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姫君への軌跡  作者: 瀬川メル
4章
21/60

21話目:疑惑の彼女

 扉の前で深呼吸。二度三度繰り返し、早鐘を打つ胸を押さえた。


(落ち着け私。いつも通り、いつも通り)


 扉の向こうにノエルがいるのだと思うと、ラクチェアの心臓は落ち着くどころか一層高鳴る。緊張で体もがちがちに固まっていた。


(もう……何でこんなに緊張するの? 今までみたいに普通に接するだけなのよ、大丈夫なんだから。ほら、ノックして、声が返ってきたら「ラクチェアですが、お探しのようだったので」って。たったそれだけよ。よし! うん! さあ!)


 気を引き締め、扉を叩こうと右手を上げる。その時、ノエルでない人物の声が中から聞こえてきた。


「照れてます? まーったく、可愛いんですからー」


 カテリーナの声。ノエルしかいないものと思っていたラクチェアは、びくりと右手を止めた。


「本当にカテリーナは遠慮がないよね」


 呆れたようなノエルの声。溜め息と一緒に零れたその言葉は二人の親しさを表しているようで、ラクチェアはほんの少しだけ寂しさを覚える。

 まるで二人の間には、誰も入る事など出来ないように思えた。


(だ、だから……っ、今更じゃない。お二人の仲が良いのは今に始まった事じゃ……)

「ふふ、私と王子の仲ですもん。遠慮する方がみずくさいでしょ」


 ラクチェアの右手は完全に下ろされ、所謂立ち聞き状態になっていた。ラクチェアの知らないノエルを、カテリーナは知っている。その事実が分厚い壁として二人とラクチェアの間にそびえ立っているのだ。

 どうしても扉を開ける勇気が出なかった。


「今は他人でしょ」


 その言葉を聞いた瞬間、ラクチェアは天地がひっくり返るような感覚に陥った。今立っているのはどこなのか、本当に立っているのか、もしかしたら落ちているのではないのか。世界が揺れ、気付いた時には走り出していた。

 遠ざかっていく扉と、その向こうから聞こえてくる楽しそうな笑い声。


(今は他人? 前は他人じゃなかったって事? それとも)


 胸が苦しいのは、走っているせいだけではない。


(これから他人じゃなくなるって事?)


 恋人だった過去があるのか。それとも近い将来結婚するのだろうか。いつまでも振り向かないラクチェアを好きでい続ける理由などないから。

 カテリーナはノエルの付き人をしているくらいだから貴族の出だろう。身分には何の問題もない。

 問題だらけだったのは、ラクチェアの方だから。


(良かったじゃない、私は王子からの気持ちは受け取れなかったんだから。これで良かったんだわ)


 笑おうとして、頬がぎこちなく引き攣った。心にぽっかりと穴が空いてしまったように、空虚感が支配する。

 城の外まで走り切ったラクチェアは、おぼつかない足どりで隊舎へと歩き出した。


(カテリーナさんは、素敵な方。綺麗だし、……胸も大きいし。マリアベルだって、華奢で女の子らしくて可愛い。王子の周りには素敵な女性ばかりいる)


 荒れた手の平、生傷が絶えない体、ヒールさえ満足に履きこなす事も出来ないラクチェア。わかっていたはずなのに、あまりにノエルに相応しくない自分が酷く恥ずかしかった。


(……いいのよ、だって)

「なんだ小娘。王子の所へ行ったんじゃなかったのか」


 突然後ろから声をかけられ、ラクチェアの肩が揺れる。振り向けばゲレオンが訝しげな顔をして近付いてきていた。

 隣に肩を並べ、ラクチェアの様子を窺いつつ口を開く。


「何かあったのか」

「……なんにも! 早く帰って稽古しなきゃ!」

「自分の事になると嘘が下手だな。見ている方からすると滑稽だ」


 空元気をばっさりと切り捨てられ、ラクチェアは絶句する。次の言葉を探せど探せど霧が充満した思考の中では何も見えてこない。


「あの坊やと何かあったんだろう。別れでも告げられたか?」

「……いっそ、その方がいいんだわ」


 平静を装ったつもりの声は震え、わずかに視界が滲んだ。そんなはずはないと何度もラクチェアは自分に言い聞かせる。


「だって私は王子の事友人としか思ってないもの。王子が好きになってくれたって、私は……」

「自主規制は楽しいか?」


 遮ったゲレオンの言葉がラクチェアの心をえぐる。頬を温かい物が伝った。


「言ったろう、滑稽だと。自分に嘘をつく行為はいずれ刃になる」


 立ち止まったラクチェアを置き去りに、ゲレオンは前を向いたまま歩いていく。


「お前は傷付くのが怖いだけだろう、阿呆め」


 吐き捨てられた最後の言葉は、心に深く刺さって抜けなかった。ゲレオンが悪いわけではない。彼の言葉は、的を射ていた。

 自分が傷付きたくなくて、ノエルの気持ちを受け入れなかった。自分自身の気持ちを、見ないフリをした。言い聞かせ続けた言葉は、傷を負わない為の予防。


「……でも、言えないよ……今更……」


 溢れた涙が頬を、顎を、服を、地面を濡らす。立っていられなくなったラクチェアは、ついに膝を折った。


「言えない……」


 気付く事を恐れていた気持ち。心の奥底にしまい、扉に鍵を掛け、それでも無くす事の出来なかった想い。

 いつからだったのか、ラクチェアにもわからない。


(私、王子が好き……)

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