には何も言えない。ずっと、こいつはこうやって戦ってきたんだ。受験の時も。師範に立ち向かう時も。この庭だけを頼りに親と縁を切った時も。たぶん仕事で殺し合いをする時も。
どんな無理難題を人生で強いられても、どれひとつとして、こいつには諦めることなんて許されなかった。戦う。一歩も退かずに戦ってきたんだ、こいつは、ずっとこういう眼をして。―――強い男だな。
俺は、なんとか声を出す。
「さっきは、悪かった。……お前を信じるよ。」
あぁ、――指をくわえて待つんだな、俺は。
このままじゃ死ぬってわかってるのに。こんな嘘まで吐いて。
何もせずに見守る事しか―――いや、見捨てる、事しかしてない。
何も、なんにも、―――散々守られといて、なんにも出来ずに死なせるんだな。
◆◇
ハルキの体が、呼吸に合わせて僅かに動いている。今はまだ、生きている。
やはり闇金からでも、金を用意出来ないか探しに行くべきかもしれない。軍用機の音に紛れるタイミングで、俺はそっと寝袋から出て―――袖を掴まれている事に気付いた。
「……いかないで。トウジ。」
しっかりした意志のある、凛とした声。
「…。」
胸がつまって、声が出ない俺は、ただ目の前のふわっとした茶髪と眼を伏せた睫毛がにじんでいくのを見ていた。この手を、どうやって振り払えるというのだ。
少しでもそばを離れた間に、ハルキが息を引き取ってしまうかもしれない。
だから、俺は此処にいなければならない。
そんな。
そんな事を自分に言い聞かせて、俺は寝袋に戻った。
ただ、寝袋に戻った。
◆7◇
「あかりをつけましょ爆弾に―――」
翌朝、ハルキは死んでいた。
朝方まで俺は眠らずに、横で看ていた。春輝の最期に黙って寝ているのがイヤで、ゆっくりと上下する肩を眺めながら、苦しげな寝息を聞いていたけど。
いつの間にか俺が眠ってしまった、その間に死んでいた。
―――イヤになる。本当に、最後まで俺は無力だ。
ごめんな、つって撫でた髪はいつものようにワックスでセットされたフワフワで、頬は残酷に冷たかった。
険しい表情の死に顔をして、最期まで戦い抜いたコイツの抜け殻に、もうアリが列を作っている。
俺は動けなくて、しばらくそれを見ていた。アリが、1匹、2匹、3匹、ハルキの額を横切って目の横を歩く。指で邪魔をすると、アリは眉毛に沿って進路を変えたり、俺の指に登ったり。
それから俺はいきなり立ち上がって、自分の部屋に行き、机の引き出しから貯金を全額持ち出すと、外へ出た。
◆◇
――約1時間後。
苦労して"買い物"を終えた俺は、戻ってきた。
「――ドカンと一発禿げアタマ。」
俺は庭の草花どもに最後の"水遣り"をする為に、ジョウロにガソリンを注いだ。
◆◇
―――晴れた日の、乾いた空気を吸い込みながら、ただ水色の空を眺める。
背中いっぱいに広がる芝生の感触は今日も心地良い。
俺はハルキと逆向きに、頭をつき合わせて寝転んでみた。
「はーーーぁ…。」
迷いなんて無かった。むしろこういう終わり方をするって事、最初から決まっていたんじゃねえかな、って思うくらいだ。
―――別にいいんだ。
俺はずっと独りで、ハルキのやつが此処へ来て初めて、他人と居ることを心地良いと感じた。
やっと、そんな事思うようになったんだ。
それが俺をのこして先に逝くというのなら。
―――冷蔵庫。車。ボールペン。毛布。どれも一緒にくたばってなんかやれなかったけど。
――今度くらい、いいだろ。
やっと手に入れた、大事な家族なんだ。
「……5人囃子も吹っ飛んで――」
―――クソ。声が詰まる。
まぶたを閉じ、目の前に広がる"世界"に別れを告げる。
「…今日は楽しいお葬式。」
ライターの火を、カチリと点ける。
――――それだけの動きが出来なかった。カタカタと手が震えている、俺は、死ねなかった。
―――死ねない。
肺が震えて、嗚咽が溢れ出てくる。
凍てつくような惨めさがいっぱいに広がる。
「……ふッ―!ぅッ、う゛…!」
みっともない声だ。
みっともない俺だ。
自分で命のケリさえつけられないなんて、なんて情けないんだ。
こんな事になっても、這いつくばってでも独りでも、……生きたいだなんて。
◆◇
ガンガン。ガンガンガン!バガン!
階下から、不穏な物音が響いた。
もちろん……心当たりはある。
―――「追っ手はまいてきたけど…、ドジ踏んじゃった。トウジ。ごめん。」
ハルキははっきりと"まいてきた"と言った。だが、俺もハルキも、その道のプロにしてみれば、全くの素人だ。家くらい簡単につきとめられてもおかしくない。
―――あるいは、今まで単に泳がされてただけとか。
すぐに気配は階段を上り、屋上の庭に出る扉をぶち壊しにかかる。
ガンガン!バギン!ゴン!ガン!!
ハルキは今回は朝方に帰ってくるはずだった。どんな任務だったのか知らないが、相手側からの報復にしろ、雇い主側からの制裁にしろ、今になって来るという事は、ハルキのヘマがバレたのは朝方になってみてだったのかもしれない。
―――水なんかやってないで、とっとと逃げてれば……。
―――いや、逃げるって、何処にだよ。
苦笑して、ゆっくりと寝返りをうった。
ガソリンの臭いのせいで、芝生の土の匂いはあまりわからない。朝の風はまだかなり冷えている。
―――あぁ、俺達には何処にも行く場所なんてない。この庭だけが、……。
ガンガンと響いていたドアを蹴破る音がとうとう不意に軽くなり、雪崩れ込んでくる人の足音に変わる。
―――詰んだな。
ゆらり、と青空に向かって片手を伸ばし。
「――ドカンと一発禿げアタマ。」
ライターの火を、カチリと点けた。
『―――何も救えないけど。変えれないけど。でも俺は、少しはこう在りたいと思うような、―――』
――自分で、いられただろうか。
<終>