5話目:嘘つきの返事
連日楽しそうに薔薇園に足を運ぶノエル王子は、花の種類に詳しかった。種類だけでなく、土の状態や葉の病気の事にも興味を示す。
『お花、好きなんですね』
素直にそう感じたままを伝えると、王子は少しだけ頬を染めた。手元の薔薇を弄りながら、俯き沈黙する。言葉を探しているように見えた。
ラクチェアは薔薇の棘で王子が怪我をしないか、内心ヒヤヒヤしながら王子の口が開くのを待つ。
「……まだ誰にも話した事ないんだけど」
王子は花を撫でる手つきでさえ優しい。
「いつか、いつかね? 自分でひとつの庭園を作りたいんだ。花も自分で植えて、世話をして、綺麗に咲かせたい」
照れたように笑い、しゃがみ込む。ラクチェアも釣られて体勢を低くした。
「わかってるんだ、王子という立場の人間が見る夢じゃないって。第二王子としての役割は、国の為に結婚して……兄上がお困りの際にはお助けする。庭師なんかじゃない」
諦めた顔。投げやりにも思える口調。
笑顔が泣き顔に見えた。
「変だよね、僕が庭師なんて」
反射的にラクチェアは首を横に振った。王子に諦めてほしくないと、誰であれ夢を抱くのは自由なのだと伝えたかった。
ふと、セレネディア姫の姿が脳裏を過ぎる。
(姫も、同じように思っていた?)
国の為に望まぬ相手との結婚を決められ、自分の夢や幸せを諦めようと思っていたのだろうか。
差し延べられたエディルの手をとった時、彼女はどんな気持ちだったろう。
『素敵な夢です』
自分が王子にしてあげられる事は何もないけれど、せめて彼が見る夢だけは応援してあげたい。ラクチェアは紙を手渡し、その優しい手を握りしめた。
自分の言葉で伝えられない事がこんなにももどかしいものなのか。
「姫……」
ラクチェアは今ラクチェアとして王子の前にいるのではない。王子が見ているのはセレネディア姫。わかりきっているはずの事なのに、今はそれが何故か切なかった。
重なる手を見つめていた王子が、ふいに顔をあげた。その表情は何かを決心したような真剣なものだった。ラクチェアの鼓動が早くなる。
(あ……手、手離さなきゃ……)
「姫」
思わず「はい」と返事をしそうになり、出掛けた言葉をすんでで飲み込む。任務だからと常に気を引き締めてきたから、そんな事はなかったのに。涙を流した日でさえ。
(任務だから。責任だから。これは、演技だから)
頭の中で繰り返し繰り返し自分に言い聞かせる。
手を離さなければと思うのに、磁石でくっついているかのように離れない。手の平に感じる王子の熱が、段々とラクチェアの体を侵食していく。
思考が、熱で溶けてしまいそうだと思った。
「姫、結婚してください」
一際高く心臓が跳ねる。その場から逃げ出したい衝動に駆られ、無意識にラクチェアは首を横に振った。
「い、嫌……?」
傷付いた王子の顔に、もう一度首を振る。
「……あのね、最初は……本当は迷ってた。自分で決めてここに来たけれど、……お見合いする事、その先の結婚の事まで考えるのは、少し憂鬱だったよ。それが王子としての役割だってわかっていても、好きではない人と結婚するという事に抵抗があったんだ」
握っていた手はいつの間にか握られていて、もう逃げられない。その気になれば振り払う事も出来たけれど、そんな事出来ないのはラクチェアが一番わかっていた。
ノエル王子は花のように微笑んでみせる。
「でもね、姫と一緒だったらきっと楽しい。姫だから結婚したい。……駄目かな?」
姫が言われている事だ。ラクチェアに言っているわけじゃない。
(返事、書かなきゃ……結婚しますって、伝えなきゃ)
体が石のように固まって動かない。
その時、カテリーナの声が聞こえた。
「王子ー! 明日の打ち合わせを……」
突然声を掛けられ、王子はびくりと反応して手を離す。一瞬間を置き、ラクチェアはドレスの裾を摘んで走り出していた。背中に感じる王子の視線から逃げるように、次第に速度を上げていく。
息を切らせ姫の部屋まで戻ると、閉めた扉に背を預けズルズルと座り込んだ。心臓がうるさいのは、走ったせいだけではない。
(どうしよう。なんで、逃げちゃったの。どうしよう……わかんない……わかんないよ……)
泣きたくなって、膝に顔を埋めた。
*****
「よくやりました! で、返事はちゃんとしたんでしょうね?」
珍しく手放しでフォルスに褒められたが、嬉しさは感じない。
「まだです」
「馬鹿ですか。さっさと返事をして結婚を決めてください。こちらも今全力で姫を捜しているんですから」
あっさり態度を翻され、ラクチェアはうなだれる。自分がやらなければいけない事はわかっているはずなのに、実行出来ていない現実を責められている気がした。
それでも昨日よりはだいぶ落ち着き、平静を取り戻している。
(これは別に私の返事じゃないもの。あくまで姫の返事だから、大丈夫)
深呼吸をして、頬を軽く叩いた。
「今日は時計塔で王子に国民の前へ立っていただく予定になっていましたね。その時に結婚報告もしてしまいましょう」
「わ、わかりました」
それまでに返事をしろと、遠回しなプレッシャーをかけられ、ラクチェアは背筋を伸ばす。
ぎくしゃくとまるで壊れた人形のような動きのまま、執務室を後にした。
*****
王子の部屋の前までどうにかたどり着くと、また心臓が大きな音を立て始めた。数回深呼吸をし、勢いを持って扉を叩く。
カチャリと開かれた扉の隙間から見えたのはカテリーナ。ラクチェアの姿を確認すると、盛大ににやけてラクチェアを部屋の中へ引っ張り込んだ。
「王子ーっ、お待ちかねの姫ですよ!」
「あ、ひ、姫……」
椅子に座っていた王子が、ラクチェアを見て慌てて立ち上がる。そのまま足をもつれさせて床に倒れる。
思わず駆け寄りしゃがみ込んだラクチェアに、王子は苦笑いをしてみせた。
「あはは、全然かっこつかないなあ。ごめんね」
よく転ぶ王子に驚きはするものの、それが格好悪いとは思わない。ラクチェアは首を横に振り、床に座ったままの王子の手に紙を握らせた。
まえもって書いてきた言葉。それを王子が読み切る瞬間まで、ラクチェアの心臓は壊れそうなくらい早鐘を打っていた。
「え……えと、本当? いいの? 大丈夫なの?」
紙とラクチェアを交互に見ながら、王子は何度も尋ねる。改めて頷くと、目を輝かせてラクチェアに抱きついた。
「ありがとう! 嬉しい! 凄く嬉しい!」
まさかの行動に、ラクチェアは体を強張らせる。体中が熱い。
「なんですか、上手くいったんですか?」
一部始終を見ていたカテリーナは、王子が手に持つ紙を覗き込んだ。
『私も王子と一緒なら、きっと楽しいです』
ラクチェアが考えた、精一杯の返事。それは少し幼くて、まだ固い薔薇の蕾のような発展途上の言葉。甘く香しい愛の言葉を綴る事は、どうしても出来なかった。
「へー、ほー。ふぅーん。……良かったじゃないですかあ王子。一晩中うじうじしてましたもんねー」
「う、うじうじはしてないでしょ」
カテリーナにからかわれ、王子が唇を尖らせる。
「じゃあ今日時計塔のトコで結婚報告しちゃいましょうよ。せっかくだし」
フォルスが言っていた事と同じ事を提案され、ラクチェアは頷く。王子も「そうだね」と承諾した。
明日には王子達は国へ帰る。次に会うのは結婚式を挙げる時だろう。これでラクチェアの任務も終わる。次に会う時は婚約者ではなく、守護隊の副長としてだ。
(初めましてじゃないのに、初めましてって言わなきゃならないのね)
過ごした時間をすべて白紙に戻し、初めて会う人間として接しなければならない。そう考えると、少し寂しい。
抱きしめられた体勢のままで、ぼんやりとそんな事が頭の中をぐるぐると回っていた。