9話目:暴走する少年
(どうしよう……)
宿舎にある自室の中で、ラクチェアはひとり頭を抱えていた。
自分の事を好きだと言ってくれたノエルに、自分の好きな人がバレたという現実は非常に気まずい。
(……でも、これでいいのかな。私は王子の気持ちを受け入れるつもりないんだし……)
テーブルの上に上体を投げ出す。冷たい木の感触が、熱くなっていた頬を冷やした。
窓の外は夜の闇。闇を照らす月の光はどこか哀しく見える。
(最後にエディル隊長と会った日も、こんな月明かりだったなあ)
エディルの事を思い出しても、もう胸は痛まない。ラクチェア達よりもセレネディア姫を選び国を捨てた覚悟を思えば、幸せになってほしいとさえ願う。
「……私、隊長の事……」
無意識に言葉が零れた。その声に応じるかのようなタイミングで、部屋の扉が叩かれる。
「副長、いますか? カミルです」
「え、わ、わわ、いる! いるよー!」
すっかり物思いに耽っていた所を急に現実に引き戻され、ラクチェアは慌てて椅子から立ち上がる。
扉を開けると真剣な顔をしたカミルと目が合った。どこか思い詰めたような。
「どうしたの? トビアスは一緒じゃないのね、珍し……」
「昼間来た王子が、副長に結婚を迫ってるって奴ですか」
ラクチェアの言葉を遮り、棘のある口調でカミルが問う。ラクチェア本人はその棘に気付かず……というよりは尋ねられた内容の方に意識が持っていかれた。
「そ、それは……べべ別に迫られているわけじゃないもの! だって……王子は優しいから……」
ノエルの花も綻ぶような笑顔が頭に浮かび、心臓が跳ねる。
穏やかで、純粋で、可愛くて、優しい人。思い出して胸が苦しくなるのは何故だろうか。
「あいつのせいで副長は迷惑していたんじゃないんですか」
「違う! 私……」
「あんな……あんな奴に副長の良さはわからないです。絶対、絶対……」
「カミル……?」
この時ようやくラクチェアはカミルの様子が不穏な事に気付いた。反射的に部屋の中へと一歩下がる。
逃げられると思ったのか、カミルはその腕を強く掴んだ。
「いた……っ」
目の前に立つ自分より幼い少年に、恐怖感を抱く。何が怖いのか、何が嫌なのか。それをラクチェアが知るより前に、カミルの体が部屋の中へと滑り込んできた。
「ちょ、ちょっと」
「絶対俺の方が好きです」
抗う間もなく抱きしめられ、耳元で切羽詰まった声が聞こえた。
「カミル? は、離して……」
剣の腕は立つと言っても、やはり腕力では男性に敵わない。ラクチェアがどんなにカミルの体から逃れようともがいても、それを許してはくれなかった。
ラクチェアの背筋がぞくりと震える。
「は、離せ! カミル・バークロー!」
「嫌です!」
カミルの体重に押され、足元がふらつく。床に置いてあった掃除用のバケツがラクチェアの足に引っ掛かり、二人はそのまま倒れるように転んだ。
思い切り床に打ち付けた背中が痛みを訴え、ラクチェアは顔をしかめた。
「……っ!」
動けないラクチェアの胸元に、無遠慮なカミルの手が伸びる。
「い、」
留めてあったボタンを上から外されていく。ぷちり、ぷちりと耳に届く音はカウントダウンのようにも思えた。
絶望へのカウントダウン。
「嫌! 嫌だってば! やめてカミル!」
カミルの腕はびくともしない。剣を持たないラクチェアは、あまりにも無力過ぎた。
「副長が好きです」
涙で滲む視界。その中にぼやけて見えたのは、同じように泣きそうなカミルの顔だった。
同じ「好き」という言葉なのに、どうしてこうも違うのだろうか。
カミルの「好き」。
ノエルの「好き」。
はにかむノエルの顔が浮かんでは消えた。
「王子……」
無意識に口から出た言葉。それを聞いたカミルが唇を噛んだ。
「何であいつの事呼ぶんですか」
(そんなの私が知りたい)
「あいつの事で困っていたんでしょう」
(だって傷付けたくなかったから)
「副長はあいつの事……」
(……もしも)
昼間ノエルが言いかけた言葉はなんだったのだろう。今ラクチェアが思っている事と一緒だとしたら。
(もしも王子が王族じゃなかったら……私はなんて答えたんだろう)
首にちくりとした痛みが走り、ラクチェアは我に返った。頭だけをわずかに持ち上げ視線を下に下げると、カミルの頭が見えた。
「やめて……っ、嫌!」
両腕は押さえ付けられて動かない。体をよじって逃れようとしても叶わない。
悔しさに涙が溢れた瞬間、カミルの体が勢い良く横に飛んだ。
「……あれ?」
「副長、大丈夫ですか!?」
そばに立っていたのは鞘に収まったままの剣を持っているトビアスと、それから。
「王子……?」
不安そうに心配そうに揺れるチェリークォーツの瞳。ノエルは無言で上着を脱ぎラクチェアに羽織らせ、ぎゅうっと抱きしめた。
先刻カミルに抱きしめられた時のような恐怖感はなく、浸み込むようなあたたかさに体の緊張が解けていく。
「トビアス、お前……」
「なんか様子がおかしいと思ったらお前は。いい加減にしろよ、次は鞘から抜くぞ」
よろよろと立ち上がるカミルに、トビアスは剣を向ける。
「うるさい! 邪魔すんなよ! 俺は、俺が、俺が一番副長の事……!」
ノエルの腕の中でラクチェアの肩がびくっと震えた。カミルの声が、言葉が、毒のようにじわじわと侵食していく。
ノエルはもう一度ラクチェアをぎゅっと強く抱き、その体を離した。遠ざかる温もりにラクチェアが不安げな瞳で見上げる。
安心させるように微笑み、ノエルはカミルのそばへと歩み寄った。
「なん、だよ」
「うん……ごめん!」
「!?」
突然謝ったかと思えば、次の瞬間にはノエルの手の平がカミルの頬を直撃していた。トビアスもラクチェアも驚いて目を見開く。
殴られた本人も呆気に取られて力が抜けたように床に座り込んだ。
「……っ、痛ぁー……」
そう呻いたのは殴った本人。手の平を冷ますようにぶんぶんと縦に振る。
「君はラクチェアの事好きなんでしょう?」
床に膝をつき、カミルと同じ目線で尋ねる。真っ直ぐに見つめる瞳は驚く程純粋で、けれど狙ったものを逃さない不思議な輝きを放っていた。
「本当は守りたかったんじゃないの?」
カミルを殴ったその手で、痛みを消そうとするかのように赤くなった頬を撫でる。
「お……俺……」
「間違えてはいけない。傷付ける事が愛情の表現だというのは……まあ稀にあるみたいだけど」
「王子! 説得力ないっすよ!」
「あ、あはは、ごめん。でも」
窓の外に月が見える。闇に沈むものを等しく照らす美しい天上の光。
その輝きが霞む程にノエルは優しく微笑んだ。
「カミルは違うでしょう?」
耳に溶けていく言葉。どこまでも優しくあたたかい言葉。
カミルからの応えを待つノエルの隣に、ラクチェアも膝をつく。
「……三ヶ月、減俸よ。……お腹、見せてちょうだい。トビアスったら手加減無しに殴ったでしょう」
「え! いや、だって副長の危機だったんですよー? つーかそれを言うなら王子が頬を叩いたのは?」
「王子の力で殴っても多分痣にもならないんじゃ……」
「ええー! ぼ、僕だって人並みに力はあるよー!」
のんきにぎゃあぎゃあと三人が騒ぐ声が、部屋を満たす。その声の合間を縫ってそれぞれの耳を掠めた小さな嗚咽。
「カミル」
そっとノエルに頭を抱き寄せられたカミルは涙を流していた。
「ごめんなさい……ごめん、なさい……」
繰り返し謝るカミル。彼がした事は簡単に許せる事ではなかったけれど。
「……いいよ」
ノエルの笑顔に引きずられたのか、ラクチェアも優しく微笑みカミルの髪を撫でた。